5.王子の困った顔
いつまでも土下座をしていると、先輩は「顔を上げて」と言った。
「なにも君を糾弾しようとしているわけじゃないんだ。ただの興味本位。今のいままで君が僕を殺せる瞬間は何度もあったけど君はそうしなかった。ばかりか、自分のことはそっちのけでご両親のことばかりだ。そんな君を見て、今更怪しいなんて思わないよ。だから形式的なものさ、一応、念のためってね」
「それで一応、牢屋に入るのですね……?」
先輩は笑いながら「そうそう!大正解」と言う。何て奴だ。これが本当にあの優しかった紫音先輩なのだろうか……と言っても声が同じなだけだけど。
「(さっき顔を上げてと言っていたし、先輩の顔、いま見ていいのかな? いいよね?
よし、見るぞ!)」
私は勢いよく顔を上げ、目を見開いた。
瞬時に明るくなりすぎてめまいが起きたけど、それでも私は見たかった。彼の顔を、紫音先輩の声を持つ、その人物を――
「え…………」
「ちょっと君、大丈夫? 死んだような顔色になってるよ?」
「だ、大丈夫、」
じゃありません!
声なんて出るはずもなかった。
なぜなら、私の目の前にいたのは彼だったから。
彼の声を持つ人物ではなくて、彼自身だったから。
「紫音、先輩?」
大きな瞳に薄い唇、少し尖がった顎に似合わない、優しい眉の形。細い髪は柔らかいワックスでスッキリまとめて、襟足は好青年のように少し乱しながらも揃えている。私と同じ髪の色ではなくなったけど、金髪の色も違和感なくとても似合っている。「髪、染めちゃった!」彼の唇から、今にもそんな言葉が聞こえてきそうだった。
「本当に、紫音先輩だ……」
「ん? 何か言った?」
『何か言った? 翔子ちゃん』
「いえ、何も……!」
彼が、そこにいる。
紫音先輩が、私の前にいる。
二人生きて、同じ世界にいる。
こうして巡り会えている!
そんな奇跡が目の前で起こっていることが、信じられなかった。
「お会いできて、幸せです……っ!」
さっきの怖い出来事なんて忘れて、これから牢屋に入ることも忘れて、私は笑った。ああ、笑みが止まない。涙が止まらない。嬉しさがこみ上げる! この世界に来て一番の幸せな出来事!!
すべて夢かもしれない。夢であってほしくないけど、夢かもしれない。
それほどまでに、夢見心地が止まらない。
今まで抑えていた愛が、目の前で弾け飛んだ。
「うぅ、っぐ、ひっ!」
「大丈夫? ほら、ハンカチ」
「あ、ありがとう、ございまつっ!」
「プッ、”まつ”って」
紫音先輩の手から真っ白のハンカチを受け取る。その肌触りは腰に巻いていた生地とはまた違っていて、こちらの方が格別に柔らかく気持ちが良い。先輩の愛を受け取るようにそっと受けとり、胸に閉じ込めた。
「ちゃんと顔拭きなよ? それじゃあね」
「はいっ! ありがとうございます!」
私の前から先輩が立ち去る。ああ、すぐにでも呼び止めたい。
呼び止めて、駆け寄って、もっともっと話したい。
二人だけの時間がほしい、私には、彼といなかった時間が長すぎたようだ。
「あの、王子!」
「ん?」
突然の問いかけにも、紫音先輩はクルリと軽快に振り返ってくれる。その際、バッヂや軍服の装飾が華麗に揺れた。白を基調とした服には赤と金のラインが入っている。しかし決して服に着られるわけではなく、服に負けない堂々とした雰囲気が彼にはある。王子たる力強い眼差しと迷いのない声――彼のどこをとっても並みの位ではないことが分かる。
彼は本当に王子なのだ。
紫音先輩という、王子様。
だけど、偉くなった紫音先輩は、私のぐちゃぐちゃな顔を見てまた笑った。その顔は、いたずらした時のような表情で、憎めない。むしろつられるように私まで笑ってしまうのだから仕方ない。この一コマだけでも、二人でふざけあった日々を彷彿させた。
笑みも仕草も、彼の言動一つ一つが先輩のそれで、やっぱり赤の他人とは思えなかった。
だから、そうなんだ。
きっと彼は、紫音先輩なんだ――
「話し合いの結果は、王子の口からでしょうか?」
「今日はたまたま僕が居合わせただけで、兵士に伝言を頼むのが普通だよ」
「そうですか……」
