書くことと読むことの関係
まず、書くことは、読ませることを前提としている。
読むことを前提としない書きものは、基本的には存在しないと言っていいだろう。
上手く書けずに捨てられた文章ですら、少なくとも「自分」は読んでいる。
書いているものの良さは、読まれるときにこそ発揮されるものなのだ。
書くという作業は、イメージから始まる。
イメージというのは未来予期と言っていいだろう。実際に起こりうるはずのない事も、頭の中ではイメージされるが、それもまた未来予期の一種といえる。
明日は晴れるだろうか、きっと晴れるだろう。
明日の天気が晴れるという推測、これが未来予期。
これに「明日」という確定情報を入れずに、どこかの世界、どこかの国、どこかの街での晴れた1日とする。
晴れた1日に、どこかの街の誰かが何かをする。
仮定に満ち溢れた未来予期。これが想像。
読むという作業は、文章からイメージすることから始まる。
イメージする→書く→「文章」←読む←イメージする
読み手と書き手、双方からの文章へのアプローチが、書くこと読むことの関係にあたる。
自分の想像を、何の障害もなく共有することはできない。
言葉を介すること、動作を介すること、音を介すること。
何かしらの補助を借りなければ、人は人に何かを伝えることはできない。
文章は人に伝えるためのツールの一つだ。
話すことと聞くこと。その作業から、音や動作を抜いて代わりに言葉の要素を強めたものが、文章になる。
普段、人と会話でコミュニケーションを取っている人間は、文章からも音や動作を読み取ることを望む。
そのため文章には音の要素、動作の要素、視界的な要素など、本来であれば受け取れるはずの必要情報を、言葉として文章として組み込むべきだと言える。
ただし、どの程度の情報が欲しいかは、読者層によって異なる。
多くを求める人もいれば、少ない方が好きな人もいる。
小説として評価が高くなるのは、情報が多いタイプだ。
だが文章として読み取れる情報量が少ない人は、なるべく限られた情報で伝えてほしいと望むこともある。
イラストから想像すれば、どちらにもいい部分があるというのは想像できると思う。
シンプルに特徴をとらえた平坦な絵にも、複雑に描きこまれた緻密な絵も、どちらもどちらで良さがある。
ただ到底真似できる気がしないという点で、緻密な絵の方が、一般的には評価されやすいだろう。
しかし模倣が容易なくらい、特徴だけをしっかりと捉えられる感性というのは、それはそれで素晴らしいと言えるはずだ。
イラストをイメージして考えると、情報量の少ない小説でも、多い小説でも、どちらでも高みを目指すことはできるように思う。
会話であれば、相手を見ずに自分の言いたいことだけを話すことは推奨されない。
では小説であればどうなのか。やはり相手を見ることは必要なのだ。
読者を想定せずに、小説を書くことは推奨できない。
想定される読者が自分であれば、自分の好むものを書くことを考えるべきである。
想定される読者が自分以外であれば、どんな人に読ませたいかをしっかり考え、読者をしっかりと見た上で話を考えるべきである。
読むことと書くこと。
二つは決して切り離せない関係にあるのだ。