第一章3 『一人の少年』
春というのは暑くも寒くもなり切れていない中途半端な季節だ。けれど今年の春は未だ冬が名残惜しいのか、たいして遅くはない時間であるにも関わらず待ちきれなかったように空を紺色に染め上げる。
見上げるとそこには眠ってしまった太陽の代わりと言わんばかりに三日月が煌々と輝いている姿が。その姿が何だかちっぽけな自分を馬鹿にしているにやけ面のように見えて、朔磨は思わず渋面になる。
いつもと何も変わらぬ寂しく暗い帰り道。しかし靴底で単調なリズムを刻みながら歩く足は、いつもより数段重たかった。
結局今の今まで現実の出来事があの夢と食い違うことはなく、朔磨の中であの出来事、大型車の衝突はもはや決定事項となりつつあった。当然、そんなもの起こらないほうがいいに決まっているのだが、もうむしろそれが起こらないほうが不自然すぎる。まあそんなことを言い始めれば、この状況のほうがよっぽど不自然なことなのだが。
「偶然も三回続けば……っていうけど、それが数十回も起こってたらな。気が滅入るを通り越して感動さえするレベルだわ」
軽い皮肉を口にして、頭の中で散々練った順序を指折り確認していく。なにしろ時間内に少女を安全圏に連れ出さなければゲームオーバー、そのミッションは一見簡単そうだが、些細なアクシデント一つで一瞬にして水の泡と化す厄介極まりない代物だ。慎重に事を運ばなければ成功しない。
……これは少し贅沢かもしれないが、救った後、あまり彼女に睨まれるようなことにはなりたくない。まあいざとなれば何でもする心持ではあるけれど。
「……じゃ、いきますか」
ふうと一つ息を吐き、順序の確認、という名の心の準備を終えた朔磨は先程よりも若干歩く足を速め、事の発端となった忌まわしい思い出の場所へと向かう。
しばらくすると、それは現れた。二階建ての小さいつくりに、中の明かりは外装の木材とも合わさって謎の温かみを感じさせる。のれんのかかった扉の上には『ひいらぎ』と書かれた木の看板が。
見覚えのある和菓子屋が、朔磨の前にその姿を惜しげもなくさらしていた。まるで、事の一部始終を見守ろうとしているかのように。
「あの、どうされました……?」
朔磨がしばらくそこで暇を持て余していると、やがて、聞き覚えのある声と文言が店の明かりに照らされた暗闇に響いた。
――その声を知っている。
――その声に自分がするべきこともわかっている。
――その声を助けたいという思いを感じている。
朔磨は、ゆっくりと声のしたほうへ振り向き、こちらをぽかんと見つめる少女の目をのぞき込む。澄んだ黒瞳に、強張り気味の自分の顔が映っているのがわかる。
「ええと、あの……?」
「ああ、ごめん。お店の光が綺麗だったもんで、つい」
「……?」
表情に困惑の色を濃くした少女に向かって、朔磨はあっけらかんと笑いかける。しかし、その作り物の笑顔の奥には、ある疑念がとめどなく渦巻いている。
――本当に、自分にできるだろうか。
***
「だから、ここにいたら危ないんだ。近々暴走族の集団がここら辺に来るって話してた。ことが収まったら連絡するから、とりあえず今はここから離れて」
「え、ええっ。そんなことを急に言われましても…」
あれから朔磨は、とにかく少女をここから離れるようにあれやこれやとありもしない理由をつけては説得中だ。勿論暴走族のくだりもすべて創作である。
今は多少強引でもいい。手を抜いてしくじって、彼女が死んでしまっては元も子もない。そう考えると、無理やりにでも連れてった方がいい気がしないでもないが、後々面倒なことになるので、それは最終手段としてとっておくことにする。
しかし、説得を試みて少し経ったころ。
朔磨には若干の焦りが芽生え始めていた。
「店番を任されている身として、勝手にお店を離れるわけには…離れたほうがいいほど危ないというのなら、店は戸締りしないといけないですし……」
