一章……(挿話) 【弱さからの拒絶】
それは、酷い悪夢だった。
「……ハァハァ、ハァ。ママっ! どうして、なんでなの。私はここにいるよ? 私がっ、私が美歌だよ? やめッ――」
美歌は飛び起きる。
そして夢うつつな頭のまま、夢の中で……あの時母親に届かなかった、届かせたかった叫びを口にする。魘されていた美歌の顔はそれはとても悲痛な表情で、幼い子供が今にも泣き出してしまいそうな弱さを含んだ表情。
「ハァっ……ケホっ、ゲホ、ゲホッ」
荒い呼吸と血走った目で咳き込みつつ辺りを見回せば、暗闇の中。夜の帳。遅れて「夢か――」と、思考が回る。つまるところ全ては在りし日の夢だったという安堵と共に、どうしようもない昔日への叶う事ない望念を抱いてしまうのだ。
「……最悪ね」
掛けて眠っていた布団を退かし、胸と下半身の肌着だけを身につけた素肌をベッドの上で露わにする彼女。その後、頭から足のつま先までの全身を両手でペタペタと触っていき、自分が“人間”の姿形である事を確認し強く実感する。悪夢から持ち帰った激情と半覚醒の熱が抜け始め、ようやっと人心地が付きベットに倒れ込んだ。
目が暗闇に慣れ、写真立て、机、椅子、本棚、洋服掛け、姿見の鏡、ゴミ箱。そんな普段通りの自室の様子が露になる。
一度大きく息を吐くと、
「はぁ、ゲホッ、ゴホ、ゴホッ。
最悪の目覚めね。この夢、何度目よ?」
意味も無いのに、夢に対して不満を洩らす。
「全部、全部……。この現実の方が、あの頃の私の夢だったら良かったのに……」
美歌は暗闇の中で顔を歪めて、その獣のような鋭く光る瞳から滴を溢した。
「おはよう、ママ、パパ」
美歌は寝起きの憂鬱な気分を晴らす為、机の上の写真立てに納めてある、両親と幼い自分の写った家族写真に朝の挨拶をする。
そして「おはよう」と、朝の挨拶をしたからには一日が始まってしまう。心境と汗で湿った身体ではこれから二度寝する気にもなれずに、普段起きている時間に比べてかなり早めの起床をする事に決めてベッドから足を降ろした。
「ママ……パパ、ごめんね」
何故だか少しフラつく足取りで机の前まで行き写真立てを手に取ると、写真に写る両親を指でなぞった美歌。
「……ママがあんな事になったの、今パパがすごく苦労してるの。全部、バケモノになった私のせい。普通の人間じゃない私のせいだよね?」
美歌の見ていたのは、実際にあった出来事を自分自身の視点で追体験する夢。始めて変化した獣の姿を母親に見られ、拒絶された場面。母親が壊れてしまった場面。そこで美歌は耐えきれなくなって目覚めてしまった。
――だが勿論この先、今現在に至るまでの過程の時間は存在している。美歌一人の力では過去の全てを割り切り、清算し、目前の足場の壊れた未来を進む、前に進む為の力はもはや無い。美歌の時間は、始めて“獣”となったあの日で止まったまま、ずっと縛られている。
「ママにはさ、あの姿の私の事を、私だって認めて欲しかったな……」
ただ、自身の存在を全て肯定して認めてくれる人と居場所が欲しい。自身が前に進む為の力をくれる物が欲しい。美歌が願うのはそれだけ。でも望みの成就を何かに懇願して、間を置かずに、叶いっこ無いと直ぐ様否定する。
「……もう。とっくに諦めてるわよ」
これまで美歌の近くに寄ってきたのは、顔や身体の外見の特徴しか見ていないどうしようもない人間ばかり。それか勝手な嫉妬や憎悪を陰で隠れて向けてくる奴。又は、どちらでもないお節介さんか偽善者か。
結局、同じような境遇にある“彼女”は除き、誰一人として美歌自身はおろか内面まで見てくれる人間は現れなかった。自身の態度や性格にも問題が有る事は薄々承知しているものの、今更に改めようもないことだし。他人と近付けば近付く程に、あの獣のような姿を知られてしまうリスクが付き纏う。だから、もう諦めた。
「ママ。それじゃ私、今日も頑張るね?」
――そして美歌の一日は、
まず身の回りの“確認”から始まる。
「……はぁ、これ。ゲホ、ゲホッ! 久しぶりにベッドが毛だらけね……私の毛……よね?」
