第一章1 『物語の始まった日』
春風が吹き込む学び舎の朝。そこから頬杖をして窓の外を眺める一人の少年、久遠朔磨は、未だ新しい生活に慣れていなかった。
中学校から高校へ上がるといっても、その瞬間夢にまで見たスクールライフを誰もが送れるかと言われれば、そうではない。ただ周りに初対面が増えるだけであり、人付き合いが下手な者はそれだけで委縮してしまう。
むろん、人は急には変われない。自分もそうだが周りもしかり。高校生になったからといって女子が急に男子に対してフレンドリーになるわけがない。小学校や中学校の時代に女子の友達を作れていなかったなら、高校でもきっとそうなるのだ。
「で、君がその典型的な例と」
「いやなんでやねん」
唐突に自分の口から出てきた似非関西弁に驚きつつ、手刀でいつの間にか現れた眼鏡の男子の頭をはたいてやると、彼は面白そうにけらけらと笑った。
「僕はてっきり自分のことを語ってるもんだとばかり」
そういって眼鏡をいじくる彼の名前は桐生宗太郎。高校に入ってから朔磨にできた数少ない友人だ。へらへらとした態度でいとも容易く相手に取り入り、韋駄天のごとき速さで懐柔してしまう恐ろしい男である。
「一体何の悲しいことがあって黄昏ながら自虐に浸らないといけないんだよ」
かといってあてはまっていない、と言えば嘘になるわけだが。世情を憂いている気になっていたら気づかないうちに自分の話にすり替わっているなどよくあることだ。ことネガティブにとっては日常茶飯事である。
「じゃあ僕はその話の反例じゃないか。僕は自分では夢のようなスクールライフを送れていると思うんだけど」
得意げに手を広げる宗太郎。朔磨の目には、それがどうも嘘くさく見える。
「それは違うぜ? どうせ中学でも楽しかっただろお前は」
「あっはぁ、バレちゃった?」
びっ、と人差し指を突き出してやると、彼はあっけらかんと意見を捨てた。この男のこういうところがどうも計れない。
正直なところ、何故朔磨と行動を共にすることが多いのかもいまいちよくわからないのだ。
「ところでサク、部活は何にするか決めたかい?」
ころりと話を変えた宗太郎がそう言って出してきたのは、部活動登録用紙。たくさんの、中には聞いたこともない部活動名が並んでいる。
種類が多いのはいいことだが、そのせいかどうしても部員が足りず、廃部と創部という哲学的な動きを繰り返すところも少なくないのだとか。
「もちろん。中学と同じだよ。やっぱり高校部活は経験が大きく影響するからな」
「おお素晴らしい。してその部活とは?」
「帰宅部」
朔磨が無味乾燥な単語を笑顔に投げつけてやると、宗太郎はやれやれやっぱりといったふうに肩をすくめた。
でも実際、いくら初心者大歓迎と謳っている部活動側もやる気のないものが入ることなど望んでいないだろう。そう考えると、帰宅部という概念はまさに相互利益、ウィンウィンという考え方の極致と言えるのではないだろうか。
いや、わかってるから大丈夫。正当化っていうんだろ? 知ってるよ。
「うーん、わからないな。君は自分の人生を楽しみたくないの?」
えらく月並みで使い古された、しかし答えるのが難しい問いに朔磨は頭を悩ませる。
「あー、そうだな。宗太郎、自分の世界の主人公って誰だと思う?」
「ちんぷんかんぷんな質問だ。それは自分だろ? どこに疑う要素があるっていうのさ」
さも当たり前と言うように片目を閉じてみせる宗太郎。
そしてその答えは、間違いではない。この世界には人の数だけ物語がある。
「けど、物語の主人公は、魅力的でなくちゃな。それでこそ手に取ってもらえる。歴史っていうゴミ箱の中から、引っ張り上げてもらえる」
ただただ醜くて、読みにくくて、魅力も個性もない物語なんて、読んでいて楽しいはずがない。
平凡な人間が平坦な道を歩いて何もせず死んでいく。
