第一章9 『そうして世界は作られた』
異様な緊迫感を伴った握手を済ませ、朔磨は何とか乾いた笑みを取り戻す。強気にならねば、呑まれると悟った。大人びた不気味な笑顔をたたえる眼前の少女は、どうやらこちらの第一声を待っているようだ。ごくりと喉を鳴らして、朔磨はしばしの静謐を破る。
「で、ドクター、だっけか。あんたは組織の事情に詳しいのか?」
「まあそれなりに、というのが一番適切じゃな」
朔磨の問いに、ドクターは目を瞑り頭を掻く。全貌は知らないが一端くらいは、といったところだろうか。この少女はそのことに関して特別興味も持っていないように見えるし、嘘をついている気配はない。早う本題に踏み込めい、と声が聞こえてきそうなほどじっとりとした瞳が朔磨を見つめる。
やはり『ドクター』というのであれば、朔磨がするべき質問はこれしかないのだろうか。
元より聞くつもりだったのだ。ここで足踏みしていては何も始まらないではないか。
「じゃあ……リトライ、まあ、こう言ったほうがわかりやすいか。『時間遡行』について、あんたはどれだけ知っている?」
人差し指は差し出せないので代わりに片目を瞑り、本命のほうの問いを提示する。リトライなどと呼称しているが、実際にはそう呼ぶのが正しいのだろう。
リトライという単語にドクターはピクリと片眉を上げ、時間遡行というフレーズで今まで隠していたのであろういやらしい笑みを完全に露わにし口の端を歪ませた。朔磨はその笑顔に本能的な恐怖を覚え、小さく背筋を震わせる。敢えてその状況を表現するのならば、『蛇に睨まれた蛙』というのが一番適切であろう。それほど、その少女の眼光には得体のしれない恐ろしい何かがあった。
「時間遡行。ふむう。興味深い話じゃ。詳しく聞こうかいの」
そう言ってドクターは頬杖をつく。柔らかそうな頬がむにりとへこんだ。
何を今更白々しいと言ってもいいのだが、向こうも朔磨が今どれほどその現象を把握できているか知りたいのだろう。この返答にはったりは混ぜ込みようがないし、まずそのような局面でもない。何だか将棋を一手一手吟味しながら打っているようで、頭が痛くなってくる。現状、こちらが飛車角落ちで尚且つ防戦一方のような状態だ。慎重に打っていかなければ、すぐに王手を指されてしまう。
「俺が今分かってるのは、死んだら過去のある地点に戻されるってことだけ。それ以外はまったく知らない。だから、その知らない部分をあんたらに教えてほしいんだ」
ふうんと頬を膨らますドクターは、さほど意外ではなさそうだった。
「……その答えを儂が教えんかったら、どうするつもりじゃ?」
「ここまで引っ張っておいて、そんなお預けはないはずだろ。わざわざ俺を試す真似をして、あんたみたいな重要そうな人物まで出張ってな。組織ってのはそんな非合理なことはしない」
そうとも。組織の一番の優先順位は、いつだって目的なのだ。
「それを差し引いても、儂らは口を噤むかもしれんぞ?」
「もしそんなことしたら末代まで祟ってやるよ」
「悪いが呪いなぞ既に背負いすぎていてな。今更じゃ。千が千一になったところでたいして変わらんじゃろうて」
何でもないという風にひらひらと手を振ってみせるドクター。恐らく脚色も何もしていないのであろうその話に、最早何も感じなくなったのは、朔磨の感覚が既に麻痺してしまったのを表しているのだろうか。それは、死ぬより恐ろしいことなのではないか。そんな考えがふと頭を過る。朔磨の知る現実を、正常を忘却の彼方に置き去り、異常へとその足を運んでいく。そのことに、気づくことさえできなくなったら、自分はどうなってしまうのだろうか。多分、人はそれを、狂気というのだろう。
趣旨を見失った考えを、頭を振って軌道修正する。すぐに思考が脇道に逸れるのは悪い癖だ。朔磨は自覚しているつもりだが、かといって自分の悪癖を容易く修正できることはそれとイコールの関係ではない。
