意思の示し方
世の中はかくあるべき、人間はかくあるべき。
思想や考え方を示すことは、表現する上である程度必要であると思う。
世の中への強い憤りはあるだろうか。
誰かの行動への深い憎しみ、悲しみ、執着はあるだろうか。
強い感情を常に抱き続けている人というのは、そう多くはいないだろうと思う。
鬼才とか言われる人には、恐らくそういう情念に憑りつかれたようなところがあるのだろう。
意思は示されるべきである。
意思のない人間はいない。
だが、その意思をしっかりと自覚できるかといえば、また別問題である。
人と関わりあううちに、自分の意思というのは良くも悪くも薄れていくものである。
自分の好きな相手でも、誰かに貶され続けることで、よく思えなくなってくることもある。意思は人とのかかわり合いで揺らいでいくものなのだ。
絶対的な自己が存在しないのであれば、示される意思とは、一体どこに存在しているのか。
すべては思い込みと錯覚なのではないかとすら思う。
人を傷つけることを恐れる気持ちは、共存することにより種の保存性を高めるために遺伝子に組み込まれた錯覚で、目的のために人を傷つけられるのも、己に近い種を生き残らせるための遺伝子情報のせいで。
意思だとか心だとか言ってみても、結局は、あるべき形という情報の枠に押し込められているだけなのではないか。
気持ちも、心も錯覚なら、自分は何を主張したらいいのか。
何を主張するのが自然であり、人らしく、そして流れに沿ったものになりうるのか。
広い人類の保存性を保つためには、共存性重視だ。
つまり、愛だとか思いやりを肯定する思想。
狭く確実に生き残りたいのであれば、攻撃性をある程度維持する必要がある。
つまり、自分に近い場所に損を与える存在を許すべきではない。
共存と、攻撃。
2種に分けることで、思想の方向性も2つに分けて考えることができる。
今の日本においては、共存性が重視されているが、一部では攻撃的な思想も息づいている。
共存性重視で広くを認めようと思えば、攻撃性は抑えざるおえず、周りに歓迎されない思想も抑えることになる。つまり周りの意見にある程度流されている状態になる。
一方で、狭く生き残る方向を選択するなら、周りに流されることは許されない。むしろ大きな流れには逆らうことが反射的に行われることだろう。周りが白といえば黒を選ぶ。周りが黒と言えば白を選ぶ。
狭く生き残るというのは、広く共存するグループの反対を進むことにこそ意義があるのだ。
自分のいるポジションは、共存と攻撃、いずれの方向なのか。
悩むことがあるのなら、それは流されるタイプの人間だからだ。つまりは、そもそも共存性重視でなければ、その悩みすら浮かばないはずであるということ。
大きな流れに逆らう誰かを見て心が揺れるなら、それは他人に影響される種類の人間であるという事。
悩むのなら、その悩みこそが、自身を共存性重視の人間だということを証明しているのだ。
固まった意思は存在しない。
だが、そこに時間軸の要素を組み込めば、意思は固定されるはずだ。
昔と今と未来での、共通した意思はなくとも、今現在何かを感じることはしている。
曖昧ではっきりしない意思でも、何かを感じる器官はあって、それを心や意思として存在させることができる。
それを突き詰めていけば、思想に近いものになるわけで、揺れる心もある程度は固定できるはずなのだ。
では時間軸をどう組み込めばいいのか。
今考えていることが、明日には変わっているかもしれない。1週間後には変わっているかもしれない。
でも、それでは安定した長編が書けない。
そうなると、安定した長編を書くためには、書き始めのころの気持ちをしっかりとまとめておくことが重要であると言える。
その時の気持ちを読み返して、未来の自分が同意できるように。書き始めのころの気持ちを思い出せるように。
そうすることで、過去の自分と気持ちを重ねることができる。ある程度、気持ちの変化を戻すことが可能だろう。あとは戻せないほどに変化するほどの時間を掛けず、なるべくサクサクと完結に向けて頑張るほかない。
意思は揺らぐもの。それを理解した上で、安定させるための手段を講じておく。
それが上手く意思を示すことに繋がっていくだろう。