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空想の共有性

 小説はそもそも記憶回路とセットの存在だ。

 文字による空想の共有。

 その共有する空想には、すべて元となるものがある。


 初期の文学が、英雄譚であったり、神話や民話であったりするのは、それが共有しやすい空想だったからだ。

 旅に対する空想が高まれば、旅行記や冒険ものが共有されやすくなる。

 女性の文学への関心が高まれば、女性の好む恋愛ものが増えるだろう。

 すべての文学は、人々の共通の関心を示している。


 ライトノベルの興味の先は、恐らくゲームやマンガ、アニメで見てきた、冒険や恋愛だ。

 派手さが好まれ、非現実的な事柄も受け入れられやすい。


 一部には安易な最強ものが嫌われる傾向があるが、元々ライトノベルは主人公最強で当然であるといえる。

 ゲームでは少ないアイテムや低いレベルから始まるが、中盤も過ぎれば主人公は大富豪も同然。ゲームオーバーになってもリセットすれば元通り。主人公には勝利の道しか用意されていない。

 ゲームという共通の空想が現代にある以上、最強のキャラクターというのは、ある意味ではごく自然な存在であるのだ。


 最初から最強、というのはゲームで考えるなら、RPGの2周目だ。1周目にあった序盤の苦労は一切なく、サクサク話が進んでいく。しかし、そこに1周目ほどの感動はない。

 主人公最強はいいが、やはり最初から最強ではなく、結果的に最強だった、という流れの方がスムーズに話が進む。


 下地がゲームであるなら、共有部分はゲームを見ればわかるはずだ。

 ファミコン時代で考えれば、敵をよけながら敵を倒すもの、村人に話を聞きながら問題を解決していくもの、戦うというコマンドを押して相手のHPを減らしていくもの、タイミングを見計らってボタンを押すもの。

 曖昧な記憶ながら、そんな印象がある。単純に表現してしまえば、今のゲームとて概略は同じだろう。

 いずれにしろ、結果は用意されていて、あとは予定通りに行動するだけ。

 ルートがいくつかあったり、結果が複数あったりすることもあるが、すべては用意された結果であるといえる。


 プレイヤーから作成側に回ろうとしたとき、本来なら結果を先に考えるべきだろう。用意された結果にプレイヤーを導かなければならないのだから、重要なのは結果の方なのだ。

 しかし、プレイヤー意識が抜けないうちは、スタート地点から始めるのが自然な気がしてしまう。プレイヤー視点でも面白いものは面白い。だが、それは偶然面白いだけで、面白くなるべく面白くなったとは言えない。

 そしてプレイヤー視点で進めれば、飽きが来た時点で、ストーリーは一気に白紙になる。プレイヤーである以上、面白くなくなったらゲームなど続けてはいられない。


 ゲームという空想を共有するのであれば、必要なのは確定的なルートである。

 つまりは敵の強化と、順当なレベルアップ。敵を倒してゴールするという予定通りの結末。

 意外性がいらないわけではないが、あくまでプレイヤー側から見ての意外性だ。製作者側から見れば普通の流れに見える部分を、あえて意外に見えるように演出する。

 納得いかないことを純粋に楽しむことは難しい。意外性は、意外であっても納得できる内容でなくてはならない。

 意外というのは、考えの外と言い換えることができる。

 つまり、意外性を作るには、本来あるストーリーの流れに目が行かないように、上手く演出することが求められるということ。

 二重のストーリー構造にして、片方を沈めておければ、うまく行きそうな気がするが……まあ、意外性を意識的に作るのは難しい作業だろう。


 ライトノベルにおける空想の共有は、ゲームの影響が大きい。ファンタジー小説の影響もあるだろう、多少難解なSF小説の影響もあるかもしれない。

 だが一番影響が強いのはやはりゲームなのだ。ゆえにゲームっぽさを否定してしまえば、共有感覚そのものが害される危険がある。


 ライトノベルの共有感覚が失われれば、読者層が変わってくる。

 なろうの読者層はライトノベル寄りになっているため、結果少数派に入ることになる。

 空想の共有なしに、自分の空想を理解させることはなかなかに困難だ。

 


 ありきたりやテンプレは空想の共有という点では必要な部分だ。だが問題はどこまでを共有し、どこまでを新しく作るかにある。

 空想の個人的解釈がしっかりできていれば、オリジナリティにある程度の自信を持てるだろう。

 自分の愛する自分のキャラクター、自分の愛する自分の世界、自分の好む言葉運び。

 

 だがゲーム世代に育った人の中には、どこまでがオリジナルでどこまでがテンプレなのか、非常に曖昧に感じられる人もいるだろう。

 テンプレとは、言い換えるなら様式のようなものだと思う。つまりは表現上の特性。

 ハーレムという特性、最強という特性、召喚から始まる物語という特性。

 単純に特性としてみた時、テンプレはオリジナリティを阻害するようなものだとは思えない。

 しかしテンプレを積み重ねた上で、オリジナル部分がテンプレに押しつぶされてしまった状態になったとき、それがテンプレすぎてつまらないという状態にあたると思われる。


 空想の共有と独自解釈。

 その辺のバランスを上手く取れた作品が人気作品になるのだろう。

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