9.相対する三つ巴②
シアンが私の部屋を目指していた時、当の私はやっとこさ恐怖心が拭えてきたのか「動くか」とノソノソ見悶えていた。「動くか」と呟いた声が今にも消えそうで、言葉を吐いた私自身に衝撃が走る。
「体がダルい……」
様々なことが一気に起こった――それは今まで平々凡々な暮らしを送ってきた私の身の上を考えるととんでもない衝撃で、この若い年齢も手伝って理解しがたい内容だった。
「なんだったの、あれは……」
イーノ本人が理解していない「負の感情」を暴力的にぶつけられたところで(その‟負”が嫉妬であろうことはこの時の私は知らない)、私が彼の行動の意味を分かり得ないのは当然のことで、ショックを受けた脳がなかなか回復しないのも頷ける。
ただ、いつまでも地べたに座っておくのも気がひける。ただでさえ暗い廊下は日光を遮って冷たいのに、地面は砂が王宮に入らないようにとコンクリートで固めてある。これにより、脂肪がついているはずの足もだんだんと冷えてきていた。
「寒い……」
このまま座り込んでいたのでは風邪を引いてしまう。そして騎士様の世話が出来なくなってしまう、すると降格して減給になる――
「だだ、ダメだダメダメ! おし、動くぞ!」
お金を稼ぐことが第一の私にとって減給は一番避けたいこと。それ故に気だるい体に鞭を打って、取り敢えず自室に引き上げようとする。
が、
「馬の声が聞こえる……二頭?」
突如耳に入ってきた馬の声。それはこの場所からすぐ近くのようで、馬の世話をしてきた私にとってはその嘶きがとても懐かしいものに思えた。
「おばさん、おじさん……」
短い時間だったけど三人で過ごした時間はかけがえのないものだった。決して贅沢とは言えない生活だったけど、自分のことを本当の娘のように思って接してくれた心優しい二人。異世界での自分の両親。
目を瞑ると頭の中に二人が幸せそうに笑いあう姿が浮かぶ。私が来る前も、そして来た後も、二人はお互いの目を見て心から笑い合っていたのだろう。それはきっと、これからも続いていかないとダメなことに違いない。
「あの二人が離れ離れになるなんて、絶対ダメだよね」
よし!と。
心を変える。
目つきが変わる。
すると目の前の風景が開けたような気がした。
そう――私は進まなければいけない。
離れ離れになった家族全員で、また美味しいご飯を食べるんだ!
ここでくじけるわけにはいかない!!
「まだやれる、まだがんばれる。行くぞ私! 負けるな私!!」
どん底にいても奮い立たせてくれる存在があるというのはなんと幸せなことだろうか――遠い故郷に思いを寄せながら「よっこいしょ」と壁に手を置きながら立ち上がる。足取りは覚束ないが、どうやらゆっくりでも歩けるらしい。
「召使いの準備室に行くのはもう少し後にして……とりあえず部屋の掃除だね。騎士様のお姿も見当たらないし、何かしろとも言われていないし、ちょうどいいや」
半ば休む気満々で自室のドアに手をかける。しかし、何をどう見間違えてしまったのか、ドアだと思って伸ばした先はただの壁だった。ガンと、鈍い音が聞こえたと同時に、力のない手に鈍痛が襲う。
「いった……!」
せっかく立ち上がったのに再び座る。そして手を腿の間に挟んで「少しでも痛みが引かないか」と奇妙に体を前後に揺らしてみた。
そんなことをしていた時だった。
「大丈夫かな?」
「へ?」
声の人物は音もなく私の後ろに立っていた。けれど敵意とかは全く感じず、むしろ、声色だけでも私のことを心から心配しているのが分かる。
「手を打ったのか? どれ、ワシが見てやろう」
「え、えと、お、おかまいなく……?」
心の中は「一体誰だ?」という疑問で溢れていたが、声の主はこちらの制止も聞かずプライベート領域ブッチギリで侵入し遠慮なく手を触る。どうやら考えている暇など一秒たりともないらしい。
「え、え、ええ、え!?」
おっさんセクハラよ!