美歌が部屋の明かりを付けると、
先程まで彼女の寝ていたベッドシーツには人間の髪の毛とは明らかに異なるふわふわとした黒い獣毛が散らばっていた。
「最近は大丈夫だったのに。……あんな夢を見たせい? それとも、何だかちょっと体調悪いのかしら? ゴホッ、コホ」
睡眠中に姿が変わったのか。美歌はその毛のうち一本を摘まんで手に取ると、穢らわしい物でも見るように顔を歪ませ、直ぐに机の引き出しの中に用意してあるガムテープを取り出してベッドの上に散らばる毛をペタペタと除去する作業を始めた。
「なんか獣臭い……ような気がする。私の気のせいかも知れないけど」
テープを使った毛の除去が終わると。
美歌は次に部屋の匂いが気になり、洋服掛けに引っ掻けてある消臭用のスプレーを持ち出して、それを部屋の隅から隅まで念入りに噴射してゆく。
「あっ、あれ? いつの間にか、スプレーの容器が空っぽになってる? 部屋がびしょびしょだし。はぁ、私……何やってんだか。私、本当に今日はどうしたのかしら? ゴホッ、ケホ」
スプレーの中身がとっくに空になっても暫く気付かないで、ぼーっと同じ行動を繰り返していた自身に表情を曇らす美歌。
「まあ、いいわ。あとは鏡ね?」
気を取り直し、
美歌は姿見で自身の身体を確認する。
「酷い顔……顔と目が真っ赤。でも、それ以外の問題はないか……ケホッ」
姿見に映ったのは、美歌の普段の姿。獣の耳も尻尾も獣毛なども無い、綺麗な白い肌。涙を流した為か顔と瞳は赤かったが、彼女にとってはさして問題にはならない。
「良し。良し。シャワー浴びて、さっさと学校行く準備しよう……ゴホッ」
――もしもこの時、美歌が自分の体調不良にしっかり気付く事ができて、この日、学校を休むという選択をしていれば……この後の悲劇は確実に回避出来ていただろう。だが同時に、それは彼女にとって大切な出会いの機会を棒に振ってしまう選択でもあったのは間違い無い。
~~♪
「……ん? これは、パパからのメールの受信音だった……かしら?」
その時、部屋の中のどこかから、携帯電話がメールの受信を伝える音を鳴らした。
「携帯。……たしか、学校の鞄に入れっぱなしにしてたんだったっけ?」
どうせメールをしてくれる人間なんて限られている。だから、彼女の携帯は充電する時以外、直前に使用したバックや鞄の中に仕舞われている。結構ずぼらな美歌さん。
「有った」
学生鞄から携帯電話を発見したとほぼ同時に美歌の耳に聞き慣れた、玄関の扉が開いて閉まる金具が軋む音が聞こえた。
「パパ、そっか、そういえば、このくらいの時間から出勤だったわね。ゴホッ、家を出る前にメールくれたの?」
美歌が部屋のカーテンを少し捲ると、ちょうど家から出た父親の車が朝明けの中を走って行くのが見えた。
「……パパがメールなんて、珍しい。
要件があるんだったら、私に会ったときに直接言えばいいのに」
そう言いながらも、彼女は久しぶりに自分の携帯に届いたメールを少しだけ嬉しそうに確認してみる。でも、
「…………」
美歌は、
「パパ……それは、勘違いだよ」
メールを読んでみると、
その内容に不満を隠せなかった。
そのまま感情に任せて、携帯をベッドの上に放り投げてしまう。
「もう……会いたくないわ。今更、会えないわよ。会って意味が有るとも思えない――」
もはや、美歌の大好きだった母親は。美歌を娘として愛してくれた母親は居ない。母親と認識できる女の姿は自身の記憶の中か、写真立ての写真の中にしか居なかった。
――ベッドの上に転がる携帯の画面には、暫くの間、父親から届いたメールが表示されたままで放置されていた。
~ ~ ~
【送信先:神波鳴 歌也 (お父さん)】
【宛先:美歌】
【題名:メールで起こしちゃったらごめん】
【お父さんから美歌へ】
【 伝えそびれてたけどな。今日はお父さん仕事を早く切り上げて、その後に、お母さんに会いに行く予定なんだ。だから美歌も今日は学校を昼前くらいに早退して、お父さんと一緒に会いに行かないかな?
