異世界に来ても風邪を引いたんだが
不覚にも、風邪を引いてしまった。
宿のベッドで丸まりながら激しく咳き込む。運が悪いことに、今日は女将さんが留守にしていた。
因みにこうなったのは完全に自業自得である。入隊式の後、配属の発表までまだ日があるからと油断して夜中まで遊んでいたからだ。
この国は、四季の概念がない代わりに昼夜で露骨な温度差が生じる。調子に乗って薄着で居たのが不味かった。まだまだ慣れていないのだ。
来週の頭には配属だというのに、この調子では先が思いやられる。
と、不意に戸を叩かれた。申し訳ないが客人をもてなしている余裕はない。鼻声で入室を促すと、見知った顔が二人現れる。
「元気かー? 昨日咳き込んでたから様子見に来てやったぞー」
トムソンとジェンソンだ。二人は昨日トーヤと一緒に飲んでいたにも関わらず、ピンピンしているようだった。するい。
「お前達は平気なのか……」
訊ねると、ジェンソンは呆れ顔で言う。
「酔っていようが夜は着込む。この国じゃ常識だよ」
残念ながらシュヴァル人一年生のトーヤにそんな常識はなかった。知識としては、あるのだが。
「ほんっと知らないんだな、お前」
トムソンにまで呆れられてしまった。流石にもうこの環境にも慣れなければならないだろう。
「別れる前にくしゃみしてたから、心配になってきてみたら案の定これだからね。まあでも来てよかったよ」
呆れつつ、彼らはそれぞれバッグからウォッカのボトルとチーズを取り出した。ここはスポーツドリンクとインスタントのおかゆが出て来る場面ではないのか。いや、この世界にそれはないんだった。
それにしたってそのチョイスはおかしいだろう。
(ははーんさてはこいつら俺をからかって遊んでいるな?)
世間知らずのトーヤに冗談を吹き込む……以前に何度かやられたことだ。そのせいで温泉に水着を持っていって大恥をかいた。俺の中の日本人はその日憤死した。
「風邪といったらこれだよな。俺達は用があるから帰るけど、早く元気になれよ」
しかし様子がおかしい。彼らはごく真面目にそう言うと、そのまま別れを告げて帰ってしまう。今度は本当なのだろうか。いいや、そんなわけがない。どうせトーヤがこれを飲もうとしたところで戻ってくるのだろう。今度は騙されまいと少し待つことにした。
それでも彼らは戻ってこない。ネタバラシがないなら、これは冗談ではないということだ。信じられない。
風邪を引いたらウォッカとチーズ。得体の知れない文化だ。アルコールで消毒しろということだろうか。北方の野蛮人でもあるまいし。
胡乱な瞳でボトルを見つめていると、戸を叩く音が聞こえた。ああ、やはり冗談だったのだ。耐性がついているのを見越して焦らしてきたのだろう。
立ち上がる元気はあったので、ベッドを抜け出し扉を開ける。
「流石にそう何度も騙されないぞー」
信じかけていたのだが、言わなければバレやしない。したり顔をしていたであろう二人に先手を……二人?
おかしい。ひとりに見える。それに、トムソンでもジェンソンでもなくイグレットの姿だ。幻覚でも見えているのだろうか? 思ったよりも症状は深刻だったらしい。
トーヤが困惑していると、人影はイグレットの声で言った。困ったような声は、聞き間違うはずのないものだ。
「あー……どうしたの?」
間違いない。これは幻覚などではなく、イグレットそのひとだ。
「……どうしてここに?」
この世界にはSNSどころかスマホすらない。彼女がトーヤの病状を知る術はなかった。一緒に出かけたりはするが、理由なく訪ねてくるような仲ではない。
「君が風邪を引いたって、トムソンとジェンソンが教えてくれたんだよ。そこの広場で会ったんだけどね」
トーヤは心中で親切な二人に謝罪した。疑ってすまなかった……と。
「ところでそのウォッカとチーズは?」
「その二人がさっき置いてったんだ。風邪といったらこれだって」
すると彼女は気の毒そうに苦笑する。
「それ……騙されてると思う」
謝罪して損した。
「ウォッカは……もう少し北の方ではそういう文化もあるけど……でも別に風邪引いてなくても飲んでるからなあ……」
あるのか。野蛮人め。
「あー……いいよ別に。もう慣れた」
トーヤもトーヤでジェンソンのくせ毛を玩具にしているのでお互い様だ。それにしてもどっと疲れた。溜息を吐くと、彼女は思い出したように言う。
「ああ、でもこのウォッカとチーズはかなり値が張る奴だよ。元気になって、時間ができたら飲んでもいいんじゃない?」
彼らなりの気遣いはあったらしい。憎めない友人達に思いを馳せながら、ここに彼女を呼んでくれた彼らの真意を考える。
「……じゃあさ」
風邪を引いているからか、大したことでもないのに口が乾いた。唾液でそれを潤わせながら、言葉を紡ぐ。
「その時は、一緒に飲もう」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
続く