その声下さい。
ーー力強い腕が折れそうに締め付ける。距離はこんなに近い。なのに一番欲しいものが、遠い。
ミズキ…
彼は呼ぶ。紛れもない私の名を。
私は叫ぶ。突き上げる痛みに息が詰まり声にはならず、結局は胸の内だけで“これじゃない”と。
頼りなく彷徨う指が火照った身体を受け止めた薄く冷たい感触を掴む。強く握るとそこに温もりが降りる。私の手を彼の手が包んでいる、上から。
見下ろす顔は優しい。整った顔、鋭い目つきに潤いを込めて優しく微笑んでいる。私はため息をこぼす。見惚れ、そして呆れながら。
何、それ?
傍にいると、独りにしないとでも言いたいの?
何処まで自分に酔うの?
ーー光に浸食され始める、闇。
この夜が明けたらあなたはまた戻っていくというのに。いつもの顔、いつもの声を連れて、あの子のところへ。
イツキ…
かろうじて呼ぶことができる。あなたはまた呼び返す。腕に力を込めてくる。そんなに締め付けたって埋められないものがある。ただ痛いばかりだよ。
きっかけとなった日からもうすぐ一ヶ月が経とうとしている。
仕事でミスをした。幸い大事には至らなかったけど医療従事者としてショックだった。特に私は隙を与えないことで有名だという出処不明の噂さえある。実際わからなくもない。看護師になってから5年、常に完璧であろうと強がってろくに笑いもしなかったのだから、と。
だからあの日はあえて市内の小さなクリニックに行った。貧血に気付いていながらも言い出す気にもなれずひっそり隠れるみたいに。
名を呼ばれて返事をした。近くのもう一人が立ち上がった。
苗字が同じだった。名前が似ていた。イツキとミズキ…顔を見合わせた。
大人びた若い子。それが率直な感想だった。端正な顔の作り、だけど今どきの子にしては珍しく鋭い目をしている。硬そうに跳ね上がった髪が狼みたい。
軽く頭を下げてくすぐったげに笑った。彼も同じだった。鋭い目が柔らかくなる瞬間を見た。
人は皆、【孤独】を持っている。性別が違おうが歳が違おうが正反対の人間に見えようが、そして恋人がいようがいなかろうが。
心の何処かでわかり合える誰かを探している。ほんの2、3度共通点が重なると嬉しく感じるのはその為か。それとも単に似た波長同士が引き合うのか。
処方箋を貰いに帰りに寄った薬局でまた会った。ねぇ…ついさっき名前を知ったばかりのその人がごく自然に隣に座った。驚いて目を見張った。何よりもその声に。
硬派とも呼べる顔立ちから出たとは思えない何処か甘い声色が特徴的。お姉さんいくつ?と聞いてくる。いきなりそれを聞くか、“お姉さん”だとわかっているのに…どうやら礼儀はあまり身に付いていないらしい。
に、にじゅう…
戸惑って口ごもるとにじゅう…?と繰り返し小首を傾げてくる。心を許した人間を見るような目、一度は狼だと思った姿が今ではすり寄る迷子の仔犬みたいに。
ーー俺は19。
彼が言った。特に驚きもしなかった。ただぼぉっと霞がかったような意識の中、そう、と返すのがやっとだったのを覚えている。
それからいくつか話をするうちにわかった。彼【イツキ】は私の勤める病院から目と鼻の先にある大学の学生。趣味で音楽を、ギターなら弾けるが主に歌う方だという。ライブを控えた今、喉の違和感に気付いて慌てて病院に駆け込んだらしい。
ストレスじゃないか、だって。
笑っちゃうよね、と自嘲気味に言う。緩んでいる頬、本当は安心している気持ちもあるんだとすぐにわかった。
何故うちの病院にしなかったの?
目と鼻の先なのに…と聞き返してみた。だって大きな病院って時間かかるじゃん。それが彼の答えだった。
こんなに若くして時間を気にしなければならないとは忙しない世の中だ…そう思いかけたところでいや、と訂正した。違う、私のものとは違う、と。
やりたいことがあるんだ。大好きな音楽の為、歌えなくなることを恐れて一刻も早くと駆け込んだ。若い彼の夢はもしかしたらすごく大きいのかも知れない。そう勝手に想像してみて勝手に目が眩んだ。
少しよろめいた私を彼が支えた。想像以上に大きく強い力を持つ手が躊躇もなく触れてくる。大丈夫?と甘い声が言う。
ああ、確かにこの声なら…そう納得した。失うのも怖いはずだろう、と。
硬派な外見に甘い囁きのような声、これを受けた女性の一体何割が私のようになったのだろうと。
次はあの病院に行くよ。
ミズキさんがいるなら、と無邪気な笑顔の彼が言った。
宣言通り、彼は何度か私の働く病院を訪れた。心身共にもうすっかり元気そう。おそらくは診察などではなく帰りにブラッと寄っている。
私はほぼ毎回、特定の患者さんの車椅子を押して庭へ出る。その流れをもう掴んだというのか。
だけど私は表情を緩めたりなどしない。仕事用の鉄仮面を貼り付けたまま…だから誰も不審には思わなかったようだ。
ある日、忙しそうな私に気を遣ったのか彼が小さなメモ紙一枚を渡してきた。うつむき少しはにかんだような顔にやっと躊躇らしき色が浮かぶ。
その夜、一人きりのアパートの自室で遠慮がちに記されたSNSのIDを眺めた。何となく予感した。踏み込んでしまったら最後、きっと後は早いものなのだろうと。そしえそこに一抹の期待があったことも…否定できない。
見るつもりはなかったのに繋がった数時間後、タイムラインなんかを覗いてしまった。ライブハウスとおぼしき薄暗い場所で仲間に囲まれて笑う彼、近況報告の文、若々しい日々を切り取った写真の数々…液晶越しに伝わる新鮮な果実のような青春の香り。
ーー気付いてしまった共通点。
そこには大抵同じ女の子の姿がある。大学のキャンパス風景の中にも居ること、そして距離感からファンの一人などではないことがわかる。
くりくりとした大きな目が特徴の小柄で小動物みたいな愛らしい少女だった。
【彼女】
その二文字が脳裏をよぎった。それからだった。彼の姿から遠ざかるようになったのは。少しずつ、のつもりだったけれど実際は慣れていない。気付かれるまでにそう時間はかからなかった。
ーーミズキさん。
SNSのメッセージで彼が呼びかける。最近忙しそう、あまり話も出来ないね、と。無機質な文字であるはずのそれがあの甘い声になって流れ込んでくる。
ーーイツキくん。
私は返す。何度も踏み留まりながらもやっと形にしたものを送信した。すぐに着信があった。
もう来ないでって、どうして?
