猫の尾を追いかけて
ある週末、猫のような女と生真面目な男の話。
忙しい日々の中でどうにか手に入れた二人の時間は尊いものである。が、なぜに、どうして斯様に気まずいのだろうか――
同居人から恋人となって初めての休日を控えた夜、あとは風呂に入って寝るばかりとなった時間に理彰はひとつ唸って目を閉じる。
彼が腰を据えるのは革張りのラブソファ。膝の上では彼の恋人、雨華が頭をのせて悠々と横たわり、退屈そうにテレビを観ていた。
些か窮屈と理彰が身じろぎしてみても、彼女がそれを気に留める様子はなく、ぼんやりと肘掛けから投げ出した脚をただゆらゆらと揺らすのみ。
スピーカーから聴こえてくるコメディアンの軽快な掛け合いと観客の笑い声、画面に映し出されたぴかぴかとした華やかな世界とは対照的に、二人の間には沈滞した空気が流れていた。
理彰は色恋といったものとは無縁の世界で生きてきた。
公平であることを重んじる彼は恋慕などという感情は要らぬものであると考えたのだ。
ただ目の前の仕事を片付けるのみ、己の使命を全うすることこそが至上の喜びである、と、そう思っていたか。
あるいは、誰か特定の者に入れ込むことが怖かったのか――
とかく理彰という男は、色恋とは無縁の世界で生きてきた。
では彼が雨華に対し恋慕の感情を抱いたのは、いつだったか。
膝の上の温もりを感じながら、理彰は考えた。
初めて出会ったあのとき、雨華の理彰に対する第一印象は間違いなく最悪なものだった。
碌に話も聞かずに人を悪だと決めつける酷い男――あの日、怒りと悲しみに揺れた瞳の奥、彼女はそのようなことを思っていたに違いない。
理彰もまた、雨華のことは身勝手で可愛げのない女だと、そう思っていた。
それがどうしてこうなったのか。
惹かれ合うこととなったきっかけは理彰にはわからない。わからないが、雨華の身勝手の中にある素直さが、可愛げのない強がりが、拙い気遣いが、どうしようもなく愛おしく思えるようになっていたのだ。
雨華のことはひとりの女として、大切にしたいとそう思っている。そこに間違いも嘘もない。
それでも理彰には、どのように愛情を示せば良いのかはまだよくわからなかった。
「雨華」
少し緊張した様子で理彰が膝の上、流れる髪を撫でて声をかけると、雨華は視線をテレビから理彰へと移して欠伸とともに返事をした。
「はい……?」
面倒くさそうな、間の抜けた声には色気も何もあったものではない。
雨華は目尻の涙を拭うと訝しげに、眉間に皺を寄せ理彰に問う。
「なんです?」
彼女の前髪が、さらりと流れた。
あまり愛情表現というものが得意ではない理彰のことである。
いつもと違った理彰の様子に、彼女はほんの少しの戸惑いを覚えたに違いない。が、それはまた理彰も同じことである。
「いや、その」
雨華の反応は理彰が想像していたものとは少し違った。まさかそのように素っ気ない態度をとられるとは思ってもみなかったのだ。
やっとの思いで発したのは「明日は休みだな」という一言のみ。
本当なら「どこか行きたいところはないか」と続けるはずだったのだが、その問いは彼の頭からすっかり抜け落ちてしまっていた。
どうにもいつもの自分ではいられない、と理彰は赤らんだ顔をふいと背ける。
彼女にこうも心を乱されるのはなぜか、答えなどとうに出ているというのに、それでも考えずにはいられなかった。
そういえば、と理彰は思考を巡らせる。
考えずにはいられないとき、雨華はどうすると言っていただろうか。
理彰は記憶の在り処を探すように視線を宙に彷徨わせ、そして雨華へと視線を戻した。
記憶は曖昧、答えは見つけられそうにもなく、取り繕うことも、できそうになかったのだ。
見下ろした先の彼女は未だ、不思議そうに理彰を見つめていた。
