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あの鉄塔まで

作者: はるの優雨

 彼が消えた。


 この町から彼が消えたのだ。


 彼は僕の友人の一人だった。僕は勝手に親友だと思っていたけれど、彼にとっては何でもないものの一つだったのかもしれない。その辺に転がっている石ころのように。


「あいつは何を考えていたのかさっぱりわからんかったなあ。」


 Sが言った。学校の帰り道を二人並んで歩いているときだった。人の気配のない、風も吹かない静かな道だった。頭を垂れる黄金色の稲穂はじっと動かず、日は傾き、空が赤く焦がされていく音だけが聞こえてきそうな程だった。


 Sは分厚い参考書を数冊、幅広で平べったいゴムで纏めて、いつも左脇に抱え、両手はズボンのポケットの中に仕舞っていた。丁寧に刈り揃えられた髪はヘアクリームで更に整えられて、光を反射して時々輝いていた。


「なあ、あいつはどうして見切りをつけたんだと思う?」


 Sは足を止めて、山の向こうに沈みゆく日を見た。突然止まったSの足に対応しきれず、二歩進んでしまった僕は、体の左半分だけ振り向いた。Sの横顔は太陽が残すその日最後の光を浴びて、橙に染まっていた。元々大きくはない目は、眩しげに細められている。その表情が、何処となく淋しげに、悔しげに、そして儚げに見えた。


 正直、Sがそんな顔をするとは思わなかった。いつだってSは毅然とした態度を崩すことはなく、幼い頃から成績は誰よりも優秀だったし、誰しもがSを頼れる奴だと思っていたのだ。そんなSがその日のその一瞬だけ見せた顔。僕は一生忘れないような気がした。けれど、結局次の日にはそんな顔は全く思い出せなかった。ただ、赤く焼けた景色と、Sのてかてかと光った頭。小脇に抱えた参考書。少し砂埃がついていたがよく磨かれた革靴。なんて事はない、いつものよくある風景としか思い起こせなかった。


「彼は見切りをつけたのかどうかも、解らないさ。」


 僕は半分だけ振り向いた姿勢のまま、同じように夕日を眺めた。その美しさに気づいた瞬間にはもう、夕日は山の後ろに身を隠していた。どうしていつもそうなのだろう。夕日を美しいと心が揺さぶられる時間はほんの僅かしかない。だから、また次の日に同じような夕暮れに遭遇しても、美しいと思えるのだろうか。


「見切りをつけたんだ。間違いない。」


「どうしてそう言えるんだ?」


「あいつは俺達とは違う次元に立っていたからさ。」


 Sは自分の足元を見て、その場所が何処なのか確認するように右足で二回地面を蹴った。たまたま足に当たった小石が跳ねて、僕のつま先に当たって止まった。その小石を、彼のようだと思った。何故そんなことを思ったのだろうか。自分でも解らなかった。


「違う次元?」


 僕は聞き返し、Sは足元を見つめたままおもむろに歩き出した。Sは三歩目で僕を追い越し、僕はその後ろを再び歩いた。


「あいつはそもそも、俺達と同じ物を見ながら全く別の物を見ていたんだ。間違いない。」


 まるで自分自身に言い聞かせるように、“間違いない”と繰り返す。なのに、その言葉に確信は感じられなかった。何処か不安定で、その言葉を発することで真の答えを導き出そうとしているようにも思えた。


「だから、見切りをつけた?」


「そうだろう。……おそらく。」


 やはりSにしては珍しく自信なさげだった。きっとSは、自分に解けない問いが存在することに、居心地の悪さのような、或いは真っ白い壁の僅かなシミのような、指に刺さって中々取れない棘のような、何とも言えない感覚を持っていたのだろう。だから、この問いに関してSは、元々解読不能の、尚且つ解読不要のものだと位置づけたのかもしれない。


「つまりは、俺達とは全く別の、全く異なった世界で生きていて、俺達の世界に生きるには少し難儀だったのだろう。だから、俺達の世界で生きることに見切りをつけた。間違いないさ。」


「じゃあ、あいつは何処へ行ったんだ?」


 ついにSは黙ってしまった。問いを解けば、そこから不可解な問いが新たに生まれた。それらは、答えを持っているのかどうかすら解らず、何処へいくのか、何処へも行けずに漂うのかどうかも、やはり解らなかった。


 僕らに行く場所なんて無い。それだけが解りきった、使い古された、馴染みすぎてよれよれになった答えだった。


 僕達はこの町から出られない。だったら、彼は何処に行った?僕もSも、きっとこの瞬間、同じように考えていただろう。だけど、この町から出られないはずだろうとは、お互い言わなかった。口に出してしまえば、計り知れない空しさが襲ってくるだろうことは解っていたからだ。





