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メトロジェイル日常譚『サヨの待ちもの帳』

空の水筒

作者: 羽月楓
掲載日:2026/10/04



 空の水筒は、よく鳴る。


 荷車が床の継ぎ目を越えるたび、からん、ころんと触れ合う。満ちているときには出さない、軽い音だった。


 トクジは、その音があまり好きではなかった。

 荷は軽い。腰も楽だ。けれど、これからまた、全部に水を詰めなければならない。


 七番食堂車の前を通ったとき、荷を押さえる留め具が外れた。


「あ、待って」


 振り返ると、若い女が拾ってくれていた。少し先では、弟らしい少年が足を止めている。


「助かった」


 トクジは留め具を付け直し、水筒を軽く叩いた。


「空だと跳ねるんだ。これから水を詰めに行くところでな」


 女は頷いて、少年のほうへ戻っていった。


 トクジも荷車を引きだした。

 車輪が回ると、また空の音がした。


     *


 重力が反転して五年。

 東京の地下には、かつての天井を道にした街がある。

 地下鉄や避難路をつないだメトロジェイル。

 そこで人や荷物を運ぶ者は、モグラと呼ばれていた。


 トクジも、その一人だった。

 若い者のように自転車では走れないが、水を運ぶ道なら、どの継ぎ目で荷車が跳ねるかまで覚えている。


 水筒は、八本。

 形も大きさも揃っていない。


 赤い糸が結ばれたもの。

 青い布が巻かれたもの。

 持ち手に番号を刻んだもの。


 印は届け先を表している。

 同じところへ何度も運んでいるうちに、トクジは印を見れば、受け取る人の手まで思い出すようになった。


 赤い糸は共同炊事場。いつも濡れた手で受け取る。

 青い布は居住区画の奥。戸口まで出てくるのに、少し時間がかかる。

 番号だけの二本は、医務区画。


 地上で見つかった生き残りが、そこへ運ばれたらしい。飲み水と、道具を洗う分が必要だと聞いている。

 どんな人なのか、トクジは知らない。

 受け取った依頼には、水筒二本、届け先は医務区画とだけ書かれていた。

 

