空の水筒
空の水筒は、よく鳴る。
荷車が床の継ぎ目を越えるたび、からん、ころんと触れ合う。満ちているときには出さない、軽い音だった。
トクジは、その音があまり好きではなかった。
荷は軽い。腰も楽だ。けれど、これからまた、全部に水を詰めなければならない。
七番食堂車の前を通ったとき、荷を押さえる留め具が外れた。
「あ、待って」
振り返ると、若い女が拾ってくれていた。少し先では、弟らしい少年が足を止めている。
「助かった」
トクジは留め具を付け直し、水筒を軽く叩いた。
「空だと跳ねるんだ。これから水を詰めに行くところでな」
女は頷いて、少年のほうへ戻っていった。
トクジも荷車を引きだした。
車輪が回ると、また空の音がした。
*
重力が反転して五年。
東京の地下には、かつての天井を道にした街がある。
地下鉄や避難路をつないだメトロジェイル。
そこで人や荷物を運ぶ者は、モグラと呼ばれていた。
トクジも、その一人だった。
若い者のように自転車では走れないが、水を運ぶ道なら、どの継ぎ目で荷車が跳ねるかまで覚えている。
水筒は、八本。
形も大きさも揃っていない。
赤い糸が結ばれたもの。
青い布が巻かれたもの。
持ち手に番号を刻んだもの。
印は届け先を表している。
同じところへ何度も運んでいるうちに、トクジは印を見れば、受け取る人の手まで思い出すようになった。
赤い糸は共同炊事場。いつも濡れた手で受け取る。
青い布は居住区画の奥。戸口まで出てくるのに、少し時間がかかる。
番号だけの二本は、医務区画。
地上で見つかった生き残りが、そこへ運ばれたらしい。飲み水と、道具を洗う分が必要だと聞いている。
どんな人なのか、トクジは知らない。
受け取った依頼には、水筒二本、届け先は医務区画とだけ書かれていた。
補給所で水を詰め終えると、荷車は急に動きたがらなくなった。
トクジは腰を入れ、ゆっくり引いた。
車輪が一度回れば、あとは歩幅を崩さなければいい。
八本の蓋は、出発前に確かめた。
逆さにしても、漏れなかった。
*
六本を届け終えたところで、袖が濡れていることに気づいた。
壁際へ荷車を寄せ、腕を見る。
袖口から肘にかけて、色が濃くなっていた。
荷台を覗き込む。
医務区画へ届ける水筒の一本が、少し傾いていた。
蓋の縁に膨らんだ雫が、落ちた。
トクジは慌てて立て直した。
底を支えていた布が濡れている。
荷車の板にも、細い筋が残っていた。
「……いつからだ」
返事をする者はいない。
さっきの角か、その前の段差か。
水筒を持ち上げると、中で水が揺れた。
出発したときには、こんな音はしなかった。
蓋を留める金具を押す。
留まったように見えて、指を離すと少し戻った。荷を締めた紐に引かれて、歪んだ金具が浮いている。
トクジは紐を緩め、蓋を上から押さえた。
これなら漏れない。
だが、片手で押さえたまま荷車を引けば、次の段差で倒すかもしれなかった。
補給所へ戻る道を振り返る。
医務区画までは、もうそう遠くない。
空を待つのと、水を待つのは違う。
トクジは水筒をまっすぐ置き、倒れないよう両側へ空の容器を寄せた。
それから、通路の先にある、心当たりのある場所を目指した。
*
「ユウジ、いるか」
返事の代わりに、金属を打つ音が止まった。
修理を請け負うシュウリヤのユウジが、作業台から顔を上げた。
「どうした」
「蓋が浮く」
トクジが水筒を見せると、ユウジは敷いていた布をどけた。
「こっちへ」
水筒を立てたまま、蓋の周りを調べる。
指で金具を動かし、濡れた縁を見た。
「この留め具、前から曲がってただろ」
「閉まってた。さっき閉まらなくなったんだ」
そう言って、トクジは黙った。
ユウジは工具袋を開いた。
小さな金具を一つ取り出し、水筒の蓋へ当てる。
「こいつを使うか」
「何のだ」
「照明の覆いを押さえる予備だ。少し曲げれば使える」
「要るんじゃないのか」
ユウジは水筒の底へ目をやった。
「こっちは、いま要るんだろ」
トクジは医務区画の番号を指で擦った。
「直るまで、どのくらいだ」
「少し待ってくれ。急いで曲げると割れる」
ユウジは金具を作業台へ運んだ。
トクジは入口の脇に立った。
座れる箱があったが、腰を下ろす気にはなれなかった。
道の向こうを、赤い鎧が通っていった。女王に仕える劫火の騎士だった。
鎧の足音が聞こえなくなるまで、トクジは水筒を見ていた。
この街では、嘘をついたと知れれば、暮らしごと奪われかねない。
八本運んだ。蓋は確かめた。途中で漏れた。
どれも本当だった。
だが、減った水を前にした相手が、どこまで信じてくれるかは分からない。
「トク爺」