二人のソファの向かい、テレビのバラエティ番組も一度コマーシャルへ。気まずいと再びそらした視線、理彰が顔を上げた先ではファストフード店のフライドチキンが音を立てて油の中を泳いでいた。
その様子をぼんやりと眺める気まずさの中、食欲をそそる音と共に鳴いたのは雨華の腹で、そしてそれとほぼ同時。
「理彰、お腹が空きました」
「雨華、何か食べるか」
視線をテレビへと向けたまま、口を開いたのは二人だった。
まるで図ったかのようなタイミングに、理彰の顔は自然と綻んだ。
二人顔を見合わせると、雨華はくすくすと笑って手を伸ばす。
白く細い手は理彰の唇へと運ばれ、彼女は「安心しました」とその笑みをなぞってみせた。そして理彰がその意味を問うよりも前に、言葉を付け足し、今度は茶化すように、いたずらっぽく雨華は笑った。
「ずっと怖い顔してたからちょっと不安だったんです」
その瞬間、理彰は目からうろこが落ちたような、まるで頓悟したかのような感覚を覚えた。うっすらと桃色に頬を染めた雨華を見つめたまま、言葉を失った――
「理彰?」
我が物顔のように見えた雨華でも、内心では不安だったのである。
やはり、考えすぎるのは良くないようだ、と、理彰は自分自身に呆れたように小さく苦笑する。
それから雨華の頬を包むように撫で、ひとつ微笑み、言葉をかけた。
「出かけるぞ」
どのように振る舞えばよいか、わからないのはきっとお互い様だったのだろう。
ともすれば、二人にこれ以上の思考は不要なのだ。
「支度をして来い」
必要なのは言葉だけ。雨華に立ち上がるように促すと、彼女は嬉しげに、跳ねるように寝室のクローゼットへと駆けていく。
「デート、楽しみですね」
そう言った彼女の横顔に見えた頬は赤く、口元にははにかんだ笑みがたたえられていた。
しかし、ここで理彰は首を傾げて固まった。彼女の笑みとは反対、先程の微笑みから一転、理彰の口は真一文字に結ばれ、いつのまにか眉間には皺が寄っていた。
「デート、とは……」
思えばずっと、多忙な日々が続いていたと理彰は考える。付き合い始めてからというもの、二人はデートらしいデートをしたことはなかった。
口づけはおろか抱擁すらできていないこの現状で、雨華はこちらからのアクションを待っているはずなのである。ではデートで何をどうして何から動いていいものか、理彰にはわからなかったのだ。
特別なこと、とは何をすれば良いのだろうか――
先ほどまで膝の上でくつろいでいた肌の柔らかさ、唇をなぞった指の細さが、理彰の脳裏に焼き付いて離れなかった。
理彰の顔は赤い。年甲斐もなく何をと髪をかき乱し、頭を冷やし身支度をすべく立ち上がったが、その足はくにゃりとふらつき思うようには動かない。
後から襲ってきたこそばゆい感覚に、足が痺れたのだとすぐに気がついたが、どうしてだか胸までもこそばゆかった。
心臓の音は理彰を煽るように高く大きく鳴っている。
理彰はゆっくり、つま先からなぞるように足を擦った。そうして触れたそばからじんじんと走る痺れに、感嘆の息を漏らす。
足に残った感覚は彼女が先ほどまで膝の上で甘えていた証。不快であるはずの足の痺れが妙に心地良く感じられるのだから不思議な話で、理彰は初めての感覚を確かめるよう、忘れぬようにまたもう一度、雨華が残した熱に触れるのだ。
思慕、恋慕などというものはおそらくこういうものなのだろう。
それは理彰がいつか、遠い過去に不要だと捨て去った、あるいは胸の奥に仕舞い込んだ情だった。
物思いに耽り、ひとりまごつき、そして平静さを取り戻した理彰は今度こそ、これ以上の思考は不要なのだと心づく。
ふと目についたテレビの画面には夜の街と流れる景色。耳触りの良い音楽とキャッチーなフレーズは流行りの車のコマーシャルで、車を走らせるのも悪くない、と理彰はおもむろにキーを取り出すのだった。