「で、結局どっちなんだ?教えてくれるのか、くれないのか」
「教えてやろう。おんしの言った通り、儂ら個人はともかくとして組織は無駄が嫌いじゃからな」
けらけらと笑うドクターはさながら普通の童女のようだ。さながらなんて見立ての意を込めた言葉を用いたのは勿論、彼女はそれとは本質的に、根本から違えた存在であるからである。
「じゃがそれを説明するにはまず、世界の真理から語らねばなるまいでな」
「やけに壮大なところから始まるのな」
「この大前提がないと、如何せん理解が追いつかんであろうと思うてな」
揚げ足をとるような朔磨の相槌にも、ドクターは楽しそうに正しい理由を提示する。どうやらそのやり取りを嫌がってはいないようだし、思ったよりは張り詰めず、円滑に説明を聞けそうだ。
「ご配慮に感謝するよ」
「どうも。でまあその真理なんじゃが、おんし、なんじゃと思う?」
にやにやと厭らしい笑みを浮かべてドクターが朔磨に問いかける。前言撤回。面倒くさいタイプだ。円滑どころか行き詰まりの予感しかしない。今は一刻を争う事態と考えている朔磨にとって、その問いは苛立ちを誘う文句でしかなかった。
「……さっさと答えろ」
「うっへ、怖い怖い。冗談じゃて。次からは真面目に話すで安心せい」
鬼気迫る顔をして低い声で恫喝する朔磨に対し、その眼前の少女はお遊戯でもやっているかのような顔つきだ。こちらを舐め腐っているというよりは、殆どが眼中にないのだろう。
「この世に存在する全てのものは、それ独自の『周波』を持っている」
ドクターは笑みを崩さずに人差し指を立てた。
「……で、それが今回の話とどう関係してくる?」
「重要なのはこの後じゃ。万物が周波を持つということはつまり、その万物が存在するこの世、つまり『世界』も、周波を持っている。世界線という考えを、おんしは知っているかな」
「ああ、詳しくは知らないけど、パラレルワールド? みたいな感じか」
朔磨の浅はかな発言に、ドクターの顔が今日一番に険しくなる。あ、やってしまったか、と朔磨が思う頃にはもう彼女は話を始めていた。
「それは違うな。腐っても科学者として明確に否定させて貰おう。世界線とはいわば、時空の中で物質が動く経路じゃ。本当に簡単に言うのであればそれだけで事足りる。一方でパラレルワールドは、『多世界解釈』とも呼ばれ、無数の可能性の中、観測されているものだけが『世界』として認識されている、というもの。本当はあらゆる可能性が重なり合っているのだ、という考えじゃ。根本が違う。……極端に説明するとこのくらいかの」
「わ、分かったよ。つまり世界線とパラレルワールドは別物ってことな」
むきになったように解説を並べ立てるドクター。心なしか少し不機嫌そうだ。やはり一般人が科学用語を間違った認識で用いているのは彼女なりに許せない部分があるのかもしれない。
彼女の意外な部分、いやそればかりなのだが、また違ったカテゴリでの新たな一面を見た気がした。自分が科学者であることへの自負は何とか捨ててはいないようだ。それを感じて、朔磨は何故か少し安心する。当然なのだけれど、彼女も自分と同じ人間であることが実感できて、それが自分は嬉しいのかもしれない。朔磨は誰にも分らないくらい小さく苦笑した。
「うむ。ま、今の段階ではそれが分かっておればよい。詳細についてはおんしが興味を持ったとき熱弁してやろう」
「お、おう。そん時は頼むよ……」
にやりと笑うドクターと、思わず顔が引きつる朔磨。そんな日はどうやら来なさそうだ。というか正直来ないでほしい。
