幸せの直前で
夕暮れの学校の教室。風でぱたぱたとカーテンが揺れる。私は誰もいない室内で俯いていた。
やがて耳元に聞こえてくる足音。音だけで彼が来ることは分かった。私は目指す場所へと進む。
少しして教室のドアが開くと三十前の清潔感がある細身の男が入ってきた。
「珍しいな。こんな所に呼び出すなんて」
制服の裾を気にするフリをして私は俯いたままドアを見ずに何度もスカートを手で弄ぶ。男は教室の外を確認するとドアを閉めて教室に入ってくると私の前へ近づいた。
「どうした、神谷?」俯いている私の前髪を軽く指でかき上げ、そのまま後ろ髪を何度も撫でた。私は瞳を細めて男……クラス担任の村崎に身を預けた。すっぽりと包む彼の両手。私は両手を彼の胸に当て、顎を上げる。
私は村崎にキスをねだった。少し背伸びをした私に村崎は躊躇なく応じた。
まだ何も知らない頃。キスって漠然と唇と唇を一度だけくっつけるものだと思っていた。でも、お互いを欲すると何度もくっつけるものだし、欲情すれば吸いつきたくもなる。さらに感情が高まれば舌だって絡み合わせた。教えてくれたのは村崎だ。煙草の臭いがほんのりする。
村崎は私の上唇を自分の唇で挟むように何回も口づけを繰り返す。私は挟み返すように顎を少し上げて彼に答えた。するとついばむ様なキスはやがてお互いの唇をこすり合わせるような動きに変わる。ちょっと乾いていた唇がどんどん湿っていく。お互いの唇に吸い付くように何度も小さく上下した。私は堪え切れずに「――んくっ」と喉を鳴らす。溢れる唾液は私の口端から零れた。
こんなこと続けてもう半年になる。
◇◇◇
始業前で慌しく皆が教室へ急ぐ時間。校舎入り口の下駄箱。
また今日もか……私はぼんやりと下駄箱を眺めていた。
泥だらけになった上履き。ため息をつく私。何もかもいつも通り。
私は裏庭にある手洗い場にむかった。部活時になれば、人でにぎわうこの場所も、朝のHR前には誰もいなかった。
どうしてこんなことするんだろう。最初、一人では解決しようがない疑問を呟きながら、上履きを洗っていた。でも回数が増えるごとに疑問はなくなっていった。理解する事を諦めたからだ。
あの日も無感情のまま、ただ手だけが黙々と作業を続けていた。水の音や手でごしごしと上履きをこする音が聞こえる。顔に水がかかった。だけど気にすることはない。汚れを落とすだけ。もうHRは間に合わないなぁ。いつものことだけど。
ただ、いつもと違ったのは視界の端に通り過ぎる影が見えたことだった。。
――見られた。
無心だったはずなのに私は勢いよく影へと視線を向ける。
視線の先には担任の村崎が立っていた。HRが終わった帰り道だろうか。確かに私と村崎は顔を合わせた。
しかし、村崎は一瞬私と目が合ったけど、顔を伏せた。口がわずかに歪み、気まずい表情を私は見逃さなかった。見なかったことにしようと言いたげに彼は通り過ぎようとした。放っておけばいい。自分に言い聞かせたはずなのに私は声をあげていた。
「別に無視してもらっても構いませんよ」
私が何も言わなければ彼は通り過ぎたはずだった。
「いっ!?」という詰まったような声が聞こえ、影は一瞬動きを止める。でも、すぐに足音は遠ざかった。小さくなる足音を聞きながら「やっぱりな」という諦めが私を覆う。そしてなぜか安心していた。期待しなくて良かった。良かった。良かった……気がついたら目じりに涙が溜まっていた。嘘だ。絶対嘘だ。悲しいわけじゃない。この涙は嘘だ。衝動的に私は蛇口からでる水に頭から被った。
地肌に冷たい感覚が伝わった瞬間、私は肩をつかまれた。水から頭を引き離されると、前髪から流れる雫の間から人が立っているのが見えた。
「ほら。手足が濡れてるぞ。これで拭きなさい」
目の前に立っていたのは通り過ぎたはずの村崎だった。タオルを差し出す彼をぼんやり見つめる私。自然に言葉が漏れた。