そんなものを楽しんで読める輩などどこを探せばいるというのか。
「自分っていう人間を主人公に据えた物語を生涯かけて書き上げるなんて、そんなのごめんだね」
今、俺はどんな顔をしているんだろうか。
そう考えると、朔磨は少し切ない気持ちになった。
***
得てして僕らの世界には、他人事がそこらに渦巻いている。
知らない他人のことに関しては、たとえすぐそこで死にかけていたとしても欠片も関心を持たないことがよくあるのだ。
学生の下校中、隣の道路を重体の患者を乗せた救急車が通っても、彼らは昨日見たテレビ番組の話をやめない。
おぞましい猟奇殺人事件の記事を載せた新聞の一ページは、読まれることなくチラシと一緒に紐でくくられる。
――こうして僕らは、自分の街で人が死んでいくのに気づかない。
***
時間は速いのか遅いのかわからないような曖昧なスピードで過ぎていき、今日もいろんなことがあったなと見上げる空は暮れに差し掛かっていた。
たいして楽しくもない長く続いた帰路を歩いていると、いつも朔磨を謎のもの悲しさが襲う。人付き合いが不得意で一人でいることは多いが、何も朔磨がそれを好む人間というわけじゃない。特にこんな薄暗い帰り道では尚更のことだ。
やがて大通りに近づくにつれ、車の音も大きくなっていく。人が大勢群れているところに入り込むのは、今でも慣れない。人混みは嫌いなのだ。
そこで朔磨はふと、いつもとは違う感覚を覚えた。
街を照らすネオン。そこから少し離れたところに、一つ見慣れない光がある。しばらく考えて、いつもはそこに明かりなどなかったことを思い出した。朔磨にはそれがとても温かい光のように見えた。
引かれるように足がその光へと向かう。そこはどうやら、最近できたばかりの和菓子屋であるようだった。扉の上の看板には、ひらがなで『ひいらぎ』と書かれている。
朔磨が店先で入るか否かと二の足を踏んでいると、
「あの、どうされました……?」
不意に後ろから声がして、びくりと肩を震わせる。声色からして女性のようだ。
振り向いた先には、少女がいた。和風のエプロンを身にまとい、茶色がかった髪を肩まで伸ばしている。年は見たところ朔磨と同じくらいで、その中でも整った顔立ちをしているほうだろう。しかし今その顔には警戒の色が滲んでおり、目を細めてじろじろと朔磨を見ている。
わかりやすいなと微笑ましく感じる反面、若干の焦りが背筋を伝う。
「いや、別に怪しいものじゃなくて。その、へえ、和菓子屋さんできたんだ、みたいな……はは……」
薄笑いとともに怪しいもの成分を遺憾なく発揮した朔磨。二人の間に落ちた沈黙が朔磨の額に冷や汗を増やす。
だってコミュ障にいきなり潔白を証明して見せろと言われても無理な話だろう。余計に怪しまれるのが関の山だ。実際そうなったし。
「……ですか」
「え?」
小さく動いた少女の口から何か聞こえたような気がして、朔磨は思わず聞き返す。
「ひょっとして、お客さんですか?」
何か、拍子抜けしたような、期待するような声に朔磨はこめかみを掻く。
「あー、そう、なるのかな」
曖昧な返事を返してやると、途端に少女の顔が太陽のように光り輝いた。
何か変なスイッチを押してしまったようだ。
「やっぱり! そうじゃないかと思ってたんです。さあどうぞどうぞ、上がってください」
「いやちょっと、待って待ってえ!?」
先程とは打って変わった朗らかな態度に気圧される朔磨。笑顔でどしどしと背中を押してくる少女になすすべもなく、朔磨は成り行きに押し流されるまま入店を果たした。
***
「……うまい」
手元の大福を見て、朔磨は感嘆の息をこぼした。
「えっへん、そうでしょう! 作り方はもちろん企業秘密ですけどね」
どうだと言わんばかりに腰に手を当て薄い胸を張る少女。