「でも……僕の時間が合えば、直接伝えるよ。こうやって直接案件を聞いたことだしね」
「ほ、本当ですか!?」
ヤッタ!とガッツポーズをする私。
困ったような顔で笑う紫音先輩。
そして、彼の横で不服そうな顔をする誰か――
最後の人に関しては、私も目に入っていたはずだけど、特に気にも留めず、彼らとはそこで別れた。私は残った兵士に牢屋を案内され、大人しくするようにという言葉を最後に、電球一つの真っ暗な牢屋に残される。石でできているのか中は冷え切っていて、毛布一枚ではとても数日ともちそうにない。
だけど、怖いという感情は一切持ち合わせず、ただただ、嬉しいという幸福感のみで私の体は満たされていた。寒いのに暖かい、冷たいのに、温かい。別の意味で、その日は寝られなかった。
きっとまた会える――
ドクンドクンと高鳴る私の鼓動。
その嬉しそうにスキップしているかのような鼓動が、未来にある私の幸せと共鳴している気がした。
「きっとまた会える」
ハンカチを見ては、そのハンカチを握り直しては、そう呟く。
「今度はいつ話せるかなぁ」
その日を一分、一秒、常に待ち遠しく思うのだった。
◆
ライアンの隣で、不服そうな顔をするルーファスは時間が経った尚も不機嫌だった。
「何をそんなに怒っているの、ルーファス」
どうやらルーファスの気持ちは分かっているようだが、ライアンは特に気にも留めていないようだった。「誰がそうさせているんだ」とルーファスも怒ったのか、自身の懐に手を突っ込み、一枚の洋紙を取り出した。途端に洋紙から漂う、香水のキツイ香りに、ルーファスも、そしてライアンもキツく眉を顰める。
「分かった、俺が悪かったから、その紙を閉まってくれ。鼻がもげそうだ」
「分かってくださればいいんです」
素直に懐に戻すルーファスを見て、ライアンは溜息をつく。
「仕事で王宮をあけると伝えたはずなんだけどね、どうして”戻ってきて”なんて手紙を寄越したんだろう」
「単純に寂しくなったのではないですか?」
「寂しい? 昨日は会ってるんだよ?」
「それはそうですけど――――ライアン王子とアリス様は、婚約してまだ一か月です。新婚というのは、どんな身分であれ幸せなことで、いつも愛する人と一緒にいたいものなのですよ」
「そういうものなのかなぁ」
納得いかないのか再び顰め面をするライアンに、ルーファスは「それはそうと」と話題を変える。
「むしろ特別何かあったのは、あなたの方ではありませんか? ライアン王子」
ルーファスは先ほどのことを思い出す。
「王子が国民と長く話すのは珍しいことです」
「あぁ、そのことか」
ライアンはルーファスから小言を言われる覚悟があったようだ。すぐ合点がいったと、眉を下げる。
「目の前で市民が殺される姿を、黙ってみてろっていうの? ひどいね、お前は」
「まさか。ライアン王子の采配は素晴らしかったです。間違ってはおりません。問題はその後にあります。なぜ‟また会う”などと約束をしたのですか?」
「会う、とは言っていない」
「そう言ったも同じです。あれでは王子が自ら会いに行くと言ったようなものです」
「仮にそうだとしても、何が悪い?」
「な!?」
何も悪くないと思っているのか!?
この王子、本気!?
ルーファスの眉間にさっきよりも深い皺が刻まれる。
「悪いも何も、あなたのどこに、牢屋に行く時間があるのです?」
「呼び出せばいいだろ?」
「そういう意味ではありません! あの国民と話をする時間が無駄だと言っているのです! 王子も口にされていたではありませんか! 兵に伝言すると! それでいいのです!」
「そう怒鳴るな、病気になるぞ」
ケラケラと笑うライアンの横で「誰のせいで」とルーファスはフーフーと猫のように息をした。
実はブラウン夫妻と同じ六十代である彼はまだまだ現役で公爵として働いているのだが、時折見せる爺らしい行動に、たまに周囲から心配されている。
「第一、素性がどうであれ女に会いに行くことがアリス王妃に知られでもしたら――爺はそっちの方が恐ろしいのです」
「確かにな、アリスは美しく教養も高いけど、どうも嫉妬深い。まだ可愛いと言える範疇だけどね」
「だから! 余計! なのです!
