第一章6 『黎明』
「――ろで――かつは――かい?」
気づけば、朗々と響く友人の声がそこにあった。しかしその声は、ほとんど耳に入ってこない。
「――――?」
視界がぼやける。見慣れたはずの友人の顔さえも、何かで濁って見えなくなる。
なんだろうかと目をこすってみれば、手には濡れた感触が。それは酷く懐かしく、弱虫な自分を思い出させる。
「え」
「……サク、どうして、泣いてるんだい?」
少年の瞳から、一つ、また一つと透明のようでどす黒い水滴があふれ出す。
それはまるで、少年が救おうとした、救えなかった命の絶叫のようで。
――――痛い。
それは、体とか、心とか、そんなものではなくて。
もっと奥底の、触れてはいけない部分が、泣き叫び、痛みを訴えていたのだ。
***
「少しは落ち着いたか?」
「……はい。何とか」
目の前には、白衣姿の見目麗しい女性、養護教諭の吉見千里が足を組んでいる姿がある。容姿端麗と名高い彼女は生徒の間でも人気を集めており、彼女目当てに仮病を使う者も少なくないのだとか。真偽は定かではないけれども。
朔磨は様子のおかしさから半ば無理やり宗太郎に引っ張られ、保健室へ放り込まれた。とりあえず一時限目は休ませてもらえるそうだ。宗太郎は先ほどまで一緒にいたが、授業があるからと戻っていった。朔磨を心配していたのか、吉見に見とれていたのかはわからない。
「……で?」
「え」
頬杖を突き何かを聞こうとする姿勢をとる吉見に、思わず素っ頓狂な返事を返してしまう。吉見は呆れたように、
「事情を話せって言ってんだよ。事情。それとも何か? 突然わけもなく涙が溢れてきたからなんて安っぽいポエムみたいな理由で保健室のベッドを席巻しようと?」
まったく、と大きくため息を吐く吉見。そう、彼女は容姿以外にも、この男勝り、というか乱暴な言葉づかいでも有名なのだ。ある者が以前、一部の人種にはドストライクなどと宣っていた。いやはやそんな者たちのようにはなりたくないものだ。
「いや、そういう訳じゃないんですが、その、いささか説明が難しくてですね」
「一限が終わるまであと何分あると思ってんだ。サボらせてやってんだから面白い話の一つでもして少しは私の暇を潰す努力をしろ」
「口悪すぎるでしょ」
喧嘩腰に話を強要してくる彼女に悪態をついて、どうしたものかと思案する。正直にすべてを話したとして、話の舞台が学校の保健室から精神病院に変わるだけだ。ただでさえ教室内で『友達と話してたらいきなり泣き出した気持ち悪い奴』のレッテルを貼られているだろうというのに。
「なんだよ。失恋か? 失恋なのか? まあ多感な時期だもんな。よし先生が聞いてやろう。気にするなって誰しも経験することだ。言いふらしたりしないから……」
「小学生かあんたは!?」
目を輝かせながら詰め寄り失恋話を聞き出そうとする吉見。子供のようなノリに大人の汚さを足した感じでいかんともしがたい。
「もう……勘弁してくださいよ」
「――じゃあ、その今にも泣き出しそうな情けない顔はやめろ」
「――――っ」
唐突に響いた痛ましげな彼女の声に、朔磨は思わず目を見開く。
頬に触れると、強張り、小刻みに震えているのが伝わってくる。それは恐怖であり、憎悪であり。どちらにせよとてもプラス思考とはとれないような感情だった。
隠していたつもりが丸見えだったという痴態を後ろめたく感じ、自然、目を背けてしまう。
「別に、話したくないとかだったら無理には聞かないよ」
先ほどとは打って変わって、優しく包まれるような声。彼女が自分を労わってくれているのが、それだけでわかって。
「ただ、これだけは覚えておけ」
急に何かを諭すような声になり、朔磨はゆっくりと顔を上げる。
そこにあったのは、目を細めた吉見の端正な顔。
「お前が完全に蹲ってしまうかはお前の自由だが、その時、誰かが味方になってくれると思うなよ」
「――――」
喉が詰まる。呼吸がしにくい。辛い。熱い。