「話を元に戻して、と。まあ言いたいことは、その世界線も例に漏れず周波を持っているということじゃ。そんでもってこの周波がまた厄介での。……さっきパラレルワールドの話をしたが、あれと似たような感覚で、やはり世界には無数の可能性が『あり得た』んじゃ。しかし今存在しているのはこの世界線一つだけ。……おかしいと思わんか」
「何がだ?」
朔磨が聞いている限りでは、ドクターの言葉に疑問点は見つからない。
「地球に生命が誕生する確率は、一部では『25メートルプールに時計を分解し入れ、それをかき混ぜて再度元の形に組み立てられる確率』と同じだとさえ言われている。その可能性の中、人類が誕生し、文明を作り上げ、現在に至る事象が構成される確率は、一体いくつだったじゃろうな?」
ドクターはわざとらしく嫌味さえ感じるような問いを朔磨に投げ、ちらりと横目で彼を見た。
背筋がぞくりと震え、全身に軽く鳥肌が立つ。確かに考えてみれば、膨大な量の余事象が存在する。そこから一つだけ抜き取った事象がそれである、という奇跡じみた考え方は朔磨はそこまで好きではないし、科学というものはあまりそういう偶然の産物には寛容でないように感じた。
「そ、それじゃあ、誰かの意図が……!?」
「ま、地球が誕生する以前にも以後にもそれが起こることが確定となるほどの膨大な時間はあった。その間に宇宙では試行が幾度となく繰り返され、結果としてこの世界が出来上がったんじゃろな」
「ええええッ!!?」
興味などないという風に投下された爆弾発言。
あれだけ好奇心やら何やらを煽っておいてあっさりと極論を投げたドクターに、朔磨は動揺を隠せない。それで片付くならば、今までの話は全て無駄だったではないか。時間を返せ。朔磨は首を曲げ項垂れる。
「あ、あんたなあ、自分で言い出したことを――」
「と、いうのが、一般的な解釈じゃ」
突如、朔磨の悪態がドクターの淡々とした声に遮られた。
思わず項垂れていた頭を上げた朔磨に、ドクターは不敵な笑みをたたえる。それは何かも知れない頼もしさと同時に、世界の概念を塗り替えてしまいそうな悍ましさを孕んでいて。
「儂は違う。そう言い切れるだけの、根拠も持っている」
そういうと彼女は、ぶかぶかの白衣のポケットから、何かの装置らしきものを取り出した。四角く、スマートフォンを厚くしたような形だ。
「……それは?」
恐る恐る朔磨は尋ねる。ドクターがその装置のディスプレイを朔磨に見せる。そこには、無機質な数字の羅列が、細かく細かく並んでいた。目が悪い者なら、それらが数字であるということに気付くことさえ時間がかかりそうなほど。
「これは儂が開発した、『世界』限定の周波の記録計じゃ。といっても本体は別の場所にあるんじゃがの。で、周波というのは、それが『再構成』された時に変化する。ここ重要じゃ」
「で、それが何だっていうんだ?」
未だ朔磨にはドクターの言わんとしていることが分からない。何か大きなものが目の前にあり、しかしそれは霧に隠れいて見ることができない。そんな感覚を、朔磨は酷くじれったい気持ちで味わっていた。
「ほれ、見てみい。数字が気持ち悪いくらい並んどるじゃろ。儂の計算によれば、こいつは『世界』が誕生した時点では、まだ二桁じゃった」
「…………は?」
この数えるのも馬鹿らしくなるような数字が、元は二桁だと?
朔磨はディスプレイとドクターの顔を交互に見やる。ドクターは興奮したようにずいっと前屈みになり話を続けた。
「初めに比べてそいつは、見た限りでも億倍にはなっとる。つまりこれがどういうことかは、分かるな? クドウサクマ」
霧が晴れていく。彼女の言いたいことは分かった。ただ、どうにも理解が追いつきそうにない。
呆気にとられる朔磨に言い聞かせるように、ドクターは得意気に朗々と結論を語る。全貌を現したそれを有無を言わさず受け入れさせるように、はっきりと。
「――――『やり直し』しとるんじゃよ。『世界』は」