第一章7 『謎との邂逅』
薄く照らされた、楕円形の机。それを囲むように、数人の人物が腰かけている。部屋は暗く、顔もまともには見られないほどだ。
そのうちの一人の青年が、組んだ手の甲の上に顎を置き、重苦しい声を卓上へ響かせる。
「……『バグ』が現れた」
その二文字に、周りがざわりとどよめく。それの意味するところを、この場にいる者たちは知っているようだ。
「その者は、今どこに?」
誰かが青年に質問を投げた。
「現在は、我々の監視下にいる。どうするかは彼の自由ではあるが……その選択によっては、実力行使もやむを得ないだろう」
「いや……動き出せば、もう止まらないさ」
髭を生やした老年と思われる男が、昔を懐かしむかのように顎あたりに生えている髭を撫ぜた。
かつり、と長い髪を持つ人物が指先で机を叩く。どことなく不機嫌そうである。
「止まらない、とは?」
「そのままの意味だ。もう歯車は回り始めた。誰がどう足掻けど、止める術はない」
「貴方はいつも、よく分からないことを仰りますね」
「二人とも、そこまでに。彼の選択がどうであれ、我々のすることは変わらない。そうだろう?」
冷然とした声で二人を遮る青年。不承不承といった感じで頷く二人を横目に彼は一つ息を吐く。
「その為にも、彼には出来るだけ早く決断して貰わねばならない。……我々には、足を休ませる時間どころか、手段を選んでいる暇さえないのだから」
淡々と響くその言葉に異論を投じる者は、その場に誰一人としていなかった。
***
朔磨は、割とどんな体勢でも心地よく寝られる人物である。バスや電車の中、座りっぱなしで眠りこけてしまっても、首が痛くなったりなどはしない。
そんな自分がここまで寝起きに身体を痛めているということは、余程酷い状況下で寝ていたのだろうな、と重い瞼を持ち上げながら朔磨は思った。
「いっつ……」
節々の痛みに顔をしかめつつ、今の自分の体勢を確認する。どうやら椅子に座らされているようだ。
目を擦ろうとするも、何故か腕の自由が利かずそれができない。視界は未だ霞んだままだ。
後方で、何やら錠のようなもので手首を繋ぎ止められているらしいのが感触で分かった。更に、動かそうとした両足も似たような感触によって自由を奪われている。
そこで朔磨はやっと自分の置かれた状況を理解し始める。
「……寝心地最悪なわけだ」
いつかにやっていたドラマのワンシーンが脳裏によぎる。人質として囚われる主人公、緊迫感溢れる犯人との問答。
椅子に縛り付けられていたあの役者はこんなにも身体を痛めながら演じていたのか。
名も知らないタレントに心の中で小さい賛美を送りつつも、頭の中では謎だらけの現状に幾つもの憶測が巡っている。
とはいえ、どれだけ頭を回したとして今の朔磨に何ができるはずもない。喉を枯らし叫ぶことくらいは可能だが、その行為で事態が好転する可能性は限りなく薄いだろう。
取り敢えずは状況をできる限り正確に把握する。考えるのはその後だ。それが現状自分にできる最善の行動のように思えた。
結論という名の方針が定まったところで、朔磨は痛めた首をぐるりと回し、自分がいる部屋の様子を確かめる。
壁は無機質な白で彩られており、よくわからない器具などが時折目につく。ざっと見たところ、何かの研究室のような印象を受ける。
もっとも、部屋は狭く、実験器具のようなものも大して量はない。設備と雰囲気は整っている、といった感じだ。あまり使われていない部屋なのかもしれない。
ちょうど朔磨の正面に、一つの扉がある。見回してみてもそこしか出入り口はないようだ。
「つまり、誰かが入ってくるとすればあそこから、か」
無駄だとわかっていても構えてしまうのは許してもらいたい。朔磨自信、いっぱいいっぱいなのだ。何が起こっても動じぬよう、心を落ち着かせ冷静に――
「ばあっ」
「ぎいやああああああぁぁぁっ!!?」
突如として目の前に、逆さになったガスマスクが現れた。衝撃と恐怖に朔磨は形容しがたい悲鳴を上げる。
失禁、失神寸前でギリギリ踏みとどまるも、のけ反ったことにより椅子が大きく後ろに振れ、そのまま重力に従い倒れていく。
「おぅ、ぐはっ!」
情けない声を部屋に響かせ椅子ごと地べたに倒れこむ朔磨。それを、元凶であるガスマスクは上から見下ろしていた。どうやら、天井の通気孔から出てきたらしい。
想定外にも程がある、と朔磨が悪態をつこうとすると、
「え、ダサ……」
「……殺すぞ」
若干引いたような女声。殺意を孕ませ睨みながら返してやると、けらけらとからかうように笑い声を浴びせてくる。
