第一章8 『クドウサクマの値』
白く無感情に閉ざされた狭い部屋。その中央に、一人の少年と一人の少女が向き合うようにして座っている。ただし、一方は錠で動きを封じられ、もう一方は光など映さぬアパシーな漆黒に飾られたガスマスクを被っているけれど。
動きを制限されている側である朔磨は、どうやら対話の意思を持ったらしいガスマスクに噛みつくように問いを浴びせる。
「時間があるっていうのはどういうことだ? まず何でお前がアレを知ってる」
朔磨が瞬きもせず睨みつけるもガスマスクはその視線を難なく受け流し、呆れたようにひらひらと手を振ってみせる。
「せっかちね。矢継ぎ早っていうの? そんなに連続でぶつけられてもホイホイ答えられるわけないでしょ。物事には順番っていうのがあるの。ていうか顔怖いわよ。ほらリラックスリラックス」
「おまっ……はあ。わかったよ、俺が悪かった。順を追って質問していく」
ガスマスクの態度に苛立ちが募るが、今は焦っても仕方がない。何より相手のペースに陥ってしまうのは非常に危険だ。慎重に事を進めなければ、自分を待つのはまた似たような結末である。特に『今回』は、これまでに比べ殊更に理解が追いついていない。自分の身に何が起こっているか全くわかっていない状態だ。明らかに優位な者に刃向かうのはまずい。
項垂れる朔磨に、ガスマスクはふうんと鼻を鳴らす。
「殊勝な態度ね。まあよし。ようやく立場が分かってきたようで嬉しいわ」
「やっぱぶっ飛ばしてやろうか」
勿論今の朔磨にそんなことは不可能である。だからかは知らないがその言葉には凄味も何もない。無気力に弛緩した虚勢が垂れるように口から零れただけだ。それを感じ取った様子のガスマスクも、するりと躱すように朔磨の発言を彼方へ放る。
「で、何が聞きたいの? まずは一つ目」
目の前に人差し指が突きつけられる。朔磨は小さく息を吐き、整理した問いの文句をそれに返す。
「……じゃあ、お前がさっき言った、時間はある、ってのはどういう意味だ? 何に、何をもって間に合うのか具体的に教えろ……教えてくれ」
最後の方でガスマスクが不服そうな顔になった――素顔は見えないが、朔磨はそう感じた――ので、心持ち言い回しの目線を下げ、目下からものを乞う姿勢にシフトチェンジ。どうやら効果はあったようだ。レンズ越しの瞳が僅かに細められる。
「そうね。何にっていうのは、あんたが救おうとしてる少女は、まだ助けられる可能性がある、ってこと」
少女の名前と状況は口に出さずとも、ガスマスクは朔磨の意をぴたりと言い当てた。思わず前傾姿勢になり、その動きに手足を縛する金属がガシャリと音を響かせる。
「! やっぱり、知ってるのか。何で……ああ、まだいい。先に「何をもって」かを答えて貰ってからだ」
逸る気持ちを抑え、冷静に言葉を紡ぐよう努める。対してガスマスクは未だ高圧的な態度を崩さない。
「学習できたようで何より……と褒めてあげたいところだけど、別に先にその質問してもいいわよ。 『何をもって』に対する答えは、多分あんたが今あたしに聞きたがってることに大きく影響する」
するりと足を組み替えた。それはどうやら、聞いてやろうという合図のようだ。
そういうことならちょうどいい。もとより本題はこちらの方だ。
「……リトライ、つまり、俺が『今日を繰り返してること』について、お前は何か知ってるのか……?」
小さくはっきりと告げたその言葉に、ガスマスクがため息を吐き、前髪をいじる。どう答えるか悩んでいるようなその仕草に、朔磨は息をする音も立てられない。乾いたつばを飲み込み、目を逸らすことなくマスクの奥にある彼女の瞳をじっと見つめる。
やがて、くぐもった声が部屋にぽつりと響きだす。
「あたしが、あんたが言ってることを知らないっていえば、嘘になる」
見当はついていても、やはりその言葉が身に走らせる衝撃は隠せない。顔を顰め、喉を鳴らす。しかし同時に、随分遠回しな口ぶりだ、とも朔磨は感じた。しかし他にもまだ喋りたそうな様子だったので、朔磨は黙って次の言葉が静寂に注がれるのを待つ。
「かといって、あたしがそれに関する『何か』を知っているといえば、それも嘘になる」