「……無視したくせに」
「し、してないぞ。タオルを取りに……」
「目が合ったときビビってたくせに」
「あれは突然そこにいるから……」
私に睨まれた村崎は身振り手振りで言い訳を繰り返す。
それにしても……なんでこんなに私しゃべってるんだろう。村崎と……学校の先生となんてろくにしゃべったことないのに。
「と、とりあえず頭拭け。風邪引くぞ」
私はタオルを受け取り頭を拭いた。タオルの質感は柔らかく、冷たく濡れた私の髪に染み込んだ。頭から伝わる温かみは目の奥まで届き、じわじわと瞳が熱くなっていく。
「うわ~、どうやったらこんなに汚れるんだろうな」
いつの間にか村崎は私の上履きを洗っていた。私は慌てて上履きを奪い返す。村崎は口を一文字にした後、静かに私へ質問をする。
「誰なんだ? 見当付いてるんだろ?」
「知ってても言わない」
「言うまでお前をつけ回すぞ」
「ストーカー」
「なんとでも言え」
村崎は私を見て笑っていた。
◇◇◇
それから村崎は本当に私に付きまとった。上履き洗いも無理やり手伝ってきたし、休み時間一人でいる私に声をかけてきた。村崎が私に肩入れしているという話はあっという間に広がり、嫌がらせはなくなった。
村崎は生徒受けの良い教師だった。生徒の相談ごとも親身に聞いてくれる。歳も若く、感覚もまだまだ生徒の共感を得ていた。あいつ等もきっと村崎を敵に回したくなかったのだろう。
私に親切にしてくれるのは教師として担任する生徒を放っておけなかったのだろう。でも私は親切と愛情の区別がつかないような未熟な高校生。いつの間にか付きまとわれていたのが、私が彼を探すようになり、偶然を装い待ち伏せて誰もいない教室に彼を呼び出してキスをねだる仲にまでなっていた。
初めはハッキリと拒否された。だけども村崎は私のことは好きだと言う。親切や愛情などという区別はできない。理性で押さえつけても、感情には逆らえない。私は諦めなかった。何度目かの私の挑発に彼は乗った。一度堰を切るともう止められない。私は唇に始まってあらゆる初めてを奪われた。というか与えた。
肌を合わせただけでもう一生結ばれたような気持ちになっていた。
それなのに……私には別の顔が覗く。
二人でいると浮き上がるような気持ちも一人になると別の感情が巡ってくる。
このままじゃいけない。好きになってはいけない気がする。先生と生徒だから? 違う。私がこんなに幸せなわけがない。村崎との未来を考えると急に倦怠感が私を襲う。まるで考える事を拒否するかのようだ。「~したい」と思うたびに自分の可能性を打ち消す気持ちで溢れ、頭がぼんやりなる。
いつからだろう、まるで幸せになる事を拒否しているかのようだ。よく分からない気持ちのまま廊下をぼんやり歩き、教室に戻ると昼休みの教室に村崎がいた。
彼は生徒に囲まれていて、私が教室に入ったのを確認すると、時折視線をこちらに向けた。私は無理やり口角をあげた笑顔で答えた。
皆に囲まれている村崎を見て、強く心に思った。
「やっぱり……」
私がいない。当たり前の事実に口を一文字に結ぶ。じりじりと心に靄がかかっていく。
拗ねてるの? そうかもしれない。独占したいの? ……分からない。だけど違和感はなくならない。不相応な幸せは身を滅ぼす。身体からの警告なのかもしれない。
だって、彼と離れようと思った途端、私は安堵に包まれたから。肩の荷が下りた気がしたから。
クラス三十六人。三十六分の一に戻ろう。決心したら行動は早かった。デジカメを用意し、彼に見つからないようにセットする。私から村崎を呼び出した。
なんで私はこんなに積極的なんだろう。望んでいることにかまけて別のことに夢中になる。幸せに対する努力をわかっていて放棄する。望みどおりに生きるって難しいね。
――あれ? 私の「望んでいること」ってなんだろう?