確かにこれは今まで朔磨が食べてきたどの大福よりもうまい。食べ物にそこまで関心があるわけではないが、それでも違いが分かるほどだった。作り方を企業秘密にするのも納得できる。
「すごっ! こんなうまいの初めて食べた……わりと冗談抜きで」
「むふー。照れちゃいますね」
試食でこんなに感動したのは初めてだ。朔磨は味の余韻に浸りつつ口元をぬぐう。
「繁盛間違いなし。これは売れる。俺の中の何かがそうささやいている」
「そういう感じで言われると自信なくしますかねー」
ショックだ。自分では絶賛したつもりなのに。
「うちは本来試食はやってないんですけどね」
「え、俺食べちゃってよかったの?」
年齢的に、彼女に店の舵取りが任されているとは思えないのだが。
「実はあなたが、開店してから一番のお客さんだったんです。だからなんていうか、嬉しくなっちゃって」
薄っすらと頬を赤らめる少女を前に朔磨は、さっきあれほど喜んでいたのはそういうことか、と一人納得する。それにしても少々わかりやすすぎるけれど。まあ愛嬌というやつだろう。可愛かったからいいや。
「君はこの店でどういう立ち位置なんだ? ただのバイトじゃない感じだけど」
「私は、このお店の店主の娘です。今は二人とも出かけていて、店番中なんですよ。最近ここら辺に越してきたばかりで、ちょっとドタバタしているので」
少女はえへへと頭を掻く。
「なるほどな。いろいろ大変そうだ」
一人で店番を任されるなんて、しっかりしたものだ。自分などバイトする、手伝うという考えすら浮かばなかった。
「いえそんな。私はお店の手伝い楽しいですし」
「美味しい和菓子毎日食べ放題だしな」
「そーんな下心満載な気持ちでお手伝いしてませんよーだ」
舌を出して笑う少女に、苦笑いを返す朔磨。同じくらいの年頃というのもあるだろうが、彼女とは話していて居心地がいい。
「じゃ、俺はこれを買ってくよ。二箱ちょうだい」
試食させてもらった大福を指定すると、少女は興奮したように背筋を伸ばし、空気を切り裂くような速さで頭を下げてきた。
ビュウンという音を立てて彼女の茶髪が巻き上がる。
「あ、ありがとうございます! こんな若輩者が商いの喜びを知れるなど感無量ですう!」
「俺は一体誰なんだよ」
まるで日本の和菓子界の総本山にでもあったかのような口振りである。
大福を驚くほど丁寧に紙袋に入れてもらい、代金を支払ってそれを受け取ると、朔磨はふと聞きたいことを思い出した。
「あ、そうだ」
「? なんでしょう?」
キョトンとした顔の少女の目を見て、朔磨は言う。
「君の名前って――」
その時だった。
突如として彼女から笑顔が消え失せ、青ざめていく。その視線は、明らかに朔磨ではない何かに向けられていた。
咄嗟に彼女の視線の先を追う。
そこで、気づく。
鼓膜を壊さんと襲い掛かってくる猛烈な轟音、そして目の前に迫りながらもなおその勢いを緩める気配のない、地面をはねながら飛んでくる大型車。
そしてこの後自分と少女を襲うであろう、恐らく避けようのない凄惨な結末に。
その結末は、もう目と鼻の先。
眼前に迫ってきている。
諦めるのが、当然だった。
いや、諦める時間すら与えられていなかった。
だってもうあとコンマ数秒の間に、いったい何ができるというのか。失われる自分の未来を嘆くこともままならない、そんな短い時間の中で、いったい何が。
その瞬間、朔磨は――。
***
ぐるぐると回る意識の中、少年はどこか冷静だった。
ああ、やっと終わるのかと、そう思った。
わかっていたはずだ。
知っていたはずだ。
この世界は、自分たちを甘やかしてはくれないのだと。
そして少年は静かな諦念と共に、命の糸をぷつりと切られて死んでいく。
――モノクロになりゆく世界の中、自分が少女を守るように抱きかかえていることにも気づかずに。