 彼が飛んだ日、空は高く、木々は青く、虫の声が煩かった。


 最後の彼の顔は、逆光で真っ黒だった。笑っていたのか、泣いていたのか、怒っていたのか、何もない無を湛えていたのか。


 もしかしたら、見えていたのに、ショックで脳が記憶を改竄してしまったのかとも考えて、なんとか記憶を引っ掻き回した。玩具箱から、壊れた玩具の破片を探す作業に似ていた。次第に片づけるのも面倒になって、結局空の青を背景に、佇む黒い影の静止画のままだった。


 彼の顔を思い出そうとしたけれど、それも既に曖昧にぼやけていた。ただ、Sとは対照的に、よく笑う奴だったと記憶している。彼が教室に居るだけで、なんとなく部屋の中が和む気がした。


 支給された白いシャツの胸元にはイニシャルのアルファベットが刺繍されていたが、彼の顔と同じで、その文字もあやふやになってきていた。記憶というものは、こんなにも早く色褪せて、感光してしまうものなのだろうか。そして、彼に対してこんなに薄べったい記憶しか持ち得ない僕は、やはり親友などとは到底呼べないのかもしれない。


 僕の記憶は薄情だ。全くの薄情者だ。彼はずっと静止画で、巻き戻しも早送りも出来なかったから。


 彼は本当に飛んだのか?時々思う。いや、確かに彼は飛んだのだ。映像としては何も思い出せないけれど、Sが言っていたことを覚えている。


「あの高さじゃ、死ねやしない。」


 その声は震えて、頼りなげで、耳をつんざく虫の声と、容赦ない太陽の熱に溶けてしまいそうだった。


 僕は駆け寄っただろうか。恐ろしくて逃げ出しただろうか。何か叫んだ?泣いた?涙は流れた?


 無意識に指先で頬に触れた。そこには当然の事ながら、涙の痕なんて残ってない。涙は乾くものだ。きっと。僕の涙は乾いてしまっただけなんだ。彼が消えて、僕の喪失感は計り知れないのだから。この心の空洞が、涙の痕に違いない。


 彼がその後どうなったのか誰も知らない。教官達に聞いても何も話してはくれない。慰めも、安心も、悲しみも、彼らは何も与えてくれない。知識以外は何も。


 彼が居なくなってから、僕達の教室は何かが希薄になった。それが、笑顔や笑い声が紡ぎ出す暖かな木漏れ日のようなものだったのか、個々の意思や感情から湧き出る冷泉のようなものだったのか、今となっては判らない。彼が居た頃の教室の空気と比べようもないのだから。


 何かが足りない教室に、皆気づきながら、それが何かも判らない。希薄になったのは、僕達の心だった。


 だけど、Sの感情だけは濃厚になっていく気がした。Sだけが、いつまでも彼に執着しているように見えた。





 カタカタと、澄んだ風が教室の窓を鳴らし、僕は講義中にも関わらず、窓の外へと視線を移した。古びた木製の校舎は、容易く隙間風の侵入を許していた。風は実る果実の匂い、色を変え始める葉の匂い、虫の音や、眠り支度をする動物達の足音を含んで、芳しかった。目を閉じて、鼻の奥でそれを味わう。すると、瞼の裏側に、彼が映った。まるで映写機に映し出されるように歪に。


 彼は言う。


「例えばね、火傷した皮膚が暫くすると黒ずんで剥がれ落ち、その下には新しい皮膚がちゃんと僕の肌を形成している。僕はそんな事について考える。それは僕にとって、とても重要な事なんだ。僕の身体は生命維持の為に、僕の預かり知らぬところでせっせと細胞分裂を繰り返している。そういう風にね、世界を見ると、僕は僕の身体だけじゃなく、全ての生命はこの世界にプログラミングされた存在に過ぎないんじゃないかって思うわけ。」


 僕は訊きたいことが山ほどあった。なのに、どれも言葉として形を成さなかった。


 彼は笑っている。彼の顔は朝霧に包まれたように白く滲んでいたが、確かに笑っていた。視界の下の隅に、シャツの刺繍が見えた。Aと縫い込まれていた。僕は無意識に自分の胸元の刺繍に触れた。何故だか涙が流れた。


 自分の涙に驚いて、目を開いた。どれほどの時間、そうしていたのだろうか。僕にはとてつもなく長く感じられたのだが、眼前に広がる光景は目を閉じる前と何ら変わりなかった。黒板に黙々と文字や記号を記す教官。脇目も振らず、無表情でノートに写す生徒達。チョークが黒板を叩く音。鉛筆が紙に擦れる音。延々と続く無機質な味気ない光景。誰一人、僕がその一部から外れていたことになんて、気づいてやいない。