◇◇◇
夕暮れの学校の教室。風でぱたぱたとカーテンが揺れる。私は誰もいない室内で俯いていた。
『ここだと確実に写真が取れるはずだ』
やがて耳元に聞こえてくる足音。音だけで彼が来ることは分かった。私は目指す場所へと進む。
『なんで村崎は来たんだろう、無用心だな』
少しして教室のドアが開くと三十前の清潔感がある細身の男が入ってきた。
『それにしても……』
「珍しいな。こんな所に呼ぶなんて」
裾を気にするフリをして私は俯いたままドアを見ずに何度もスカートを手で弄ぶ。男は教室の外を確認するとドアを閉めて教室に入ってくると私の前へ近づいた。
『これから自分の幸福を壊そうとしているのに、私は意外と冷静だな』
◇◇◇
数日後、私が撮影した写真が学校へ郵送された。
私は職員室に呼び出され、生徒指導の教師にこってりと怒られた。自宅謹慎一週間がくだる。反省は特にしていないけど、反省文を書かされた。何のための反省? 教師と関係を持ってしまったこと? 幸せを捨ててしまったこと? 白紙の原稿用紙は一向に埋まる気配はなかった。
夕暮れ、私はなんとか反省文の原稿用紙に言葉を埋めて、校舎を出て校門を通り過ぎようとした。
「なんでこんなことをしたんだ」
校門にもたれかかるように村崎が立っていた。私は振り向いたけど言葉が出なかった。
「お前だろ? 写真を学校に送ったのは」
私が答えないでいると村崎は話を続けた。
「知ってたよ。お前が教室に呼び出した時、教卓の影から覗くデジカメを」
だったらどうして咎めなかったの? と思うのと同時に村崎は言葉を続けた。
「お前を信用してたからだよ。大切に思ってたんだ」
大切にしてた。私だって大切にしてた。でも大切にすればするほど憂鬱になるんだよ。信じられないかもしれないけど。だからもう終わり。
「ご迷惑をおかけしました」私は頭を下げた。
村崎の「はぁ?」と小さく呟く声が上から聞こえた。彼にはわけがわからないのだろう。私にだってわからないのだから当たり前か。
すると彼はふんと鼻を鳴らした。
「お前……もしかして嫉妬か? すねてるだけなんだろう?」
「かもしれませんね」
「構ってチャンか? 人に依存して困らせているのか? それとも悲劇のヒロインに浸ってるのか?」
「だといいんですけど……」
その方が分かりやすい。行動原理がハッキリしてるじゃない。
私は村崎にどう顔向けして良いか分からない。きっとあいまいな表情を浮かべていたのだろう。彼は眉間にシワを寄せて明らかに不快そうな顔をした。まるで異物を見るように。
「なんなんだよその態度は。気持ち悪いんだよ!」
「……ごめんなさい」
「お前、何が望みなんだ?」
私だって教えて欲しい。アナタ、先生なんでしょ。 人生の先輩なんでしょ? 私は小首を傾げて村崎に笑いかけた。
彼は口元を引きつらせて、校舎へと戻って行った。
◇◇◇
今日も淡々と汚れた上履きを洗う。
無心になったつもりだった。
視界の端に人影が動き、私は振り向いて影を追った。
でも、影は留まることなく通り過ぎていった。
私は久しぶりに声をあげて泣いた。
でも同時に安心してる。
よかった、これで。
ねえ。幸せって邪魔になる時……ない?
お読みいただき、ありがとうございました。
友達と遊ぶ約束をしていたのに直前で急に行くのが嫌になった。
RPGクリアー寸前で止めてみた。
試験勉強をしなきゃいけないのに部屋の掃除を始めてしまった。
マリッジブルーにかかっちゃった。
こんなことありませんか?
先にある幸せが邪魔になる、そんな考え方が世の中にはあるようです。
幸福否定とか言うらしいですよ。(詳しくは幸福否定でググってみてください)
これを信じるか信じないかはあまり関係なくて、
なんだか幸せの直前で妙にネガティブになる。
そこにすごく惹かれました。
本当はすごく期待しているくせに最悪を考え、駄目だった結果に安心する。
という繰り返しで幸せになることを避けちゃう体質になってしまう。
自分へのダメージを少なくするためなのかもしれないけどね。
なんでわざわざ壊す真似をするのかわからない人もいると思います。
幸福を否定する意味すら理解してもらえないでしょう。
別にそれで構いません。幸福を幸福と捉えられる人は文字通り幸福だと思います。
ここには解決方法が書いてません。主人公も克服しません。
いつもなら最後はハッピーエンドにするところですが、今回はこのままにしました。
気持のまま書くというならこれが正解だと思ったからです。
とある方の作品に感想を書いたのですが、その返信に以下のような文がありました。
『詩やショートショートは、自分の調子に合わせるというか、今の自分がしたいこととか、感じていることをそのまま書いているのです』
ふむ。確かに。
自分の悪いくせで色々考えすぎて結局何もしないということがよくあります。
この作品も文章化されずに終わるはずでした。でも、この一文を読んで少し気が楽になってちょっと書いてみようと思ったのです。
なので気軽な気持で読んでいただければ幸いです。
うわっ、この女ムカつく~でもいいですし、分かる分かるでももちろん大歓迎!
主人公の葛藤は解消させて終わらせる、それが作者の責任でもあると考えていましたが、僕自身は今回終わり方については投げっぱなしにしました。
現実世界は何でもかんでも踏ん切りがつくわけないですし、いいんじゃないかなと考えました。
書きたいことを表現できたかどうかは分かりませんが、楽しんで書けました。
最後に「後書き」までお読みいただき、ありがとうございました!
お時間に余裕がございましたら、一言で構いませんのでご感想をいただければ幸せの至りです。
それでは。