支度をしてくると駆けていった雨華はなかなか戻っては来ない。
そのまま十分、二十分と時間は経ち、理彰が支度を済ませ、茶を飲み、ひと息ついたころに、リビングの扉は開かれる。
「随分と時間をかけたな」
普段身支度に時間をかけない彼女がここまでするのは珍しい。どれほどめかしこんだのだと冗談混じりに理彰は振り向いたが、そこに雨華の姿はなかった。
扉の向こう、ガラス越しに影がゆらゆらと動いている。
どうしたのかと理彰が声をかけると、雨華は恥ずかしそうに、おずおずと顔を出す。
「頑張ってみました」
どうでしょうかと、様子をうかがうように笑った雨華は理彰が見たことのない雨華だった。
ふわり、揺れる雨華の髪は毛先がゆるく巻かれている。優しげに色づく頬は柔らかな杏、弧を描いた唇は淡い珊瑚のよう。
「これは驚いた」
目を丸くした理彰が雨華に近づきその顔を覗き込むと、爽やかな花の香りがいたずらっぽく彼の鼻腔をくすぐった。
くらりとしたのは香りが強かったからか、雨華の顔を直視するのが照れくさかったからか、理彰は咄嗟に目をそらす。
自分が恥じらいを見せてどうするのだ、と思った。なんだか負けたような気がしてすぐに視線は戻したが、雨華は、今度は得意満面な笑みで理彰を見上げていた。
「さ、おでかけしましょう」
瞼に乗った細やかなラメがちかちかとひかり、理彰の目を奪う。勝ち誇ったような雨華の顔に「やはり恋とは厄介なものだ」と諦めの笑みをみせるしかなかった。
「じゃあ、この手をとってくれ――」
手を引くように理彰は歩きだす。告げた言葉のあと、数歩後ろ、耳まで赤く染めた雨華の顔を理彰は知らない。
◆
街を駆ける車の中、流れる夜景を見つめる雨華の横顔は、期待に満ち溢れていた。嬉しげに細められる彼女の瞳の中では街のネオンが星のように煌めいている。
「雨華、食いたいものはあるか」
折角雨華が綺麗に着飾ったのだ。予約などしてはいないが彼女の装いに見合う店に連れて行きたいと、理彰はそう思った。
飾り気のない車内、聞こえるのは走行音とカーラジオ。普段は聴かないファンクなミュージックがいつもと違う夜を、刻んでいた。
返事はなかなか返ってこない。理彰が横目で一瞥すると、雨華は考え込むように俯いていた。着慣れないワンピース、広がったスカートのレースを弄ぶ彼女は些か緊張気味か。
信号待ちの交差点で、どうしたと理彰が声をかけると、雨華は困ったような笑顔を見せる。
「たくさんありすぎて困っちゃいます」
焦げ茶の髪がふわりと揺れて、それから雨華は食べたいものを思いつく次第に並べたてた。ラーメン、牛丼、ハンバーガー、フライドチキンにピザ、カレー……彼女が食べたいと並べたものは理彰が想像していたものとは違っている。しかし、それでも、そのどれもが実に雨華らしかった。
「それなりの店には連れていけるのだが……まあいいか」
ジャンクフードばかりではないかとほんの少しの呆れ笑い。雨華は、食べられるのならなんでも良いのである。気を使ったわけではないことなど、理彰には分かりきっていた。
他には何かあるか、と問うた理彰の目は優しげ、雨華はそんな理彰の表情をみて、嬉しげに目を細める。
「じゃあ、お肉。焼肉がいいです」
互いに仕事ばかりで忙しかったから精をつけたいのだと、雨華は言う。彼女の髪が、からかうように愉しげに揺れた。
「わかった」
理彰が了承とともにカーナビを立ち上げると、彼女はそっと、運転席へと身を乗り出す。甘くスパイシーなフレグランスの香りが、ふわりと漂った。
理彰は不覚にも、いや、覚悟はしていたはずであるが、どきりとした。もしかしたらこのまま口づけでもされるのではないかと、期待したのだ。
「どうした?」