まだ、無理ならそれでいいんだ。
でも、あれから五、六年くらい経つんだ。そろそろ美歌もお母さんと向き合って、三人で家族をやり直す時期じゃないかと思う。】
【神波鳴 歌也 (お父さん)】
〜 〜 〜
時は、半日と少し進んだ。もう日暮れ。
また、夢を観ているのだろう。
――見詰めるのは、
彼女にとって、いつかの自分。
――見詰め返すは、
彼女にとって、今現在の自分。
幼く、あどけなく、何気ない日々が満たされていた。そんな、まだ普通の女の子として過ごせていた時代の自分自身が目の前に居る。深く考える事なく夢かと理解した。
あの日以降。変わってしまい、全て壊れてしまった。そんな、最悪な現実の中で意味も無い日々を送る現在の自分が対面している。とても奇妙な場面だ、夢に決まっている。
「ねえ?」
見詰め合いの最中、片方の彼女がもう一人の自身へと声を掛けた。“幼き日”の彼女だ。
「嫌っッ、またあの時の私の夢なの? 嫌よ、思い出させないでよッ!! もうこれ以上、私を苦しめないでよ……!」
そう言って、見詰め合いから先に目を逸らして逃げたのは“現在”の彼女だった。後退りながら強く強く拒絶する。
「あなたは、誰?」
幼い方の彼女は、不思議そうな眼差しでそんな現在の自分自身を見詰め続ける。
「グウゥゥ……」
現在の彼女がその眼差しに“見ないで”という意味で返した言葉は……もう、ただの唸り声に他ならない。人間の言葉が出ない。自身の口先が視界に映る。唸り声しか出せない。
「グッ? ガァァッ?! グァガ!?」
――そう、唸り声に他ならない。
何故ならば、幼い頃の姿とは言えど、自分自身の姿からさえ逃げてしまったのだ。彼女はもう、この場所で“彼女”のままの姿形でいる事は許されず。そこに居るのは穢らわしいと逃避していた筈の姿“獣”の姿に他ならなかった。
「うーん?」
そして、人間では“獣”の言葉が解るはずもない。だから幼い彼女はキョトンと首を傾げて、獣が何を自分に伝えようとしたのかを理解しようとする。……見詰め合っていた存在が人間でなくなった事など、別に気にも止めずに……いや、元々そこに居たのが成長した現在の自分自身ではなく、一匹の獣だったかのように。
「ねー、大きなワンちゃん? どうしたの?
お腹でも空いてるの? ……もしかして私を美味しそうって思ってて、隙があったら襲って食べちゃおうって狙ってるの?」
現在の彼女……いや、幼い少女が眺める只の獣。その獣はマズルと尻尾を下げて、どこか哀愁を帯びたような、恨めしいような瞳を彼女に返す。
「むー冗談だよ、そんな怖い目しないで。
……それよりも、うーん? ワンちゃん、なんだか元気無さそうだねぇ?」
幼い少女は、獣が自分に危害を加える存在でないと理解しているのか。すぐ側まで近づき、寄り添って、優しくその黒い毛皮を撫で始める。
「むー、そっか。何となくわかったよ。ワンちゃん、きっと寂しいんだね? 首輪と、それに繋ぐ鎖とか紐も無いし……たぶん、一緒に暮らしてた飼い主の人にでも捨てられちゃたのかな?」
「……」
「……それまで家族だったのに。一方的にそこに居る事を否定されて、それで居場所が無くなっちゃったのかな?」
「……ウゥ」
獣は一度だけ低く唸ると目を細め、身体を地面に伏せの体勢で下ろして、抵抗等せずに幼い少女の小さな手にされるがまま撫でられ続けた。
「もー、美歌ーどこにいるの? ねーそろそろ帰るわよ? パパ帰ってくる前に、晩御飯の支度しないとぅ!」
少し経って、母親が子供に呼び掛けるような優しい声が辺りに響く。
「ママが呼んでる。
わたし、そろそろ行かなくちゃ!」
幼い少女は響いた声を聞くと。獣を撫でる手を止めてそう言い、全身の服に付いたふわふわした毛をパンパンと払う。
「ワンちゃん、ごめんなさい。もう私、行くね? ナデナデさせてくれてありがとう」
そう獣に挨拶して手を振ると、幼い少女は光に包まれた景色の先に駆け出してしまう。
「グゥ」
……だが、チラッと獣の様子を振り返って見てみて、心残りでもあったのか? トコトコとすぐに引き返してきた。
「――そのままなら、自由かも知れない。他人に縛られる事が無いから、ある意味では楽なのかも知れないね?」
戻ってきた幼い少女は、中身が豹変したように大人びた声と表情で、突然に獣へ語りかけ始める。同時に、夢の世界にノイズが入り、辺りの景色に靄がかかり出した。
「……グゥ?」
「……でも。これから……死ぬまでずっと一匹で生きて行くのって、もの凄い大変な事だと思うな。ワンちゃん、アナタは身体が大きくて、見た目は狂暴そうで恐いけどさ。