自分ではわかっていたはずだった。けれど、それを面と向かって言われてしまうと、何も言えない自分がいる。馬鹿馬鹿しいと嘲っていた立場に、いつの間にか落ちてしまった自分がいる。
自分だって、こうも簡単に折れてしまうなんて思っていなかった。死がこんなにつらいことだなんて知らなかった。自分の弱さを本当の意味で自覚してしまうことが、こんなに嫌悪感を誘うなんて知らなかった。守りたいと思った人物に嫌われてしまうことが、こんなに胸を痛めつけるなんて知らなかった。
そこから前を向いて進むことが、如何に難しいことなのかも。
「……まあ、なんだ。トランプでもするか?」
黙る朔磨に、吉見はバツが悪そうに声をかける。生憎と、朔磨の内心の淀みが晴れることはなく、
「ちょっと、トイレ、行ってきます」
掠れた喉で、見え透いた逃げの言葉を絞り出すのがやっとだった。
***
「おう、ぇ、あ……」
朔磨はトイレの個室に駆け込み、、鍵もかけず嘔吐していた。ただその行為は感情も一緒に吐き出せるわけではなく、寧ろ嘔吐後の気持ち悪さと溜まりに溜まった汚い心が同居して、正味最悪な気分だった。
自分の死への恐怖、誰かの死への恐怖、目に焼き付いた、自分に向けられた憎悪への恐怖、そして、露呈した自身の弱さ、無力さを知る……いや、突きつけられることへの恐怖。
「ああっ、まじ、くそが、ああ……」
絶えることのない吐き気を抑えようとするように、朔磨の口からは誰に向けたものともわからない中身のない言葉が漏れ続けている。しかしそんなもので襲い来る吐き気は勢いを緩めてくれず、耐えても吐いても結局は彼を心身ともに蝕んでいく。
吐いては悪態をつき、吐いては悪態をつきの繰り返し。最早自分が何をしたいのかも定かではない。
そんな地獄のような時間を、幾度繰り返したであろうか。
既に吐くものも枯れつくし、残ったのは膨大な虚無感と脱力感。悪態をつくだけの気力も残されていなかった。
何処かの教室から聞こえる微かな笑い声。それが、今の朔磨には自分へ向けられた嘲笑にしか聞こえなかった。
***
結局、時間は無情にも過ぎていき、取り残された少年は呆けた顔で独り帰路に立っていた。小さく鳴いている虫のさえずりをうるさく感じながら、どんよりと紺色に染まった空を見上げている。
一歩一歩と進む足が、今日は鉛のように重く感じる。それはある場所との距離が近くなっていくのに比例して大きくなっていった。
「……あ」
下を向いて歩いていると、ついに朔磨は局所に行きついてしまった。目を細めて眼前の建物を見上げる。熱を持った明かりが眩しかった。
何をしようと考えていたわけではない。その虚ろな瞳には、目の前の和菓子屋だけでなく、もっと別のものも映っていた。それに干渉する勇気が、正義感が、朔磨に露ほどもなかったと言えば嘘になる。
だが結果としてその足は、それと逆方向に歩きだしていた。
罪悪感、正義感、良心らが声を上げて絶叫するも、朔磨の中の惰弱な彼は、それらすべてを捻じ伏せ強引に朔磨を諦めへと誘っていく。
一歩、また一歩と、足は夕闇を踏みしめる。それを咎める者も、嘆く者も、一人としていない。朔磨は一人だ。誰にそう言われたわけでもなく、自分でそれに背を向けると、目を背けると決断した。
――――やがて温かく忌まわしい光は、朔磨の視界から消えてなくなった。
***
――終わりだ。
俺は逃げた。惨劇が起こることを知っていて、あの悲劇を直接目の当たりにして、それでも俺は逃げたんだ。
何が主人公だろう。今考えると羞恥心を通り越して笑いさえこみあげてくる。
誰だよ、こんなクソみたいなシナリオ考えやがった奴は。引きずりおろして一発顔面をぶん殴らせてほしい。
自分の価値を推し量り間違えた。皆が皆、弱く汚い本当の自分に勝る正義感を持っているとは限らない。寧ろそんな人間数えるほどしかいないのではないか。
自分は、出る舞台を間違えた。もともとあれは悲劇だったのだ。自分の手には有り余る代物だった。ただそれだけのことだ。なあに、これまでと同じように、日々を滔々と漠然と暮らしていればいい。自分はいけないことなど何もしてないのだから――。