理彰がたまらず声をかけると、雨華ははっとした顔をふいと背けた。
「私、たくさん食べるので食べ放題にしたほうが良いですよ!」
窓の外を眺め、そう忠告した彼女の赤く染まった頬の色は、薄暗い車内では理彰にはわからなかった。
「安心しろ。甲斐性はある」
一方、平静を装いナビの操作を続ける理彰はがっかりした、とも違う、どちらかというと安心したような表情である。
何かアクションを起こすのなら自分から――理彰は心のどこかでそう思っていたのかもしれない。
「別に、そんなことが言いたかったわけじゃ……」
歯切れ悪く、言葉を濁した雨華を尻目に店の位置を確認。理彰が近く、駅ビルの立体駐車場を目的地に設定すると、ちょうど信号が青に変わるところだった。
動き出した車と、流れ始める景色、都会の夜は、光に溢れていた。
理彰は外を眺める雨華に一言、声をかける。
「今夜は俺に格好つけさせてくれ……」
そして言葉のあとに続いた小さな咳払いは照れ隠し。
まもなく目的地、音声案内がやけに大きく聞こえたような気がした。
雨華の視線は相変わらず、窓の向こうである。案内を終了したナビと、発券機の無機質な声が、二人の間の静寂に飲み込まれるように消えた。
それからほどなくしてバックブザーと、サイドブレーキをかける音、エンジンが止まる音が順繰りに到着を告げる。理彰が車を降りる前、雨華は小さなため息のあとに、拗ねるように呟いた。
「わざわざ格好なんてつけなくても理彰はうんとかっこいいですよ」
理彰の心臓がどきりと揺れる。どこか熱を帯びたような、嘘偽りのない彼女の言葉が理彰の体を熱くした。
それは良かった、と理彰はまたひとつ、咳払い。
雨華へと視線を移すと、ガラスに触れたしなやかな指が、くるり、くるりと線を描いていた。
そして理彰がそれに気がついたのは、助手席のドアを開けるべく、車を降りたとき。
助手席側、曇った窓に描かれたハートマーク。雨華は理彰の視線に気が付いているのかいないのか、ゆるゆると線をなぞっている。
雨華の目は、唇は、優しげに、愛おしげに弧を描いていた。
「……ここから少し歩くが、いいな?」
ドアを開けるとコンクリートの上、こつこつと踵を鳴らして雨華が車から足を下ろす。
雨華は立ち上がり頷くと「エスコートお願いします」といたずらっぽく笑った。
いつもより高い、十五センチのヒールが彼女のすらりとした脚を際立たせ、二人の距離をより一層近づける。
歩くたびにふわりと巻かれた雨華の髪が揺れ、それが理彰の目を奪った。毛の先からつま先まで、すべてが愛おしいと、そう思った。
信号待ち、理彰が隣の雨華を見下ろしていると、彼女は理彰を見上げて問う。
「理彰、腕を組んでもいいですか?」
頬を染めた雨華は控えめに手を出し、理彰のジャケットの裾を掴む。理彰がかまわないと腕を差し出すと、雨華は腕を絡め、もじもじと膝を擦り合わせた。
「大丈夫か?」
「本当はもっとちゃんと歩けると思ったんですけど、おしゃれも難しいですね」
信号は青、再び歩きだした雨華の足取りはおぼつかないものである。
慣れないピンヒールは歩きにくいと苦笑い、ごめんなさいと謝する雨華は「初めてのデート、無理ぐらいさせてください」と付け足して、理彰の腕を抱き寄せた。
「迷惑なんてかけません。おんぶも抱っこもいりません。だから、今はこのまま歩きたい気分なんです」
「気が済むまで、付き合ってやる」
伏し目がち、ぽつぽつと零した雨華の言葉を拾い上げる。理彰は空いた腕で雨華の頭を撫でると、歩幅を狭めるのだった。
週末の夜、賑やかな街でカップルはさほど珍しいものでもない。しばらく歩いた先、目的地の焼肉屋に到着すると、理彰はまた、雨華の頭を撫でた。
「よく頑張ったな。好きなだけ食っていいぞ――」
かんばせを綻ばせた雨華の目は、ただ理彰を見つめている。