呼ばれて顔を上げると、ユウジが手招きしていた。
「持っててくれ」
トクジは水筒を両手で支えた。
蓋を押さえる新しい金具が締まっていく。元の留め具とは違い、指を離しても浮かなかった。
傾けて確かめる。
ユウジが乾いた布を縁に当てた。
布に、新しい染みは付かなかった。
「これで持つと思う。戻ったら、蓋ごと交換できるものを探せよ」
トクジは頷いた。
「世話になった」
「段差、ゆっくりな」
「いつも、ゆっくりだ」
ユウジは少し笑って、工具を戻した。
*
医務区画の入口では、若い係の者が待っていた。
「水?」
トクジが頷くと、相手は奥へ声をかけた。
「届きました」
その声で、布の仕切りの向こうから人が動く気配がした。
トクジは、漏れなかったほうを先に下ろした。
受け取る手が伸びる。
「もう一本は」
係の者が荷台を見た。
トクジは二本目の持ち手を握った。
「途中で漏れたんだ」
相手の手が止まった。
「蓋の金具が歪んどった。直してもらったが、水は減ってる」
「どのくらい?」
「正確には分からん」
トクジは水筒を卓に置いた。
「濡れてるのに気づいてからは、立てて運んだ。出る前には、漏れてなかった」
言い終えると、喉が乾いた。
係の者は蓋の金具を見た。
開いて中を確かめ、卓の上にあった目盛り付きの容器へ水を移す。
トクジは、その水面を見ていた。
「足りない分、取りに戻る」
「待って」
相手は量を確かめてから、もう一度、仕切りの奥へ声をかけた。
「一本は満量です。もう一本は途中で漏れています。使う分を先に分けてください」
奥から返事があった。
空になった水筒を、トクジは受け取った。
さっきユウジに付けてもらった金具が、掌に当たる。
「すまん」
係の者は、卓にこぼれた数滴を拭いた。
「減ってるって、先に分かってよかったです」
それから、空の水筒を指した。
「これ、もう一度使えますか」
「蓋は直った」
「じゃあ、これに。次の分も要るので、いっぱいにしてきてもらえますか」
トクジは相手を見た。
係の者はもう、受け取った水を奥へ運ぼうとしていた。
「あんた、まだ、ここにいるか」
「交代するかもしれません。次の人に言っておきます」
「分かった」
トクジは水筒を荷台へ戻した。
今度は紐が留め具に触れない位置で、結び直した。
*
補給所への道は、来たときより長く感じた。
腰が痛んだ。
いったん止まると、また引き始めるのが億劫になる。それでも段差の前では止まり、車輪の向きを確かめた。
水筒は軽かった。
その軽さが、今日は余計にこたえた。
補給所に着く。
事情を話し、届け先と追加の量を帳面につけてもらった。
水が容器の底を打つ。
少しずつ音が低くなり、持ち手を握る指に重さが戻ってくる。
トクジは蓋を閉めた。
金具を押さえる。
傾ける。
戻して、もう一度見る。
「大丈夫かい」
補給所の女が訊いた。
「ああ」
トクジは答え、それから言い直した。
「いまは、漏れとらん」
女は頷き、次の容器を水口の下へ置いた。
*
医務区画へ戻ると、入口にいたのは別の人だった。トクジが番号を見せると、その人はすぐに場所を空けた。
「聞いてます。こちらへ」
水筒を下ろし、蓋を開く。
受け取る人と一緒に、中の水位を確かめた。
今度は、詰めたままの量があった。
奥で誰かが寝返りを打った。
布が擦れる音と、低い話し声がした。
トクジは荷台の持ち手を握ったまま、しばらく立っていた。
「そちらも、持っていってもらえますか」
足元に、最初に届けた水筒が置かれていた。
「早いな」
「ちょうど、使うところだったので」
トクジはそれを持ち上げた。
軽い。蓋の縁も、胴も、もう乾いていた。
荷台へ載せると、隣の水筒と触れ合って、からんと鳴った。
*
帰り道、トクジはユウジの仕事場へ寄った。
シュウリヤは作業台に肘をつき、小さな部品を選り分けていた。
「漏れなかったぞ」
ユウジが顔を上げた。
「そうか」
「通り道に太い針り金が落ちていた。使えないか」
「そりゃ、ありがたい」
ユウジはトクジの荷台から、根に絡んだ針り金を受け取った。
「少し座っていきなよ」
ユウジが作業台の脇の箱を足で引き出すと、トクジは断らなかった。
腰を下ろすと、足の裏がじんとした。
水筒から手を離し、膝の上で指を開く。持ち手の跡が、赤く残っていた。
トクジはしばらくして立ち上がり、荷を押さえる紐を締め直した。
空の水筒は、よく鳴る。
次の継ぎ目で音がしたとき、トクジは振り返って荷台を見た。
医務区画から引き取った一本が、隣の容器に触れている。
乾いた胴を、掌で一度押さえた。
それから、荷車を引いて、また歩きだした。




