第一章4 『仮説と勘違い』
深く深く、何もない暗闇に落ち続けている感覚。それを体感するのは二度目だった。見えるものは何もなく、ただただ終わりのない沼が意識を飲み込んでいく。もがこうとも手は届かない。否、手を伸ばそうとしてすらいない。なされるがままに体を任せ、目を閉じんとした、その時。
突如として、何かが自分を引っ張り上げようとしているのを感じた。
それは乱暴に、しかし何処かに愛おしむような感情をはらませ自分の手をつかんでいる。意識が混濁の中に沈んでしまおうかというその一歩手前。
何もなかった世界に光が差し込み、忽ち視界が色に満ちた景色を取り戻す。
目を見開いた先にあったのは――、
「ところでサク、部活は何にするか決めたかい?」
――そう言って楽しげに話す友人の、悲しいほど見覚えのある笑顔だった。
***
「……なるほどな」
朔磨は、天を仰いで小さく呟いた。
二度ならず、三度も訪れた『今日』。
朔磨はこれまで、自分の身に起きた現象について仮説を立てては消し立てては消しを繰り返していたが、その中でも、ひと際あり得ないと思えるものが混じっていた。朔磨はそれを言葉にも、心の中でも反芻することを許してしていなかった。そんな考えに落ち着いてしまったら、終わりだと思ったからだ。
だが、ただの一度だけしか提示することのなかったその仮説が、この『今日』を迎えることによって、感覚に頼った主観的なリアリティとはまた違う、経験、事実に基づく客観的な現実味を帯びてくる。
今まで朔磨が二度にわたって同じ一日を体験する中、最も信憑性が高く、そして最もあり得ないと笑われるであろうと考えていたその仮説が、急速に可能性を膨れ上がらせていく。朔磨はそれを、自分でも無理がありすぎる話だと笑いつつ、頭の中で結論という玉座に招き座らせた。或いはそれが間違っていたとしても、そうあってほしいと心の片隅で密かに想いながら。
「サク?」
目の前には例の如く、眼鏡をかけた友人がいる。珍しく眉間を顰め、普段の嘘くさい顔を少し崩している。
朔磨は彼に問いを投げる。もう既にわかりきっている問いを。
「……宗太郎、今日って何日で、今何時だっけ」
「急に呆けた面をしたと思ったら、おかしなことを言いだすな。四月の十三日。それで、八時二十分頃だよ。それがどうかしたかい?」
ほうら、と言って自らの腕時計を朔磨の目の前にかざす宗太郎。そんなものには目もくれず、朔磨は一人それを小さく反芻する。つまり、仮説に基づくと、こうなるわけだ。
「四月十三日八時二十分。……そこが、セーブ地点」
窓の外は晴天。咲きかけの蕾が太陽に顔を向け、花弁らしき鮮やかな色をのぞかせている。教室は今日も騒がしく、やれ課題を見せろだの、やれ昨日のテレビ番組はどうだっただの、どうでもいい話が絶え間なく飛び交い、元気と放任をないまぜにしたような独特の空気感を持っていた。
朔磨が最も有力な仮説として最終的にたどり着いたもの。それは。
「――――俺はこの世界を、『リトライ』できる」
死んだら、ある地点に戻される。
そんな頭のおかしい真実だった。
***
例の如く、前回、そして前々回と同じく、何の齟齬もなく三回目の世界は回る。普通なら頭を抱えて蹲ってしまってもおかしくないこの状況。朔磨の頭は、意外にも落ち着いていた。
それは恐らく、たった今立てた仮説に、決して夢ではない希望を抱けたからだ。
――あの少女を救えるという、そんな希望を。
朔磨はそれを思った瞬間、安心感に、いや、歓喜に包まれた。自分のようなちっぽけな人間だって、一人の少女を救えるのだと。事実は小説よりも奇なりとは、よく言ったものだ。
「……なんだい。ニヤニヤして」
朔磨が『戻った』先程から、宗太郎は妙に不機嫌だ。『一度目』と『二度目』ではそんなことはなかったのに、どうしてだろうか。
「お前こそなんだよ。いつもの蛇足まみれの長ったらしい話はどこ行った。らしくないぞ」
皮肉を混ぜた言葉を返してやると、宗太郎は一層じっとりと湿った瞳を朔磨の顔に集中させる。やはりおかしい。今まで彼と過ごす中で、彼が無口であったことなど思い出せるかも定かではないほど…いや、もしかすればそんなことなかったかもしれない。
「……なんか、やだね」
不意に宗太郎が声を発する。
「? 何が」
「君の今の顔つきが、気に入らない」
「……?」
朔磨があからさまに怪訝そうな顔をすると、宗太郎はため息を吐いて、その顔から目を背けるようにぷいと窓の外を向いた。
「変な奴だな」
そう言って、朔磨もその場を去る。今夜起こるであろう出来事への期待に、興奮を抑えられないでいながら。
そんな後姿を、一人がじっと見つめている。
「やっぱり、やだな」
朔磨は気づかない。背後からの、寂寥や幻滅がこめられた視線に。そして、自分が歓喜しているのは少女を救えることに対してでなく、『自らが』少女という一人の人間を救える可能性に対してなのだということに。
「君のその、自分の可能性を勘違いしているような、そんな顔がたまらなく嫌だ」
一人の少年のつぶやきは、終ぞ朔磨に届くことはなかった。
***
多くの生徒が休み時間の短さに悪態をついている時、朔磨は何処か上機嫌だ。
「あ、岡野。数学の用意誰かに借りといたほういいぞ」
「え? ……って、ほんとだ、ない! 危なかったあ。ありがと、久遠君。でも、何で分かったの?」
「んー、ふふ、手品かな」
気分がいい。
「川辺、授業中寝たら今度こそ先生怒るっぽいぞ」
「んあ? あ、ああ。気いつける……」
――――――気分がいい。
朔磨は授業中、教壇に立つ中年教師の言うことなどまるで聞かずに考えを巡らせていた。
無論それは少女をどうやって救うかとあれこれ頭をひねり策を練るため……では、なかった。
「うーん。助けに来たぜ……臭すぎるな。俺はいつでも、お前の味方だ……いや、相手は俺と初対面なわけだし……」
『少女を救う』という出来事は既に、朔磨の中で決定事項として盤石の椅子に偉そうに腰かけていた。よって朔磨は、半ば冗談でそのあとの展開、後日談での決め台詞を考えていた。何処かで聞いたようなフレーズを小さく口に出しては想像し、にやりと口の端を歪める。その行為は傍から見たら気持ち悪さすら覚えるものだろう。
『リトライ』については、今現在何も情報がない。それが『現象』なのか『能力』なのか、それすらもわからないのだ。できれば後者であってほしいと、朔磨は思っているが。とにかく、わからないことを考えていても仕方がないのである。いずれはそれが明かされる時が来るだろう。根拠はないが、それは『主人公』に与えられるべき展開だ。
朔磨は陶酔感に浸るように息を吐き、椅子の背もたれに体重をかけた。
「まあともあれ、俺の仮説が正しいとすれば」
少なくとも、朔磨の頭の中では。
「――俺は特別な存在だって、英雄にだってなれるって……そういうことだよな?」
少女を死の運命から救い出そうと本気で思っている。この力を利用して、誰かを助けたいと明るい未来への希望を抱いている。その笑顔のゆがみがどうであれ、その思いは変わらない。
――――しかしただ一つの事実として、今この瞬間彼の瞳に映っているのは、本物とは似ても似つかない、『英雄・久遠朔磨』ただ一人だった。