 僕の前の席は空席。彼が……Aが消えた後、彼が座っていたその椅子の座面の木目の隙間に、彼の気配がほんの少しでも染み込んではいないかと、何度も確かめたが、僕には何も感じることが出来なかった。今はただ、教室の一部になって溶け込んでいるだけの椅子だ。


 ふいに僕は、世界と僕自身が断絶されたような心地になった。全ての音も匂いも気配も、肌に触れる触感さえも、僕と切り離されたような、そんな感覚。ここに居る誰とも自分は交われず、ここに在る全てのものに拒絶されている。そんな……孤独。


 そうか。これが孤独なんだ。初めて得た感覚と感性に戸惑い、僕はSを見た。Sの席は丁度対角の辺りで、後ろから二番目の列だった。彼の後ろの席もまた空席で、新入生の席になる予定らしい。


 Sの集中力は強固で、その時興味のないものには全く見向きもしない。当然その対称は僕にも当てはまるわけで、その時々によって僕という存在は彼の中で点いたり消えたりした。講義中の彼は特に顕著で、彼の脳には、与えられる知識以外に入る余地がない。けれど、この日は明らかに注意散漫で、鉛筆を持つ手は軽い痙攣程度にしか動いておらず、視線は持て余すように黒板から廊下側の窓へ、窓から天井へ、天井から手元へ移動を繰り返していた。そんな彼の目は偶然にも僕を見た。


 僕は反射的に笑みを送った。しかし、彼は表情を変えなかった。眉も口元も頬も、筋肉の収縮は見られなかった。そのままじっと見ていると、彼が見ていたのは僕ではなく、僕の前の空席だったことに気づいた。


「時計塔へ行かないか。」


 昼休み、支給される弁当を自席で食べ終えたSが僕を誘った。昼食の時間は、皆自席で誰とも会話することなく済ませる。私語が禁止されているから。教官は黒板の前で直立して、またある時は黒板脇の教官席について、教室を隈無く監視していた。僕は丁度最後の一口--分厚く切られた沢庵とすっかり冷えた白米--を飲み込んだところだった。Sは僕の妨げにならないタイミングを見計らっていたのだろう。だけど、食べ終えた後の余韻は与えてくれない。Sにとっては、そんなものは何の意味もなさないからだ。


 Sにとって、時間と知識が全てなのだ。今生きる、今存在する全てを把握しようとしているようだった。その為には、食後の余韻などに割く時間は一分たりとも無いのだ。その姿は、死とは遠くかけ離れた場所にあった。


 きっと、Sはまだあの感覚を知らない。あの得体の知れない恐怖にも似た空虚。断絶される感覚。或いは、薄い半透明の膜に包まれる感覚。拒絶されているような感覚。眩暈を覚える息苦しさ。


 時計塔は校舎の中央に位置していた。丁度正面玄関の真上。入口は中央階段を登りきった直ぐ傍にあった。


 四階の教室はどれも使われていなかった。窓はぴたりと閉じられ、規則正しく並んだ机と椅子は、長く使われていない所為か、薄く埃を被って木目が霞んでいた。


 廊下も階段も歩く度にぎしぎしと軋んだ。それでも不思議と、壊れている部分もひび割れも無かった。所々染み付いた汚れや劣化で木の色が違う部分はあったが、僕が思っている以上にこの学校は耐久性に優れていた。だが、時計塔の扉の蝶番のねじは緩んでいた。もうずっと修理されずにこのままだ。歪にはまった扉は、それでも鍵がかかっている。あの日--Aが侵入し、事を成し遂げた日--から、鍵がかけられるようになった。


「やっぱり扉は開かんか。」


「登りたかったのか?」


 聞いた話では、機械室には窓がついていて、窓から校舎の甍に出られるらしい。彼はそこから……。


「いや……まあ、そうなんだが……」


 Sは曖昧な返事をした。Aが消えてから、Sはずっとこの調子だ。Sらしくない言動に表情。


 君は何を考えている、とは訊かなかった。Aの居ない教室では、自分の考えや意思を口に出したり表現する者は殆ど居なくなっていたから、訊ねることを恐れたのだ。訊いてはいけない気がしたのだ。


 それに、訊かずとも解る。SはAの最後の行動について、答えを探し続けている。答えなど不要だと決めつけた後も。解読不能で不要だと導き出したが、どうやら満足していないらしい。