内心叫んでいるが声が出ず、ただ口をパクパクさせる。しかしおっさんは容赦なかった。
「おー、こりゃまた派手にやったのう。けど赤くなってるのみじゃ、腫れはしていない。ほっとけば治る」
「は……はぁ」
「よかったのう」
「は、はい!」
なんだこのおっさん……いい人か。
怪しい目を向けていたけど、熱心に私の手を労ってくれる姿に、徐々にだがおっさんに対する疑念が払拭されていく。こういう警戒心のなさを世の中では「隙がある」というのだろうが、いかんせん私の体も心も、先ほどのイーノの件で正常に戻っていないため、外れっぱなしのタガは躊躇いなくおっさんに心を開いた。隙だらけの私だった。
「あの、見ていただいてありがとうございます。お医者さんか何かですか?」
「ほう?」
おっさんは見た目六十代。腹回りのお肉が少しついているが、かといってダラシない印象は受けず、キッチリとした貴族の服を着こなしているあたりエリート商社のお偉いさんにも見える。蓄えた白い顎髭がそう見させているのだろうか? どちらにしろ、悪い人には映らなかった。
「医者か?」と尋ねた私に、おっさんは驚いた表情になった。その表情の意味は「ワシを見て分からないのか?」という態度にも見えたが、はてさて――。
「わしを知らんのか?」
「お医者さんということしか……」
「いや、」
だから医者だとは言ってない――と言いたかったがこのおっさん、少し考えた後に「そうだ」と自分が医者であることを認めた。
「王族専用の医者でな。王宮に頻繁に通っておる」
「え、どなたかお体の調子が悪いのですか?」
「いやいや。健康診断のようなものでな。王宮に勤める人数は多いもんで、一人で見るには何日という時間がいるんじゃ」
「なるほど……大変なんですねぇ」
「最近は慣れたもんじゃ。希望とあらばお前さんの体も見てやるぞ?」
「いえ! 手を見ていただいてだけで、もう充分です」
「そうか、残念じゃのう」
しゅんと、明らかに落胆したような格好のおじさんを見ると「大の大人が小さくなってる」と可笑しくなってきた。変な人ではないのだろうけど、どこか掴めない人だ――まるでピエロのような騒がしい雰囲気を持つおっさんに少しずつ興味が湧く。
「お名前、なんて言うんですか?」
「ローランドじゃ」
「ローランドさん、カッコいいお名前ですね」
「そうかの? ほほ」
褒められて嬉しそうなおじさんだが、その瞳は先ほどから私を舐めるように見ている。その視線はまるで「観察している探偵」のように無駄なく動き、そして私の情報を一つでも漏らさまいと細部まで見ているようだった。
が、観察していることを私に悟られることはない(現に私は気づかなかった)。私の目を盗みながら、私と話しながら、しかし決して私に気づかれることなく、巧妙な盗み見のテクニックで情報を掠め取っている。
その張本人がサンタクロースのような白ひげのおっさんなのだから日本の地下鉄にでもいれば「見た目が怪しいから」と言う理由で真っ先に呼び止められたかもしれないが、生憎ここには隙のある鈍感娘しかいないためおじさんの不審な動きに「待った」をかける者はいない。
その間もおじさんは、確実に私を探っていく。
「お嬢さんは見かけん顔じゃな? 新しく入ってきたのか?」
「はい、フランといいます。昨日から召使いをしています」
「召使い? しかしそれは爵位に仕える召使いが着る服じゃなかったかの?」
「お詳しいのですね。その通りで、騎士様の召使いをさせていだいております」
「あの騎士が自分の召使いを!?」
新入り召使いが入級後、すぐに爵位に仕えていることに驚いた――というよりは、騎士が自分専用の召使いを採用したことの方に驚いた様子のおじさん。隙あり娘であるこの私も、さすがにこのニュアンスの変化には気づくことが出来て「あの?」と尋ねる。
「すみません、私、なにか失言でもしてしまったでしょうか?」
「え、あ、いや、気にするでない。すまぬな、大きな声を出してしまった」
「いえ! 私こそ」
「いや、フラン殿は悪くない。少し驚いてな……そうか、騎士が召使いを雇ったか」
「はい。たまたま空いていたようで。とても運が良かったと思ってます」
「運が良かった、か。
いや――そうでもないと思うぞい」
「どういう意味ですか?」
これに対し、ニヤリとおじさんはほほ笑む。
「知らんと思うから話すが――騎士はな、自分が騎士になった時から召使いを雇ったことは一度もないのじゃ」
「え、一度も?」
