22.不思議な本
そして私が連れてこられた場所――それは変なラボラトリーを抜けた、日の当たる暖かな一角にあった。仰々しくもなく、しかし倉庫のような質素な感じでもなく。品の良い佇まいで、執務室は私たちを出迎えた。
「ライアン王子、私も本当に入ってもいいのですか?」
「うん。入らないと僕の手伝い出来ないでしょ?」
「そ、それはそうですが……」
あっけらかんと言ってのけるライアン王子だが、王の執務室なんて秘書くらいしか入れないんじゃないだろうか? それを一介の召使いが入室を許されるなんて、何度聞いても耳を疑いたくなるのは無理もない。
「えっと、では、失礼します」
「どうぞどうぞ、汚いところだけど」
「そんな、ライアン王子の部屋が汚いなんてそんなんことあるわけ、」
その通りだった。
「(なにここ、きったな!!)」
ドアの上品さからはかけ離れた世界が目の前に広がる。日の光が当たっているけれど、埃や塵が飛んでいて一呼吸もしたくない。これがケサランパサランなら話は別だが、飛んでいるのはせいぜい本棚の隅で大きくなった埃の塊で、思わず目をそむけたくなる。
しかしライアン王子は笑みを浮かべていた。「いやーこれ大変だったんだよ、なかなか片付かなくて」と言っているが、なるほど、私の仕事は決まったらしい。
「私のお仕事は、この汚いお部屋の掃除でしょうか?」
「そうだよ、うってつけだよね! 捨てる物は何もないから、僕が一目見ただけでどこに何があるか分かる様な整理の仕方にしてね――さっき汚いって言った?」
「分かりました。整理整頓を心がけます――言っておりません」
「じゃあ僕はここの机で書類を片付けていくから、フランも掃除始めちゃって。汚い部屋がきれいになることを願っているよ」
「……承知いたしました」
言うとライアン王子は本当に椅子に座り、無言のまま作業を始めた。机上の左にたまった書類を手に取り、目をとおし、良ければ印を押し、右側へ積む。内容が悪ければ一筆コメントを入れ机上の真ん中に置く。傘の長さほどある書類を、これから全部目を通すのだろうか? やっぱり王子は大変なんだなあ。
「(ってか、本当に王子だったんだな。紫音先輩の顔と声だから、いまいちまだピンと来ないのよね)」
ふうと一息ついて改めて部屋を見渡す。部屋は隣にもう一つあり、どうやらプチキッチンのようだ。この部屋はというと、本棚が壁をギッシリと覆っており、なんとも息が詰まる部屋だ。その本棚というのも、地面から天井まで高さがあり、その中を埋める本はもう定員オーバーで、ただの一センチの本の入る隙間もなかった。
「(それなのに、床にもソファにも本が散乱している。これをどこに片付ければいいの……)」
捨てるなというし、目の届くところに置けというし……面倒な王子だ。これをどうやって片付けよう? 床にタイトルだけが見える様に綺麗に並べたところで、机に座っている状態では見える本数に限りがある。それでは王子の期待に応えていない。
「(うーん……ん?)」
本棚に並ぶある一点を捕える。それは本棚一つをまるまる埋め尽くしている、小説の本だった。
「(参考書とかではなく、小説?)」
ライアン王子が読むだろうか? それともアリス王女? いや、どちらにしろ小説のようなジャンルが執務室にあるのは似合わない。それとも、実はこの国の政策に一役買っているのだろうか?