「どうしてあいつだけが……いや、どうしてあいつは列からはみ出したんだろうな。」


 Sはしばしば、この町を--この学校の生徒達を--長い行列に例えた。皆が同じ方向、前の者の頭を、腕を、足を見て、一分の狂いもなく同じ動作でひたすら進み続けているのだと。それは勿論Sとて例外ではなく、列に優劣があるならば、自分は前方を歩いているのだと。だが、前方といえど、先人の後に連なっていることに変わりなく、結局は何処が一番前なのかは判らないのだとか。


 彼の言いたいことは解るような、解らないような、何とも言い難かった。


 Sは時計塔に登ることを諦め、並んだ教室の一室に入った。真っ直ぐ窓に向かいながら、指先で埃の積もった机をなぞった。机にはSの細い指の線が残った。窓を開けて、少し身を乗り出して地面を確認して、


「ここからじゃ、そう簡単に人は壊れんよな。」


 と、あの日と似通ったことを言った。


「もしかしたら彼は、飛ぶつもりなんてなかったんじゃないか。滑落してしまっただけなんじゃないか。」


 僕はSの横に並んで、同じように遙か地面を眺めた。


「あいつが?じゃあ、何の為に屋根になんか出たんだ。」


 これには言い出しっぺの僕も困った。咄嗟に出たのは稚拙な考えだった。


「景色を見たかった……?」


「……景色?」とSは眉根を寄せる。「確かに、一理ある。この町の向こう側を確認しようとしたのかもしれんな。」


 意外にもSの食いつきは良かった。


「ここからじゃ、あの森の向こうは到底見えないな。」


「この町じゃ、この学校が一番高い場所なのにな。」


 沈黙が風に吹かれて漂った。雲は緩やかに流れて、校舎を囲む叢樹の梢がカサカサと音を立てた。


「いや、違う。もっと高い物がある。」


 興奮気味にSが言った。そんな建物はあっただろうかと考えてみるが、薄く淡くなっていく記憶と思考力の海では、僕はもう泳ぐ力さえ失いかけていた。


「鉄塔だよ。あの鉄塔だ、ほら。」


 差した指が示したのは、田んぼの真ん中に立つ、錆び付いた鉄塔だった。堂々と立っているはずなのに、何処か居心地が悪そうで、何故か人々は気にも留めず、その存在を忘れていた。現に僕も忘れていた。幼い頃は、傍を通る度に、登ってみたいと、好奇心を掻き立てられたはずなのに。そんな幼い頃の記憶も、もうあやふやだ。本当にそんな頃があったのかすら、思い出せない。いくら深海まで潜ってみても、それらしい記憶は見当たらないかもしれない。


 どんどん希薄になっていく。断絶される。


「あそこからだったら、遠く向こうの果てまで見えるかもしれない。」


 心なしか、Sは嬉しそうだった。彼が見たい物は一体何なのだろう。


「卒業したらいくらでも見られるんじゃないか。」


「卒業なんていつ出来る?俺達がここに来てから、卒業した奴は居たか?居ないだろう。俺達は飼い殺しだ。折角のこの知識も好奇心も何もかも、ここに閉じ込められている。もしかしたら一生このままかもしれない。あいつと同じ物を見るには登るしかないんだ。」








 その日の帰り道、僕達は吸い寄せられるように鉄塔に向かった。


 山型の銅材を幾重にも張り巡らせた四角錐の鉄塔だった。錆びて赤くなったそれは、近くでみるとまだまだ現役には負けないと意気込む老人のような存在感を湛えながらも、遠慮がちに建っていた。


 進入禁止のフェンスは無かった。ただ、田んぼに囲まれて、夕日に焼かれた景色に同化していた。


「本当に登るのか?」


「お前はここで待ってろよ。」


 Sは鉄塔を見上げて言った。今のSの脳内には、僕は殆ど存在しないだろう。だから、返事は不要だった。当然僕も登る、という言葉は喉の奥でひっそりと呟かれた。


 斜め格子にボルトで接着された骨組みに足をかけて登る作業は、想像以上に骨を折った。ジャングルジムに登るのとは訳が違う。堅い革靴の中に押し込められた指は、上手く曲げる事が出来ず、登るのに適していなかった。運動が苦手というわけではなかったが、得意とも言えないSは「この靴はいかん」と、三メートル登った辺りで脱ぎ捨てた。革靴は土と草の柔らかいクッションの上にふわりと転がって、草の影に隠れた。僕もそれを真似て、靴を振り落とした。