ガスマスクの何処か形式ばった話し方に朔磨が首を傾げると、彼女はがたりと背もたれに体を預けた。しかし、視線はこちらから外れていない。これからが本番、とでも言いたげに。
「――けど、主語を『あたし達』に変えれば、話は変わる」
「……それは」
やけに遠回しだった彼女の意図を垣間見るとともに、彼女が言わんとしているであろうことを疲弊しきった頭が時間をかけて理解する。
「お前らは集団……つまり、『組織』ってことか?」
「平たく言えば、まあそういうこと」
ガスマスクの明言を聞いて、大きなため息が無意識にこぼれ出る。頭を掻きたかったが、その手が封じられていることを思い出し泣く泣くそれを諦めた。
薄々感づいてはいたが、本当にそうならば、とんでもない厄介ごとだ。個人というのも問題だが、統制された組織とやらはそれ以上に。まず彼らの大好物、それは交渉である。何かにつけて条件を提示し、全てをYESorNOで決断させるのが、彼らは大好きなのだ。しかも今の朔磨の状況からみて、どちらが立場的にも武力的にも下か上かということは、最早検討する余地もない。
まあ、まずその組織がどういうものなのかを知らないと、話の玄関にすら入れないのだが。現時点で言えば、ちょうどインターホンを鳴らして返事が返ってきたところだ。
「とりあえず、お前らがどういう組織なのかを教えてもらえないと何も言えないな。お前も延々と俺のため息聞いてても飽きるだろ」
「そのためのガスマスクよ、心配ないわ」
「別に俺が息すると空気が汚くなるとかいう自虐したわけじゃねえから!?」
軽口に突っ込みを入れ、愉快そうに笑うガスマスクを睨む。そういうことを言われると、本当にそのような気分になって寒気がしてくる。
「実を言っちゃうと、あたしは末端の末端なのよ。だから、組織のことなんて実際、爪先くらいも知らないのが現状。それに正直なところ、興味もない」
「へえ。……で、実際の実際は?」
「…………」
朔磨が薄笑いを浮かべると、ガスマスクはそこから何かを感じ取ったようにぴたりと押し黙る。
いいだろう。そちらがだんまりを決め込むのならば、こちらから丁寧に説明してやろうじゃないか。
「まず、お前が末端って? そっからおかしいね。自分で言うのもなんだけど、俺に起こってるのはかなりヤバい類の現象だろ? そんな奴と一対一で対談できるなんて、よっぽど上から信頼されてる末端なんだな。他の部分はどうか知らないけど、問題はそこじゃない。お前が……いや、『組織』が、『俺』に、『嘘をついた』ってとこが重要なんだ。それもこんなわかりやすい嘘、どうせ試すつもりだったんだろ? 今回は甘く見るけど、次からのは、お互いのためにもやめたほうが賢明だぜ」
「……なんで、あんたがそこまで強く出れるの? こっちの実情もろくに知らないのに」
まくし立てる朔磨に、ガスマスクが問う。しかしそんな正論などで勢いを緩めてなどいたら、それこそ意味がない。こねくり回して、捻じ通せ。
「俺の扱いを束縛に止めてるのも、これからの関係に支障が出るとまずいからじゃねえの? 俺としてはその時点で結構異議を申し立てたいんだけど……本当に邪魔なだけなら、もっとひどい人間の保管方法、映画とかで見たことあるぜ、俺」
延々とカプセルの中に入っていたり、意図的に植物状態にされて杭に打ちつけられていたり。映画という創作の一幕だとしても、鳥肌の立つシーンだった。だから今になっても覚えているのだろう。……トラウマとして。
「……っていうわけでさ」
勝手に体を思い出に震わせてから、再び何も言わないガスマスクに喰らいつくような視線を戻す。そして、自分でも初めてする気持ち悪いくらいの作り笑いを貼り付けた。半ば、いや完全に、これは忠告だと分からせるために。ゆっくりとねっとりと、言葉による杭を打ちこんでいく。
「仲良くしようぜ。……信頼関係は、大事だろ? なあ、ガスマスク」
ガスマスクは、尚も答えを返さない。ただ鋭利な刃物のように細められた仮面の奥の双眸が、品定めをするかのように朔磨を、彼の行動、発言を見据えていた。
拘束されていることなど忘れているかのような態度の朔磨だったが、無論、今までの問答の本当の意味もちゃんと自覚している。
――――いわばこれは、『試験』なのだ。現時点で、どれだけ自分を対等の存在に近づけられるか。そこで、組織側での朔磨への『評価』と『とるべき対応』が決定される。