一度タガが外れればアリス様は何をするか分かりません。そういった危うさを内に秘めていらっしゃいます。だからこそ、王子の言動が重要になってくるのです」
「えらくアリスに詳しいね、調べさせた?」
「ライアン王子の周りにいる人物のことは誰に調べさせるでもなく、この爺が独自に調査しております。大事な人のことは何事においても、一番信用出来る方法で行動せねば意味がありません」
「お前は本当に男らしいね。助かるよ、ありがとう」
「いえ……」
だんだんこっぱずかしくなったのか、ルーファスは何も言わなくなった。黙って、ライアンの後に続いている。これを機にと、今度はライアンが薄い唇を開いた。
「あの子に興味が湧いたってほどでもないけど、あの子の言うことが新鮮だったから、ついね」
「新鮮?」
「うん。家族は支え合うもの、とかって。ほら、僕の家は少し特殊だからね」
「まぁ、王族ですからね」
それなりに良いことも悪いこともあっただろう――
昔からライアンの傍にいたルーファスは、素直にそう思った。
「だから、あれが一般的な回答なのかーって。それに国の策に不満をぶつけて来たのもあの子だけだし、」
「黒髪だし? っと失礼しました」
「ま、その興味もあるけど。
あの子の何もかも新鮮で心乱されちゃっただけだよ。だから最後にあんなことを言ってしまった……許してくれる?」
許してくれるような言い分を考えて発したような言葉だが、そこには確かにライアンの本音も交じっていた。ルーファスには確かに、その本音が届いていた。
王族だからこそ、一般には触れられない何かがある。特に、この王子には。
全てを許すはずではないが、少しわがままは許してやるか――
「分かりました。先ほどの国民に再び会うことを許しましょう。ですが、今、いち早くアリス様に会いに行けば、の話ですよ?」
「ルーファスは堅いなあ、それでも公爵?」
「あなたみたいな緩い王子が他にいますか」
「ま、そうだね。あいつとは違うからね」
ここでライアンの声のトーンが僅かに下がる。機微に聡いルーファスは、もちろんその信号を逃さない。
王子はアリスに会いに行くことの他に、別にしたいことがある――
直感でそう感じた。
「会いに行かれますか? あの人に」
「いや、それこそ呼んでよ、僕の部屋に。大丈夫、アリスは自室に控えさせるから」
「アリス様の怒った顔が目に浮かびますね」
「でも、聞いておきたくてね。どうして――
どうしてあの娘の腰に、いつもシアン騎士が身に纏っている布があるのか。
僕としては、そっちの方が気になる」
ニコッと笑う笑みの奥に、何の光もないことをルーファスは感じ取る。と同時に、あの布はやはり騎士のものだったかと、心配の種がいま花開いてしまった。
あぁ、また胃痛に悩まされる日が来るのか――爺の心労は計り知れない。
「あの娘に直接問えばよろしかったでしょうに」
「そんな余裕があの子にあったとも思えない。言ったところでまともな回答は帰ってこないと思うよ。それに、僕らに内緒にしておきたいなら、あの布を取って乗り込もうとしたはずだからね」
「確かに」
それもそうだ。
あの娘はそもそも布の存在を隠していなかった。むしろ、己の服を隠すために布を巻いていた。隠しておきたいのならば、わざと目立たせるようなことを果たしてするだろうか? いや、普通はしないだろう。であれば、やはりあの娘にきいたところで得られる情報は何もない。
ならば、突破口はただ一つ。
布をやった張本人から、情報を炙り出すだけだ。
「王族の持つ服をよそ様にあげるなんて、どういう理由があるんだろうね。しかも、あの騎士がだよ?」
「さぁ、爺にはわかりかねますが……」
嬉々として話し出したライアンを横目に「時間帯はいつにしましょう?」とルーファス。
「お風呂に入られた後にしましょうか?」
「今すぐだ。今日は疲れた、早く寝たい」
「かしこまりました。では後程お部屋に向かわせましょう」
「うん、頼んだよ。ルーファス公爵」
「はい」
恭しく礼をした後、ライアンが無事に部屋へ入るのを確認したルーファス。
「これから戦争が始まりそうな空気だったな……」
額に出た冷や汗を拭って一呼吸。
今まで遣ってた気がどっと緩んで、壁にもたれかかりそうになった。しかし、ここでへこたれないのが爺の公爵たる所以である。ライアンが入った部屋から女性の甘ったるい声が聞こえる中「伝令兵ー!」と声を荒げた。すると柱という柱に控えていた兵が数人集まる。「騎士をいち早くここへ呼ぶように」と命令し、そして自分自身も彼がよくいる馬小屋へ赴いた。