少なからず、というか、むしろ結構驚いた。
だって、変な話なのだ。
今まで一度も召使いを雇わなかった騎士が、どうして今回は自分を採用してくれたのだろうか?と。
「騎士様の気まぐれ、ですかね?」
「気まぐれで行動するような男ではないと思うがの」
「ですよね……あれ? えっと、ローランドさんは騎士様のことをよくご存知なのですね?」
「ワシくらい王宮に通えば、大体の人物の性格くらい分かる。粗方の事情もな」
「事情、ですか?」
では今回の騎士の心変わりについて知っているのか、と聞こうとしたら「しかし」とおじさん。
「騎士のこの度のことについては分からんが、よし。今度会ったら是非聞いてみるとするか」
「何だか楽しそうですね」
「騎士の仏頂面はフラン殿も知っておるだろう。その仮面をどうすれば取っ払えるかと、日々模索しておってな」
「はぁ、なるほど……?」
「と言っても騎士はワシのことが嫌いらしいが、なぁに。嫌よ嫌よも好きの内ってのう。
おっと、もうこんな時間か。ワシはそろそろ行くが、フラン殿はこれからどこか行くのか?」
「え、私は、自室に帰ろうかと」
「自室? ここは東棟じゃが?」
「えっと、ここが、私の部屋なんです」
ここっと指差したのは、二人が話をしていたすぐ横の扉。今にも壊れそうな扉に、今にも外れそうなドアノブが虚しく付いているだけの、ボロボロの部屋だ。それを見たおじさんは今まで見せなかった表情をし、私にまくし立てるように質問をする。
「お前さん、こんなとこに住んでいるのか!?」
「ええ、騎士様がここだと」
「なに、騎士が!?」
「は、はい!」
「自分が北棟に行かないからって何も召使いまで道ずれにせんでも……」
「え?」
ボソリと呟く声は残念ながら聞こえなかった。戸惑っていると、次にこちらを見たおじさんは「よし!」と何かを決意したような顔をしてみせる(その表情を言葉にするとしたら「ウキウキ」だろうか?)。
「フラン殿、この件はワシに任せておけ」
「へ?」
「もしこの部屋の掃除をしようと思っているなら暫し待つんじゃ。きっとその労力は無駄に終わる」
「あの、どういう?」
「まぁ見ておれ。いや、待っておれ!」
ニカと満面の笑みで微笑まれると私もこれ以上は何も言えず、ただ頷くだけに終わった。おじさんの言ったことは何一つ理解出来なかったが、とりあえず彼が楽しそうなら水をささまい。
「じゃぁ、これでな」
「はい! お話できて楽しかったです。会えてよかった、ローランドさん」
「ワシもじゃ」
「へへ」
おじさんは私の頭を二、三度撫でて踵を返す(最後まで隙あり娘だった)。その背中は異様に広くて、どんな問題でもあっという間に解決させてしまうのではないかと思うほど、心強く逞しいものだった。
しかし、彼を遠目で見て初めて気が付くことがあった。
「あれ、手に何か持ってる?」
今まで近すぎて気づかなかったけど、おじさんは手に何か持っている。それは毛布一枚持っているかと言うほどの厚みのある布で、色は鮮やかなほどの赤だ。その赤はたくさんの毛で出来ており、彼が歩くたびにソヨソヨと柔らかく動いている。それは誰が見ても「とんでもない高級な物」だと理解できるくらいには異彩を放っていた。
「さすがお医者さん、お金あるんだなぁ。というか、あんな目立つものが近くにあって気づかない私って……いや、あの人の勢いが凄すぎたんだ、うん。仕方ない」
おじさんがいない今は、まるで嵐が去った後の静けさだ。それほどまでに、彼が及ぼす影響力は凄いものだった。巻き込まれた私が唖然としてしまうくらいには。手の痛みを忘れて呆気にとられてしまうくらいには。
けれど、賑やかな彼のおかげだろう。さっきまで無気力だった体が、鞭を打つようにシャキシャキ動こうとしている。どうやら元気が出たみたいだ。
「じゃあ、気合い入れて部屋の掃除しちゃいますかー!」
伯爵の件を忘れたわけではない。けれど気さくなおじさんがあの恐怖を少し払拭させてくれた(部屋の掃除をするなと言ったおじさんの助言はすっぽり忘れていたけれど)。
「私もまだまだ捨てたもんじゃないってことか、うん、ローランドさんに出会えてラッキーだと思おう!」
勢いよくパンパン!と顔を両手で挟む。
フラン・ブラウン、どうやら立直りは早いらしい!
「……」
けれど、その様子をまるで珍妙な者を見る目で見ていた人物が一人。何も言いはしないが、表情は何とも険しい。
「はぁ……」
そして盛大に吐かれたため息が一つ、シンとする東棟にこだました。