ここで朔磨は、『信頼関係がつくれないならば協力的な姿勢はとらない』ことと、『お前らが自分を必要としていること、更にその関係を築くうえで自分の意思がそれに影響を及ぼせることを知っている』ことを暗にはっきりと提示した。これでどこまで、彼女らに自分を売り込めただろうか。
ごくりと先程よりさらに潤いをなくした唾を飲み込み、背中に首筋に冷や汗を垂らし、それでも不敵な笑みは崩さない。
「……あんたは」
「おじゃましまうまー」
ばたりと、ガスマスクの言葉を遮るように白い扉が緩みのきいたフレーズとともに開く。正面のガスマスクのせいで姿は見えないが、声色からしてまだ幼い童女のような感じだ。言うまでもなくこの場には絶望的に不釣り合いである。
部屋の中の張り詰めていた空気が、たちどころに弛緩していく。
「……ちょっと、ドクター? オーケーサインが出てからって言ったじゃないですか」
「だって、儂退屈じゃったもん。そいたら、扉の向こうで楽しそうなおしゃべりが聞こえてくるじゃろ? もううずうずして辛抱たまらんくて」
ガスマスクのうんざりしたような声に対して、声に合わない死語が入り混じった言葉が聞こえてくる。ガスマスクは恐らく朔磨と比べても今日一番の重いため息を吐き、体と視線は未だ朔磨に向けたまま彼女の背後の人物と会話を続ける。
「彼が『値しない』人物だったらどうするんですか」
「大丈夫じゃ大丈夫じゃ。ほれ、言うてみい。結果はどうじゃった?」
「……合格ですけど」
ガスマスクがこちらを見て心底嫌そうに言及する。彼女の後ろからふんすと満足げな鼻息が聞こえ、それに呼応して彼女の目元に刻まれた皺が深くなる。
「顔怖いぜ、ほら、リラックスリラックス」
「詰めるわよ」
「な、何を!?」
無感情に言われた脅しの意味がわからず漠然とした恐怖だけが背筋を凍らせる。
質疑応答の冒頭で自分も言っていたくせに。
まあ詳しくはよく分からないが、話の流れを見るに、どうやら朔磨は何とかボーダーラインに達したらしい。ドクターと呼ばれた人物のせいで今にも前言撤回をしてしまいそうな不穏さがガスマスクの視線とオーラに漂ってはいるが。
「ま、そういうもんなんじゃ。得てしてな。さ、どきんね」
諭すような幼い声に、ガスマスクは意外にもすっと席を譲る。代わりに姿を現しどっかりと椅子に腰かけたのは、
「やあ、被験体」
「怖い言い方するな。保護者はどこだ」
「馬鹿にしとんのかワレ」
目の前に現れたのは、ぱっと見美少年とも美少女ともとれるような中性的で整った顔立ち、身長は見たところ百センチ前後で、小学生低学年と言われて十人中十人が何の疑問も抱かないであろう少女だった。特徴的なのは、喋り方もそうだが、明らかにサイズを間違えたような大きさの白衣を身にまとい、右目には眼帯、肩まで伸びた髪はエメラルドのように光る緑色。そして見えているほうの左目は煌々と赤く輝いていた。
「こほん。では改めて自己紹介しよう、被験体よ」
「だから、それやめて――」
「儂は『研究者』。ここの皆からは、愛と嫌悪と尊敬と侮蔑をこめて『ドクター』と呼ばれとる。……よろしくな? 被験体」
怖いくらいに無邪気な笑顔で差し出された手を、朔磨は中々握ることができない。
初めて見た時に、おかしいと思った。その正体が、朔磨の中で今になって露呈する。
――――この少女は、朔磨を見ていない。
彼女の目には、恐らく万物が『対象』として映っている。それが何に対してなのかは、明白だ。彼女が今、名乗った通り。
ヤバい。確実にヤバい。目を逸らすことさえ出来ない。逸らした途端に舌を這わされ、臓腑までも舐られそうな気さえした。
――ただ同時に、もう、引き返せないのにも気づいている。
「……よろしく。久遠朔磨だ」
怯えの隠しきれない表情で、何とか差し出された小さな手をしっかりと握り返す。
「ほう。……こちらこそじゃの。クドウサクマ」
『ドクター』は一瞬意外そうな顔をして、それから面白そうに負けじと朔磨の手を握る。その華奢にさえなりきれていない手に、これまで一体どんなものをのせてきたのだろうか。
そうして彼女は、ようやく朔磨の名をまるで記号のようにだが呼んだ。
――それは、ある一つの狼煙でもあった。