――不意打ちは卑怯、そう呟くのを、朔磨はもう諦めた。
***
知らないことと知っていることは、言葉にするだけなら簡単だが実際そこには幾多の差違が生じている。
知っている者はそれだけで対話上有利な土壌に立つことができるのに対し、知らない者はただ状況を呆然と享受することしかできない。
「知」の意味合いが多少違うが、イングランドの哲学者フランシス・ベーコンが「知は力なり」と言ったように、知が無知に対して絶対的な優位性を持つことは紛れもない事実である。
その観点から見れば、今現在、久遠朔磨が圧倒的劣勢に立たされていることは火を見るより明らかであろう。彼は未だに何も知らない。
彼と向かい合うように椅子に座っているのは、柔らかそうな髪を腰ほどまで伸ばしたガスマスク。声色と体つきから、女であると分かる。見た感じ、年齢も朔磨とそこまで変わらないだろう。まあ、どれも推測の範疇を出てはいないが。
「で、お前は誰だ」
「それがわざわざ起こしてくれた人に対する態度? あんたって意外と礼儀知らずなのね」
「元はと言えばお前が原因だろうが」
「あんたがビビりだからでしょ」
座っているといっても朔磨の方は体の自由が殆ど利かない状態だ。自然、ガスマスクが朔磨を偉そうに見下す形になる。
「あんだけ強い電圧だとさすがに死んじゃうかと思ったけど、割と元気ね。安心したわ」
「どうもありがとう。嬉しくないよ」
ストレートな皮肉を返すも、ガスマスクは意に介す様子もない。ただ興味深そうにマスクの奥の瞳で、朔磨をじろじろと眺めている。
時計がないこの部屋では、自然と焦りが息を詰まらせる。脳裏には、あの忌まわしい惨状が。
「ここが何処かは、一先ずどうでもいい。取り敢えず出してくれ」
やるべきことが、朔磨にはあった。早くしなければ手遅れになる。リトライの仕組みが、朔磨にもまだ分からないのだ。
「何で。逃がしちゃうなら、捕まえた意味ないじゃない。キャッチアンドリリースを楽しむ釣り人じゃあるまいし」
寧ろそうあってほしかったと朔磨は苦虫を噛み潰したような顔になる。生憎朔磨にも彼女らが魚を釣った達成感のみのため釣りをしているようには見えない。
「なあ、頼むよ……」
「随分図々しい物言いね」
ガスマスクが首を傾げる。
よくもまあぬけぬけと、こちらが頭を擦り付けるほどの思いとも知らないで。
「俺からしたら、勝手にさらってきて拘束することのほうがよっぽど図々しいけどな」
さんざん通じなかった悪態を吐き捨てるようにガスマスクにぶつける。対して彼女は、それを弾き返すように鼻で笑い朔磨の言葉を一蹴する。
「へぇ。じゃ、あたしからしたら、何度もやり直してる癖に人に要求を丸投げできることのほうが図々しいと思うわ」
ガスマスクが、白く細い指先を朔磨に向ける。そのままくるくると回す人差し指にどんな気持ちを乗せているのかは、マスク越しではわからない。
そして朔磨は、その言葉に目を見開く。何度もやり直してる癖に、とガスマスクは言った。今の朔磨にそれから連想できることといえば、一つしかなかった。
「お前……知ってるのか……?」
「何を、っていうのは流石にね。野暮ってやつ?」
余裕を見せつけるような声でガスマスクが笑う。その笑い声の得体が知れず、朔磨は本能的な恐怖を覚えた。自分を無下に扱ってくれるなと、釘を刺されているようにも感じた。
朔磨しか知らないはずの、『リトライ』。それの存在が、朔磨にとって益々謎のものとなる。何故ガスマスクは、その存在を知っているのか。一度動き出せば止まらない思考の渦の中、朔磨は何とか疑問の声を絞り出す。
「……一体何のために、俺を捕まえた?」
それはたぶん、リトライと関係があるはずだ。そして恐らくそれを知ったとき、朔磨はもう引き返せない。
「お、興味持ったっぽいね。ま、いいでしょ。このパターンは初みたいだし、初回限定サービスってことで、教えてあげる」
ガスマスクは突然がたりと席を立ち、朔磨を前に両手を広げる。
「あんたをここへ連れてきたのは、『選択』して貰うため」
「……どういうことだ」
朔磨の問いに、ガスマスクはもう一度席につく。そして足を組み、彼と正面から目を合わせた。それは対話の意思を表していた。マスク越しに、彼女が趣味の悪い笑みを浮かべているのが分かった。
色々な感情がない交ぜになった汗が首筋を伝う。
「まあ、安心してよ。まだ時間はある。その間、少しお話ししましょっか……久遠、朔磨君?」
――何か、小さな世界の歯車が、回りだした気配がした。