彼女の小さな口、目一杯上がった口角は店まるごと食らい尽くすとでも言うような、意地の悪い笑みを浮かべていた。
◆
雨華と訪れた焼肉店、退店後の理彰は不可解であると首を傾げていた。
いつもであるなら、にこやかにメニューの端から端までを注文する勢いの彼女なのだが、今日に限ってやけにしおらしいのである。
想像していたよりゼロがひとつ少ない領収書を、理彰はまじまじと見つめた。
雨華は値段に怖気づくような女でもなければ、食べることを遠慮をするような女でもない。では、食欲がないのか、気まぐれに少食を気取ってみたのか。どちらにしても雨華らしくない、と理彰は眉をひそめた。
「理彰、おいしかったですね。ありがとうございます」
駐車場へと戻る道すがら、改めて、と雨華が礼を言う。足取りは軽やかで、唇には笑みがたたえられている。
おいしかった、と言った雨華の言葉に嘘はなかった。店に着いたときにも、肉を食べているときにも、彼女の顔から笑みが消えることはなかった。
おいしいものはおいしそうに食べる――いつだったか彼女が言った言葉の通り、雨華はそれはそれは楽しげに、嬉しげに、肉を、米を頬張っていたのだ。
「礼はいい。それより、いつもの食欲はどうした?」
領収書を財布にしまい、思ったままを問いかける。
柔らかな夜風が吹き抜けた。雨華の髪が揺れ、スカートがふわりと膨らむ。
理彰を見上げた雨華は、唇をぺろりと舐め、にやり、笑った。
「最初にお腹を膨らせてどうするんです? 折角のデートなんです。もったいないでしょう?」
「まさかお前」
「お腹いっぱいにしてくださいな」
流石に予想外。理彰はため息ひとつ、頭を抱えた。
食べる量がいつもよりおとなしかったとはいえ、雨華はそれなりに食べたはずなのである。
理彰は家に帰ってのんびりとするつもりだったのだ。それがまさかおかわりを要求されるとは思ってもみなかった。
やはり遠慮を知らぬ女である。理彰は仕方なしと唸り、頷き、スマートフォンを取り出した。
格好つけさせろ、と言ってしまった手前、雨華の頼みを断るわけにはいかなかった。
何より、と理彰は雨華を見下ろす。
雨華の瞳はきらきらと光っている。口元の笑みは堪えても堪えきれぬといった風なもので、まるで新しい玩具を前にした子どものような、そんな笑みである。
理彰は、雨華の素直な笑みが好きだった。
「今度は何が望みだ?」
理彰の表情もふと緩む。空いた手で髪を梳いてやると、雨華はより一層顔を綻ばせた。
そしてひとつ先の交差点、青信号を確認すると、今度は理彰の手を引き駆け出すのだ。
「じゃあ、車へ戻りましょう!」
「おい!」
歩きにくいと言っていたその姿はどこへやら、踵を鳴らして駆けるその足は止まらない。
跳ねるように飛ぶように、軽やかに走る雨華の姿に、まるで化かされた気分だと、理彰はただ笑うしかなかった。
人目も気にせずにひたすらに駆けて、気付けば駅前、駐車場の入り口。理彰に手を引かれてエレベーターに乗り込んだ雨華は肩で息をしていた。
「足を捻っちゃうかと思いました」
けらけらと笑う雨華はエレベーターのボタンを操作すると理彰の体にしなだれる。何食わぬ顔で走っていても、やはり十五センチのピンヒール、相当走りづらかったのだろう。
だが雨華は加減というものを知らないらしい。必要以上に近い距離、絡みつくように抱きつくのはいかがなものか。
理彰は雨華の頭を撫で、頭上に取り付けられた監視カメラを一瞥。それからやんわりとその体を押し返した。
「このような場所で引っ付かれては困る」
街に無数にある監視カメラの映像。よほどのことでもない限り熱心にみる者などいないことはわかっていたが、それでも気恥ずかしい。
押し返した手の触れた先、雨華の細く、しかし柔らかな肌の感触に、やけに胸が高鳴った。