……それが、何か問題あるのかな?」
「……ガゥ」
「知ってるよ。アナタは黙って私に身体を撫でさせてくれるような、すごく優しいワンちゃんだって事。だから、自信を持って。そうすれば、いつか繋がりの紐をアナタに結んでくれる人が現れるはず。いや、もう切っ掛けは結ばれてるのかも知れない……」
「…………」
「あなたが本心で望むなら、そのチャンスを絶対に逃しちゃいけないからね?」
「…………」
幼い美歌の姿をしていた者、その姿がぶれて声はそのままに黒塗りの何かとしか認識できなくなった。ノイズが酷い。もう白黒の世界としか周囲の様子を言い表す事ができない。
「わたしは、縁。我は、心身。あなたが望んだ筈の願い。語りの身。ともすれば淵との縁。せんだくのぜんだく。否――」
幼い彼女の言葉は、獣にとって、とても意味ありげな物だった。が、何を言いたいのかまるで解らない。それっきり、声さえも聞こえなくなった。
「…………」
「――じゃあ、さよなら。今の“私”」
夢の中から現実に獣を送り出すかのよう。その空間にもう聞こえなくなったと思った幼い彼女の声が響き渡る。黒い何かは、最後に地面に伏せたままの美歌の頭を一撫ですると。闇と光の中に駆けて行き、消えた……。
~ ~ ~
「あ、あれ……私?」
聞き慣れた車のエンジンが掛かる音が耳に入って、目が覚めた美歌。
「ふ、はぁ……変な夢。変な、夢?」
欠伸をしてベッドからゆっくりと起き上がりカーテンを捲ると、見慣れた父親の軽自動車が車庫から出て走って行くのが見えた。
「パパ、出掛けたみたいね。今は何時? もう……18時。この時間だと買い出しかしら?」
孝に送られて帰宅した後、そのまま自室に込もって横になり。具合の悪さから、今までの間ずっと深い深い夢の中に沈んでいた美歌。
「はぁ、また、ベッドが毛だらけね……」
美歌は呟くものの。
朝とは違い、自分の身体や毛だらけのベッドの状況には意識をあまり向けれないで。左右に身体と尻尾をゆっくり揺らしながら、ベッドの前でただ佇む。
「変な夢って、……私、何の夢を見てたんだっけ? わからない、覚えてないわ。ただの意味の無い夢だったんだと思うけど」
そう言いながらも美歌は顎に手を当てて、何とか今さっきまでの夢の内容を思い出そうとしてみる。ただの夢に過ぎなくても。そこに重要な意味があった気がしたから。どうしてか、自身にとっては忘れてはいけない内容だった気がしたから。
「ダメ、思い出せないわ……」
だけど、夢の内容の一欠片さえ思い出す事は叶わなかった。その代わりに、
『――神波鳴さん!!
……友達から始めませんか?』
『――仲良くなれる気がしたんだ』
『――僕自身がそう思ったんだよ、だからこその友達申請なんだっ!!』
『――とりあえず僕とキミに“縁”はできたよね?』
『神波鳴さん? あれ……今笑った?』
『……ずっと、保留のままでもいいから』
――昼間のクラスメイトの言葉が頭を過る。
「はぁ、何で関係ない事なのに」
美歌は夢とは直接関係ないだろう、昼間の余計な事ばかり思い返してしまう。
「これ以上、私を苦しめないで……」
そうしている間に、どんどん余計なドロドロとした感情が肥大してしまい。もう他の事は考えられそうにない。
「狩仁くん。アナタが悪いのよ。こんなどうしようもない私に、無理に構うから。何も知らないくせに私を苦しめるから。だから、ごめんなさい……」
だから夢の事は置いておき。
美歌は……感情の原因を清算してしまう選択をした。それが、夢の中の幼い自分が言った言葉を否定してしまう選択だとは……塵ほども気付くこと無く。
携帯電話を探し、学校の教室に置いてきてしまった事に気付き。家の固定電話に急ぎ足で向かった美歌はどこへやら電話をかけた。
『はあーい? 葛職だよ!
もしも~し。どちら様かな?』
受話器から聴こえる、昼間に美歌が話したのと同じ声の“誰か”。
「……雫、私よ」
美歌はあの“謎の声”に対して呼んだのと同じ名前を、自分が電話を掛けた相手にも同じように呼んだ。つまるところ声の正体が電話の相手【葛織 雫】だ。
『あぁ、大親友のミカちゃんじゃん。
携帯じゃなくて、家の電話から掛けてきてるんだね? 自分に直接電話くれる人なんてミカ以外にほぼ居ないから、一体誰かと思ったよ! 体調はあれからどうかな?』
「……体調はあまり良くない。でもある程度は良くなった気がする。それより、ちょうど起きてて良かったわ。雫、悪いけどお願いがあるの」