「(少しだけなら、いいよね?)」
音を立てずに棚の扉を開け、端っこの本をとる。それはどうやらシリーズ化しているらしく、私がとった本はタイトルの横に「1」と数字がふられていた。ザッと見るだけでも二十巻くらいある。完結しているのだろうか? いや、それともまさか未だに続いているのかしら。
「(とはいえ、これが本棚を圧迫している原因か)」
取り出した本が元の位置に戻れない理由。
乱雑に床に放り出される理由。
それはジャンル違いの本が、狭い棚の中で威張っているせいだった。
「(冒頭だけでも読んでみよう)」
表紙に何が書いてあるか分からない。タイトルが読めない。あぁそうか! そう言えば私、異世界に来たんだった……馴染みすぎてて、自分の順応力が怖い。
しかし字は読めないけれど絵なら分かる。そこには、井戸の中を必死に覗いている女の子の絵が描いてあった。金髪で腰まで長い、綺麗な髪。顔は髪で隠れて見えないけれど、チラリと覗く薄唇が美女を予想させる。
「(髪は私より長いな。というか、キンバリーにあげた髪の部分だけがなくなってて不細工なんだけど、いっそ短く切ろうかな?)」
召使準備部屋で切ってもらえるはず。でも、啖呵切って出て来たから、いけずで丸坊主にでもされかねない……。自分の考えなしの愚考に頭を悩ませながら、次のページをめくる。そこに書いてある字も読めなかったので、またさらに次のページをめくる。すると、不思議なことに、小説の本文に入った途端――
「へ?」
わかる。
分かる、わかる!
文章が頭に入って来る!
「へ、え、えぇ?」
‟昔々あるところに――”
から始まる文章が、スラスラと私の頭の中に入って来たのだ。さっきまではタイトルさえ入ってこなかった私が、文章を、小説を読めている? なんという不思議なこと!
「フラン、どうしたの?」
私の奇声を耳にしたライアン王子が、書類から目を離さずに話しかける。それでも私の戸惑いは収まっておらず、必死に口をパクパクさせるだけだった。
「フラン?」
するといよいよ不審に思ったライアン王子が私を捉えた。そして、私が持っている本を見て、
一気に血相を変えた。
「フラン! それを持ってはダメだ!!」
「へ?」
襲い掛かって来るように机を飛び越してきたライアン王子が、私を目がけて一直線に飛んできた。その力の勢いはとどまるところを知らず、ブレーキのかからない彼の体は私を巻き添えにして床に倒れた。
ドダン――!!
「いったぁ~……ちょ、ライアン王子、大丈夫ですか!?」
「う、うううん……大丈夫……ちょっとビックリしただけって……え、違う! そうじゃなくてフラン!! その手に持っている本をいますぐ離して!!」
「え、こ、これですか?」
私の上に乗ったままのライアン王子が、あまりにも必死な形相をするので、言う通りにソッと床に下ろす。表紙の少女が井戸を、床を見下ろしていた。
「お、下ろしましたよライアン王子。これでいいですか?」
「え、う、うん。それでいいんだ。はぁ~もうフラン、ビックリさせないでよ」
「ビックリしたのは私です。一体なんなんですか、たかが本でこんなにムキになって王子ったら」
瞬間、プッと笑いが込みあげる。しかしライアン王子はというと「笑ってるけど君ねぇ」と眉を顰めた。
「この本のこと、知らないの?」
「生憎私は本のタイトルを読めませんから。だけど見たところ小説のようですが?」
「うん、あってるよ。この本は小説だ。一時世間を騒がせた」
「へえ、売れたんですねぇ。そんなに良い内容なんですか?」
「良い内容……さあ、どうなんだろうね」
「……というと?」
ハッキリしない物言いに疑問を抱く。するとライアン王子は「本当は口にするのも嫌なんだけどね」と、それはそれは嫌々そうに口を開いた。
私も、そしてライアン王子もソファに座り、二人横並びで話をする。未だ私が床に置いたままの本に目をやりながら「あれは」と重々しく王子が口を開く。
「タイトルは‟無音”」
「無音?」
「そう。無音。
だけど、この本が‟無”なのは音だけじゃないんだ」
「音だけじゃない?」