一人きりの部屋の中、心細げな声が耳元で響く。スマートフォンを片手に窓の外を眺めた。遠く煌めく夜の街の明かりが目に染みた。こぼすように私は言った。
いつもあなたの隣にいるあの子のことを気にしてしまうの。こんな自分が気持ち悪くて、嫌い。あなたのことまで嫌になってしまう前に…
小さく息を飲む音がした。その後彼が言いかけた。
マイは…
マイ…そう、あの子の名前ね?女の目から見ても文句なしに可愛い子。あなたによく似合ってる。
せっかくのキャンパスライフ、こんないい歳の女と関わるより彼女と一緒に楽しんで。私なら大丈夫、大丈夫だから。
こんな感じのことを言ったつもりだった。だけど実際はどんな声で、何処まで言えていたかもわからない。
ミズキさん…今、何処?
彼は問う。今更のように悔いてももう遅い。切ない声に追い討ちをかけられて私の気持ちももう動き出してしまっている。
最後にもう一度逢いたい。ほんの数分、お茶だけでいいから付き合ってほしい、その言葉に抗えなかった。
結局お茶なんてしなかった。抜けるような初夏の夜空の下、歩き出そうとしたところを後ろから強く締め付けられた。言葉もなく。やがて、行かないでよ、と消え入りそうに細い声が耳元をくすぐった。
寂しさも内なる涙も見抜かれてしまったと知った。きっと彼も同じだからだろう、と。
こんなにも頼りない迷子の仔犬をほおっておける訳もなく私の部屋へ…いや、そんなのきっと言い訳だよね。
唇を重ねてしまうとそこから押し入ってくる彼の熱いものを私も追い求めていた。ミズキさん…時折そうこぼす彼に一つ、頼みをしてみた。
ミズキ
ミズキで、いいよ。
こんな頼みが一体に何になるのだろう。自分でも意味がわからない。ただちょっと期待をした。
恋人になれるなんて都合の良いことは毛頭考えちゃいない。ただ、大好きな彼の声に潜む違和感がこれでなくなるんじゃないかと思った。
じゃあ俺のこともイツキって呼んでよ、ミズキ。
彼は呼んでくれた。ちゃっかり自分の頼みまで添えて。いつもよりかすれた欲望漂う声色にゾクゾクと仰け反った。だけどそれは消えなかった。
やっぱりこれじゃない、と思った。
ーーそれから何度か同じようにしている。その度に胸の奥、密かにこれじゃないと繰り返している。身体だけはしっかり応えているというのに何とも滑稽な話だ。
お互いの名をそのまま呼び合ったあの日からイツキは少しずつ冗談なんかも口にするようになった。あるときは大学での出来事、またあるときは音楽の方向性についてなども話してくれる。
また新しい顔が見え始めた。こんな顔、こんな声で話すんだと知った。だけど違うと思った。
筋肉質な腕に頭を預ける、AM5:30。闇よ消えないで、と願うも叶わずカーテンの隙間から差し込む光についに彼も気付いてしまった。
ーーもう、朝だね。
そう呟いてそこへ手をかけようと半身を起こした。追いかけるように私の中の衝動が突如動いた。
……!
シングルベッドの上、ドサ、と音を立てて仰向けに倒された彼。潤んだ鋭い目を見開き呆気にとられた様子で見上げている。
ごくりと隆起する喉仏。私はそこに片手をかけた。わずかな力を込めて握っていくと、見上げる瞳に怯えが宿る。
ミズキ…?
震える彼の唇が恐る恐る声を放つ。これも違う…でも愛おしくてたまらないその声で、私の名を。
我に返った私は笑った。大人面を決め込んでわざと意地悪そうに見下ろして言った。
「こういうのも好きかな…と思って。」
首に当てがったままの手。彼の表情が徐々に緩んでいく。安堵の吐息を漏らした彼の目がまた欲望にぎらつく。
「ナース服でやってよ、それ。すごくそそるから。」
そんなことを言っている。中身は仔犬のクセに狼みたいな容赦のない表情で、生意気に。
これで最後、そう自身に言い聞かせながら何度も彼の望みを聞いた。これで最後…今日もまた言い聞かせてみる。きっと無意味だと知りながら、気休めみたいに。
次は、次こそは私の望むものに手が届くかも知れないなどと期待してしまう。聞けるかも知れないと思って身を預けてしまう。
彼自身の声以上に彼が愛するものを呼ぶ声を。
ねぇ…
呼びかけようとしても消えかかる、私の望み。本当は言いたい。独り占めにして自らの中へ閉じ込めたい。
イツキ。私を狂わせる甘い人…
ーーその声、下さい。ーー