少女は目を白黒させながらも、きちんと考えて判断したうえで朔磨に返答を返している。そのどれもがもっともな正論だ。
――そのことが余計に、朔磨の焦りと苛立ちを誘う。
「ああくそっ……いいから! 少しの間だけだ! 大体店だって戸締りしても……とにかく、早くしてくれ!」
少女のどうあってもその場から動くまいとする姿勢に、思わず声を荒げる朔磨。
背中に焦りと苛立ちと恐怖とが混じった冷や汗がダラダラと伝い、気持ちの悪い感触を与えてくる。タイムリミットはもうすぐ。きっとあと数分後、運が悪ければあと数十秒後まで迫ってきていた。
「ひ……そ、そもそも、ど、どうして危ないんですか? 別に私はその、暴走族さんたちに余計な口出ししませんし、私が襲われる理由なんてないし作らないですよう……」
朔磨の態度に怯え、それでもなお正論を提示し続ける少女。
「い、いや……その、そいつらは、近所でも有名な暴れっぷりで、何にも関係ない人を傷つけたりするのなんて日常茶飯事、らしい。君はまだこっちに越してきたばかりだから、知らないかもだけど……」
朔磨が曖昧な言葉を発した、次の瞬間。
少女の顔に、はっきりと何かが浮かんだ。いわばそれは、「捨て」だ。
彼女は今までの問答の中で、頭の片隅では朔磨のいうことを信じるという選択肢も少なからず考慮していた。
しかしたった今、その選択肢が突如として殴り捨てられ、露ほどの跡も残さず消えてしまったのだ。
それを感覚的に察知した朔磨に、少女は問いかける。それを向けられている人物が痛みを錯覚するほど、冷たい視線で。
「――どうして、私が最近越してきたばかりって知ってるんですか?」
「………」
――決定的。
まさに会心の一手…いや、こちら側の痛恨の一手だった。
黙り込んだ朔磨を、氷のような目で見つめる少女。二人の間に、沈黙が降りた。
見事なまでに八方塞がりを体現したかの如き今の状況を打破する手札を、朔磨は手元に持っていない。
――そして追い打ちをかけるように、本当の「詰み」がやってくる。金属のつぶれ軋むような足音を暗闇とネオンの輝く街に響かせながら、少女に、朔磨に、牙をむく。
潰れた大型車が、二人の命を根こそぎ奪わんとしているかのように烈しい勢いで迫ってきていた。
「…………ぁ、っえ……?」
少女は、先ほどまでの凍った仮面をつけた表情を捨て、ただ目の前に起こっている出来事を受け入れられずに喉を詰まらせ立ち尽くしている。
そしてそんな絶望的な状況に陥ると同時に――朔磨の手元に、一枚のカードが現れた。
物質的な意味のカードではない。いわばそれは、彼がこの状況で使える選択肢。――彼がとれる、一つの行動。
「――ッだあああああああぁぁああぁあッッッ!!!!」
声を振り絞ったことによって、何かが変わったわけではない。
ただそれは、朔磨の、自分の覚悟に対する答えだった。
華奢な体は突き飛ばすと簡単に遠くまで飛んで転がっていき、べちゃりと地べたに倒れこむ。少女は痛そうに自分の体を起こし、こちらで今まさに起ころうとしている惨劇へと泥で汚れた顔を向けた。
少女が涙を流しながら何かを叫び、手を伸ばす姿が一瞬見えて、消える。
それを最後の光景にして、久遠朔磨は今までの自分を振り返るだけの猶予も与えられず。体をほとばしる激痛に無様に泣き叫ぶ時間すら与えられず。
――――潰え、死んだ。
***
――朔磨は、考えていた。
死んだという絶対的な事実の後に考えるという行為が許されるのかどうか、それは誰にもわからない。ただ朔磨は、形の失った意思を揺蕩わせていた。
――ああ、これだけで。たったこれだけで、自分という存在はいとも簡単に散ってしまう。
……しかし、しかしだ。
仮にもし誰かに、俺の、声にもなっていないこの言葉が聞こえているなら、どうか答えてくれ。
――今回の俺は、あの子を助けられたよな。
***
――彼が演じたのはヒーローでも笑いものでもなく、主人公を気取った悲しいくらい平凡で無力な、ただの一人の少年だった。