なんじゃそりゃ。
「出版社、著者、編集者、イラスト、何を探しても、どこを探しても、その表記はどこにもない。そして、本文も」
「本文?」
「フランも目を通したでしょ? 読めないんだ。まだ解読されていない文字で、学者も手を焼いている。僕が生まれた時には既にこの本は存在していたが、それでも、長い時間を費やしても、タイトルだけ読めて本文が読めないんだ」
「タイトルと本文が違う言語、ということですか?」
「うん、そうだよ」
「(でも……)」
いや、だからか。だから、私はタイトルが読めなくて、本文が読めたのだ。
「ライアン王子、私あの本に触りたいです。触ってもいいですか?」
「ダメだ」
「なぜです?」
ムッと顔を顰めると「あの本が‟無”だからだよ」とライアン王子が口にした。
「著者も出版社も分からない本が、タイトルの‟無音”だけを世に轟かせ、中身を読まそうとしない。そこにあるのは本当に、音すらもない‟無”だ。当然、みんなはそれを気味悪がる。当時これを城内で発見した国王も‟燃やせ”と命じたらしい」
「“発見した”? 誰かが購入して城においていたわけではないのですか?」
「そうではないらしい。兵の一人一人に問い詰めたが、誰だって買った者はいなかった。しかも城だけではない。町の至る所にこの本が散りばめられていたんだ。だから国民も誰もが知っている。気味が悪い――その認識と共にね」
「散りばめられた……それは確かに謎ですね。だけど、何が書いてあるか分からないからこそ、貴重かもしれませんよ」
「そんな思考にも及ばないほど、当時この本は気味悪かったということだ。と言っても、民衆が怖がって本を燃やしても王がそれに倣うのはどうかと言うことになって、さすがに燃やすまでは至らず、厳重にこの部屋に保管されているというわけさ」
「なるほど――で、なぜそれを触ってはいけないのですか?」
「こんな気味の悪い本を触ってみろ、本が生気を吸い取って皮と骨だけの‟無”になるぞ――
という、こんな噂が広がってね。だから恥ずかしい話、まだ噂が立たなかった頃にテキトーにこの部屋に置いた本が、噂が立ち始めて誰も触ることが出来なくなった、だからここに置きっぱなし、ということなんだよ」
「そ、それはそれは……」
まったく、子どもか。
もっと深い理由があるのかと思っていただけに、一気に肩の力が抜ける。それと同時に、スックとその場を立ち、本に近づいた。
「ちょ、フラン!」慌てるライアン王子だけど、そんな理由のために床に投げ出されているだけの本なんてあまりにも不憫だ。
「私が出した本です、私が仕舞います」
「ダメだ、触るな。兵にやらせる。おいとくんだ」
「あら、ではその兵の方は骨と皮だけになってもよいと?」
「……ふくよかな兵にやらせる」
「脂肪を吸い取ってくれる本なら女性の皆さんが放っておきませんよ」
「君はもう充分細い!」
「そういうことじゃありません!」
けどちょっと喜んでいる自分がいるぅ!
「も、もうライアン王子! しっかりしてください!
もしも本が生気を吸い取るなら、本棚だってとっくに木屑に成り果てています!」
「本棚はしょせん本棚だ。でも君は違う、生きている。フランは人間だ」
「そ、そりゃそうですけど……」
いつの間にか力強く握られた腕に、力がこもる。それは私が入れた力なのか、ライアン王子が込めた力なのかは分からなかったけど、二人の間にピリッとした緊張の糸が張った。
「フラン、君は面白い」
「は?」
なんですか、いきなり暴言ですか!? 女性に向かってなんと無礼な!
その言葉こそ無礼だよ、不敬罪。
う!
「フランは、失くすには惜しい人材なんだ。この意味分かるよね? 僕はまだフランを失いたくない」
「う、失うって、そんな大げさなっ」
「さっき君は僕に抱きしめてと言った。そして僕はさっきその願いを叶えた。じゃあ、フランは?」
「だ、抱きしめたって、あれは!」
ラボラトリーの部屋から逃さないためにやった、その場限りの行為じゃないか! 何が抱きしめただよ、羽交い絞めにしてやったの間違いでしょ!