 この靴も入学時に支給されたものだった。一人一人の足のサイズ、形に合わせたような履き心地の靴だ。長く履いていると、皮膚と一体化してしまいそうな、見事な採寸だった。


 斜めに組まれた銅材に、一定間隔で真横に真っ直ぐ取り付けられた銅材があった。Sはそこを休憩ポイントと呼んで、足場が安定したそこで、荒れた呼吸を整えた。


 僕の頭上には、錆びて剥がれた鉄粉が時々粉雪のように降り注いだ。上を行くSが、新たな足場に足や手をかける度に、擦れてパラパラと剥がれ落ちてきたのだ。そういう時は暫く動かず俯いて、止むのを待った。脱いだ革靴は、もう何処にあるのか判らなかった。


 どれくらいの時間が経過しただろうか。息も絶え絶えのSは、三つ目の休憩ポイントで足が止まった。


「ここからじゃあ、まだまだ森の向こうは見えないな。それにしても、何て深い森なんだ。」


 Sは僕の事なんて考えちゃいない。僕の為に足場を空けるだなんて、今の彼は思いつきもしない。だからなんとかして、支柱を挟んで僕も彼の斜め隣に立った。


 僕が隣で足場を確保したのを感じ取ると、こちらを見もしないSは、


「いつも三人であの畦道を歩いたな。」


 と唐突に言った。


「学校の帰り道だったからな。」


 草の匂い。

 木の匂い。

 錆びた鉄の匂い。

 虫の音。

 熱い夕日。

 群を成す鳥。

 揺れる薄。

 輝く稲穂。


 田んぼを取り囲む深い森に山。


 人の姿は無い。


「三人とも、同じ方向だった……」


 ぽつりと呟いて、Sは続けて言う。


「でもお前、俺の家を知っているか?」


「え……?」


 そういえば行ったことがない。幼い頃からの腐れ縁なのに。


「お前、自分の家はどの辺りだ。」


「どの辺りって……」


 僕はしっかりと支柱を掴んだまま、周囲をぐるりと見回した。見慣れた風景が広がっている。


 なのに、なのに、なのに、僕は……そこが何処なのか分からなかった。僕が膜の内側に居るのか、僕以外が膜に包まれているのか。嗚呼、またあの感覚だ。


「俺達は昔からよく一緒に居たよな?」


 言葉を紡げなくなった僕に懲りずに、Sは強い意志を持って訊く。


「虫を捕まえたり、宝探しをしたり、秘密基地を作って遊んだよな?」


 だが、それは酷く不安定で、蜃気楼に揺れる記憶を、必死で手繰り寄せて、互いに共通する確かな物へと変えようとしているようだった。


 僕は何も言えなかった。


 脆弱な記憶。希薄な思い出。風に舞う砂塵の如く、僕には、いや、僕達には何一つ確かなものが無かった。


「なあ!したよな!?」


「……ああ。したよ。」


 不安感に襲われる。Sは声を荒らげて、僕は思いの無い言葉を吐いた。


「適当に答えるな!」


 ようやくSは僕を見た。僕も彼を見た。彼の顔は、夕日を背負って黒く、ただ影のように黒く。


 草の匂い。

 木の匂い。

 錆びた鉄の匂い。

 虫の音。

 熱い夕日。

 群を成す鳥。

 揺れる薄。

 輝く稲穂。


 歪むSの影。


 Sの背後から見えた夕日。


 眩しすぎて目をしかめた。足元が僅かにぐらつき、軋んで……僕はAの最期の瞬間をそこに見た気がした。


「あ……あ……」


 力なく僕は銅材に腰掛けて、ただその日最後の太陽を見ていた。


 どうしてだろう。夕日が美しいと、心が揺さぶられる時間はほんの僅かしかない。だから、明日も同じような夕日を美しいと思えるのだろうか。


 その日の夕日は特別赤かった。






 廊下側の後ろから二番目の席には誰も居ない。代わりのように、その後ろの席に見かけない奴が座っていた。無表情で無口な奴だった。


 教官に、Sはどうなったのかと訊いてみたが、Aの時と同じ。何も教えてはくれない。


「あの高さじゃ、死ねやしない。そう簡単に壊れやしない。」


 きっと何処かの病院で療養している。僕が駆けつけた時には、息があった。そう、息をしていたんだ、と思い出そうとしても、僕の脳内に浮かび上がるのは、夕日を背にした彼の影だけだった。


 その内、彼等のことを完全に思い出せなくなるのかもしれない。何を忘れてしまって、何を思い出したいのかすら。その時僕は本当に独りになるのだろう。だけど、淋しさすら忘れてしまって、結局は何事もなく時計の針は時を刻み続ける。


 太陽は昇り、夕日は美しい一瞬を残して、また夜の闇が支配し、そして朝が来るのだ。

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