……。
おかしいな。
……何でこんな、涙が、止まらないんだよ。
***
気づいた時には走り出していた。もう時間なんて過ぎているに決まっているのに。もうあの場がどんな地獄と化しているのか、わかっているはずなのに。
だが、違う。違うのだ。
自分が走っているのは、あの場所に向かっているのは、救いたいとか、自分の必要性を確かめたいだとか、そんな理由じゃない。
――自分が本当は何をしたいのか、知りたいのだ。
「畜生ッ……!!」
恨み言さえも足を動かす力に変え、一心不乱に走り続ける。
そしてようやく、目指していた光が見えた。
――温かかったあの光は、命も想いも非情に焼き尽くす炎へと変貌を遂げていた。
面影などとうに消え、想いの骸と火の粉だけがそこに舞っている。
悲劇はついに過去へとその身を置いた。最早、自分ができることなど。
「――――」
煌々と揺らめく炎の前で、それに照らされた自分の手を見やる。その掌には何も残っていない。ゆらゆら炎が掌を照らし、虚無という現実を心に焼きつけてくる。
それを見ているだけで、自分の大事な何処かに拭い切れない過去を烙印として押されているような気にさえなった。
自分は、何をしたいのか。
「……助けたい」
口をついて、性懲りもなく出た身勝手で自己満足に溢れた言葉。
それはきっと、覚悟とか、勇気とか、そんな綺麗な答えじゃなくて。
自尊心とか自分への期待とか、そんな屑みたいな感情で埋め尽くされている。それは、どれだけ暈しても消えない事実だ。
人は急には変われない。自覚したはずの愚かな自分は、今ものうのうと生き続けている。
「……でも」
それでも今は、今だけは、そんな邪で醜くて卑怯な感情さえ、こんな弱くて脆い自分さえ利用してやろう。どんな手を使ってもいい。主人公じゃなくてもいいから、物語を、変えてみせよう。
「……ぁ」
――――バチン!!
小さく呟いた瞬間、乾いた音が鳴り響き、首筋を入り口として刺されるような痛みが体中を走り抜けた。何事かと後ろを向く前に、意識が朦朧とし膝から無様にも崩れ落ちる。
体と同時に千切れそうになる意識の糸をどうにかこうにか繋ぎとめ、言葉を紡いでいく。自分の体に起きた事象など、今は取るに足らないこと。決意を、形にしなければ。何もかもが、手遅れになってしまう前に。
じっとしていても明日はやって来る。しかし、きっとそれは何かを置き去りにしてしまった明日だ。何もかもに背を向けて、目を瞑り、蹲って迎えたその日に、一体どれだけの意味があろうか。
中身のなくなった自分を、誰が温かく受け入れてくれようか。
意思を失った人間は、それから何を杖に生きてゆけばよいのだろうか。
少年は、誓う。
あの時の、彼に憎悪をぶつけた少女の瞳を絶対に忘れまいと心に刻みつけながら、散ってしまった命へ、想いへ、決意を告げる。
――どれだけ惨めでも、見るに堪えない醜態を晒しても、浅ましく愚かな自分を突きつけられようとも。
――――俺は、きっと。
***
紺色はさらにその色を濃く深くし、春の空をねっとりと彩っている。
不可解な行動が多いと不審に思っていたが、ビンゴだ。これだけ高電圧のスタンガンを使ったのだ、屈強そうには見えないし、あと数秒もすれば落ちるだろう。逆に死んでしまわないか心配なくらいだ。
芋虫のように何故かしぶとく意識を手放すまいとする少年を一瞥し、ポーチから通信機を取り出す。色々な機械でガチャガチャしていて使い勝手も悪く、あまり好きではないのだが、受信される危険性がどうのと上が煩いので仕方ない。長いノイズの後、周囲に目がないかを気にしながら口を開く。
「対象を無力化。確定で間違いないだろう。これより回収に移る。事態が変わり次第再度報告する」
現状報告を済ませ、通信機を切る。ポーチにしまい終わる頃には、足元の少年はもう意識を失っていた。
「……彼が利口だと嬉しいんだけどな」
そううまくはいかないだろう、と漏らしたため息は、紺色を喰らう炎に飲まれ、誰に聞こえるわけもなく消えていった。