「僕は君の願いを叶えた。なら、君だって僕の願いを叶えるべきだ」
「え!? 願いなんて大げさですよ!」
「いいから。フラン、ねぇ聞いて」
「っ!」
「君を失いたくない。それが僕の願いなんだよ」
「(ず、、、ずるい! なにそれ!)」
真っ直ぐな瞳を向けてくるライアン王子。その瞳は力強く、私のつま先から指の先まで、そして神経までを絡めとり決して離してくれない。そこまで真剣にされると、私も茶化すことが出来なくなる。
「そ、そうやってまた、私をからか、」
「からかってないよ。もしかして、さっきのこと引きずってる? 君をあられのない姿にさせた僕が怖いの? それとも自分が自分じゃなくなるのが怖いの?」
「意味ありげに言わないでください! 王子に無理やり抱きしめられていただけですよ、私は!」
「本当に? 僕によがってたんじゃないの? 目を潤ませて呼吸も荒くしちゃってさ、フランってばやらしいね」
「ご、誤解を招くような言い方しないでくださいってば! 王子とあんな近距離になって、緊張しない人はいません! あれはどうしたらいいか分からなくなってパニックに陥っただけです!」
訴えましすよ!――と盛大に噛むと、ライアン王子は吹き出し、その衝撃で思わずだろう、私の腕を離した。これ幸いと、一瞬の隙を見逃さず私は本を手に取った。意外に重い。
「あ!!」
「言っておきますが、王子!」
文句を言われる前に弁明を――予想通り、先手を打たれた王子はグッと唇を合わせる。
「この本と出合わせてくれたこと、奇跡だと思っています。私は残念ながらこの国の文字が読めません、だからこの本のタイトルも分かりませんでした。だけど不思議なことに、本文は読めたのです。タイトルが読めなかった私がですよ?」
「なに? 本文が読めた?
そこに書いてあることがわかったの!?」
「はい、分かります」
さっきは‟頭にスラスラ入って来る”とファンタジーじみたことを言っていたが、よくよく見ると本文は日本語で書かれていた。なるほど、そりゃスラスラ読めるわけだよ。母国語だもの。
「なので、ライアン王子にお願いがあります。もしもご迷惑でなければこの本の翻訳、私にお任せいただけないでしょうか?」
「翻訳……この本を読んで文字に起こすと言うの?」
「はい」
「そんな危険なこと、」
「危険ではないかと思われます。現に私、この本をずっと持ってますが体調の変化はありません。脂肪が消えてくれれば良かったですが、その様子もないです。
つまり、噂は噂。まるっきりでたらめだったんですよ」
「た、ただの本を僕たちはずっと怖がっていたというのか……?」
「正直に申し上げますと、そうなりますね」
「なんだ、そんなこと……」
疲れたように呟くライアン王子が哀れだったが仕方ない。こんな小学生のような言い伝えを根っから信じてきた、この国の頭が弱かったのだから。
「それに、先ほど冒頭を読みましたが、普通の物語の出だしのようでした。中身は把握しきれませんが、国の話題性になることは間違いなしですよ。何かのヒントになるかもしれません」
「何のための何のヒント?」
「だ、だから、まだそれは分かりませんが……けど、文化の一つとして残るなら、それもありかと」
「うーん」
今まで悪魔のような存在として扱ってきた手前、手のひら返して「国宝級の何かの秘密が隠されているかも!」とは急に思えない。それに、そもそも本だ。小説だ。翻訳したところで、一冊の小説を完成させることが、果たして今、必要だろうか? フランにはもっとやるべき仕事がありそうなものだけど――
「うーん……よし、分かった」
色々考えて、ライアン王子はようやく区切りがついたようだ。
「じゃあフランは時間のある時に翻訳を頼むよ。内容の報告は三日に一度くらいでお願い。だけど、何か変な内容だとか、暗号みたいな文が出て来たらすぐに教えて。学者を派遣して一緒に解読させるから」
あいにく自分の頭はナゾナゾに特化してないぞ、と思いながら「ありがとうございます!」とお辞儀をする。今まで明確な仕事と言う仕事がなかったため、モチベーションが一気に跳ね上がった。
「あ、だけど片付けが最優先だから。数日は僕の仕事を優先させてもらうよ。翻訳は夜中にでもしてね」
「え」
「楽しみにしてるからねー」
「(く、クソ鬼ぃ!)」
跳ね上がっていたモチベーションが、ジェットコースターのように勢いよく下降していった。