「じゃあ、車の中でなら?」
雨華の明るい茶色の瞳に照明のあかりが反射し、黄色く光る。いたずらっぽく、挑発的な口元に一瞬、ぞくりとした。甘ったるい香りに軽く目眩を催した。
しかしだ。雨華の目を見るに、どうやら本気で言っているわけではないらしく、瞳の、ほんの少しの揺れには躊躇いが見られた。
つまり雨華はただからかっているだけ――
ならばこのまま、ここで口づけをしたら彼女はどのような顔をするのだろうか。湧き上がったのはほんの少しの悪戯心。
そうして理彰が雨華の頬に手を伸ばしたときだ。
小さな箱は目的の階へと止まり、扉が開かれる。
我に戻った理彰は戯れに煽った雨華と、そして浅ましい感情を抱いた自分自身に「阿呆」と一言呟き、かぶりを振った。
嘆息と笑み、劣情を振り切り車へと戻る理彰のその顔はどこか、苦々しいもの。一方の雨華は、面白くて仕方がないといったような無邪気な表情で理彰の顔を見上げていた。
お酒を飲んだら運転はやめましょう――無機質なナビゲーターの声を聞き流し、理彰は助手席でリップを塗り直す雨華に問いかける。
「さあ、これからどうする?」
食いたいものを教えろ、理彰はスマートフォンを眺めながら付け足した。グルメ情報サイト開き、店を探す準備をする。
薄暗い車内で光る画面が、理彰の顔を青白く照らした。
雨華の返事は少し遅れてからだった。アプリコットの唇、ミラーに向かい笑みをつくり、それからぽつりと呟いた。
「そうですねー、私、遠くに行きたいです」
「……飯を食う気ではなかったのか」
呆れ顔の理彰に、気分が変わったと雨華は顔を近づける。
良いことを思いつきました、とにんまり笑う彼女の顔は、何か碌でもないことを考えているときの顔に違いはなく、理彰は頭の隅、どこかがズキズキと痛むのを感じた。
ラジオから聞こえてくる透明感のある歌声が二人の間を通り抜ける。浮遊感のある電子音、嫌に軽いドラムの音が、ちくちくと肌を刺す。
雨華は理彰の服、袖を掴んで提案する。
「どっか遠くまで、びゅーんと行っちゃいましょう」
やはり、碌でもないことを考えていたか。
頭を抱えてため息、首を振ってまたため息、理彰はしばし考え込んだあと、身勝手な彼女の顔を苛立たしげに、睨むように一瞥した。
雨華は出掛けるときのような、期待に満ち溢れた目で理彰を見つめている。
きっと彼女は知っているのだ。なんだかんだと理彰がわがままを聞いてくれること、理彰が自分を好いてくれていることを。
睨んで数秒、見つめて十秒、理彰はふっと頬をゆるめると、雨華の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「ああ! せっかく可愛くセットしたのに! もう、理彰は――」
幸いにも明日からは連休、一晩、二晩の夜更かしぐらいどうということはない。
喚く雨華に口づけて、理彰はにやりと歯を見せ笑う。
「少し静かにしていろ」
耳まで赤く染め、何も言えずにいる雨華の髪を、今度は整えるように梳いてから、理彰は車を発進させた。
「これでいいか?」
「仕方ないですね、許してあげます」
理彰は突拍子もないことを言い出す雨華が好きだった。
自分には思いもつかないことをする雨華が好きだった。
自分ひとりでは得られない体験を与えてくれる雨華が好きだった。
何より彼は、彼女の笑顔を愛している。
「どこまで行く」
「どこかで朝日を拝みましょう」
「風呂は」
「どこかで入りましょう」
「着替えは」
「なくても構いません」
首都高速の流れに乗って、テールライトを追いかけた。
夜はまだまだこれからで、朝はまだまだ先にある。
仙狸は円熟するのです(https://ncode.syosetu.com/n2647cq/)から理彰と雨華。