 補給所で水を詰め終えると、荷車は急に動きたがらなくなった。


 トクジは腰を入れ、ゆっくり引いた。

 車輪が一度回れば、あとは歩幅を崩さなければいい。


 八本の蓋は、出発前に確かめた。

 逆さにしても、漏れなかった。


     *


 六本を届け終えたところで、袖が濡れていることに気づいた。


 壁際へ荷車を寄せ、腕を見る。

 袖口から肘にかけて、色が濃くなっていた。


 荷台を覗き込む。


 医務区画へ届ける水筒の一本が、少し傾いていた。

 蓋の縁に膨らんだ雫が、落ちた。


 トクジは慌てて立て直した。


 底を支えていた布が濡れている。

 荷車の板にも、細い筋が残っていた。


「……いつからだ」


 返事をする者はいない。

 さっきの角か、その前の段差か。


 水筒を持ち上げると、中で水が揺れた。

 出発したときには、こんな音はしなかった。


 蓋を留める金具を押す。

 留まったように見えて、指を離すと少し戻った。荷を締めた紐に引かれて、歪んだ金具が浮いている。


 トクジは紐を緩め、蓋を上から押さえた。


 これなら漏れない。

 だが、片手で押さえたまま荷車を引けば、次の段差で倒すかもしれなかった。


 補給所へ戻る道を振り返る。

 医務区画までは、もうそう遠くない。


 空を待つのと、水を待つのは違う。


 トクジは水筒をまっすぐ置き、倒れないよう両側へ空の容器を寄せた。

 それから、通路の先にある、心当たりのある場所を目指した。


     *


「ユウジ、いるか」


 返事の代わりに、金属を打つ音が止まった。

 修理を請け負うシュウリヤのユウジが、作業台から顔を上げた。


「どうした」

「蓋が浮く」


 トクジが水筒を見せると、ユウジは敷いていた布をどけた。


「こっちへ」


 水筒を立てたまま、蓋の周りを調べる。

 指で金具を動かし、濡れた縁を見た。


「この留め具、前から曲がってただろ」

「閉まってた。さっき閉まらなくなったんだ」


 そう言って、トクジは黙った。


 ユウジは工具袋を開いた。

 小さな金具を一つ取り出し、水筒の蓋へ当てる。


「こいつを使うか」

「何のだ」

「照明の覆いを押さえる予備だ。少し曲げれば使える」

「要るんじゃないのか」


 ユウジは水筒の底へ目をやった。


「こっちは、いま要るんだろ」


 トクジは医務区画の番号を指で擦った。


「直るまで、どのくらいだ」

「少し待ってくれ。急いで曲げると割れる」


 ユウジは金具を作業台へ運んだ。


 トクジは入口の脇に立った。

 座れる箱があったが、腰を下ろす気にはなれなかった。


 道の向こうを、赤い鎧が通っていった。女王に仕える劫火の騎士だった。

 鎧の足音が聞こえなくなるまで、トクジは水筒を見ていた。


 この街では、嘘をついたと知れれば、暮らしごと奪われかねない。

 八本運んだ。蓋は確かめた。途中で漏れた。


 どれも本当だった。

 だが、減った水を前にした相手が、どこまで信じてくれるかは分からない。


「トク爺」


 呼ばれて顔を上げると、ユウジが手招きしていた。


「持っててくれ」


 トクジは水筒を両手で支えた。

 蓋を押さえる新しい金具が締まっていく。元の留め具とは違い、指を離しても浮かなかった。


 傾けて確かめる。

 ユウジが乾いた布を縁に当てた。


 布に、新しい染みは付かなかった。


「これで持つと思う。戻ったら、蓋ごと交換できるものを探せよ」


 トクジは頷いた。


「世話になった」

「段差、ゆっくりな」

「いつも、ゆっくりだ」


 ユウジは少し笑って、工具を戻した。


     *


 医務区画の入口では、若い係の者が待っていた。


「水?」


 トクジが頷くと、相手は奥へ声をかけた。


「届きました」


 その声で、布の仕切りの向こうから人が動く気配がした。


 トクジは、漏れなかったほうを先に下ろした。

 受け取る手が伸びる。


「もう一本は」


 係の者が荷台を見た。

 トクジは二本目の持ち手を握った。


「途中で漏れたんだ」


 相手の手が止まった。


「蓋の金具が歪んどった。直してもらったが、水は減ってる」

「どのくらい?」

「正確には分からん」


 トクジは水筒を卓に置いた。


「濡れてるのに気づいてからは、立てて運んだ。出る前には、漏れてなかった」


 言い終えると、喉が乾いた。


 係の者は蓋の金具を見た。

 開いて中を確かめ、卓の上にあった目盛り付きの容器へ水を移す。


 トクジは、その水面を見ていた。


「足りない分、取りに戻る」

「待って」


 相手は量を確かめてから、もう一度、仕切りの奥へ声をかけた。


「一本は満量です。もう一本は途中で漏れています。使う分を先に分けてください」


 奥から返事があった。


 空になった水筒を、トクジは受け取った。

 さっきユウジに付けてもらった金具が、掌に当たる。


「すまん」


 係の者は、卓にこぼれた数滴を拭いた。


「減ってるって、先に分かってよかったです」


 それから、空の水筒を指した。


「これ、もう一度使えますか」

「蓋は直った」

「じゃあ、これに。次の分も要るので、いっぱいにしてきてもらえますか」


 トクジは相手を見た。

 係の者はもう、受け取った水を奥へ運ぼうとしていた。


「あんた、まだ、ここにいるか」

「交代するかもしれません。次の人に言っておきます」

「分かった」


 トクジは水筒を荷台へ戻した。

 今度は紐が留め具に触れない位置で、結び直した。


     *


 補給所への道は、来たときより長く感じた。


 腰が痛んだ。

 いったん止まると、また引き始めるのが億劫になる。それでも段差の前では止まり、車輪の向きを確かめた。


 水筒は軽かった。

 その軽さが、今日は余計にこたえた。


 補給所に着く。

 事情を話し、届け先と追加の量を帳面につけてもらった。

 

 水が容器の底を打つ。

 少しずつ音が低くなり、持ち手を握る指に重さが戻ってくる。


 トクジは蓋を閉めた。


 金具を押さえる。

 傾ける。

 戻して、もう一度見る。


「大丈夫かい」


 補給所の女が訊いた。


「ああ」


 トクジは答え、それから言い直した。


「いまは、漏れとらん」


 女は頷き、次の容器を水口の下へ置いた。


     *


 医務区画へ戻ると、入口にいたのは別の人だった。トクジが番号を見せると、その人はすぐに場所を空けた。


「聞いてます。こちらへ」


 水筒を下ろし、蓋を開く。

 受け取る人と一緒に、中の水位を確かめた。


 今度は、詰めたままの量があった。


 奥で誰かが寝返りを打った。

 布が擦れる音と、低い話し声がした。


 トクジは荷台の持ち手を握ったまま、しばらく立っていた。


「そちらも、持っていってもらえますか」


 足元に、最初に届けた水筒が置かれていた。


「早いな」

「ちょうど、使うところだったので」


 トクジはそれを持ち上げた。 

 軽い。蓋の縁も、胴も、もう乾いていた。

 荷台へ載せると、隣の水筒と触れ合って、からんと鳴った。


     *


 帰り道、トクジはユウジの仕事場へ寄った。

 シュウリヤは作業台に肘をつき、小さな部品を選り分けていた。


「漏れなかったぞ」


 ユウジが顔を上げた。


「そうか」

「通り道に太い針り金が落ちていた。使えないか」

「そりゃ、ありがたい」


 ユウジはトクジの荷台から、根に絡んだ針り金を受け取った。


「少し座っていきなよ」

 

 ユウジが作業台の脇の箱を足で引き出すと、トクジは断らなかった。

 

 腰を下ろすと、足の裏がじんとした。

 水筒から手を離し、膝の上で指を開く。持ち手の跡が、赤く残っていた。


 トクジはしばらくして立ち上がり、荷を押さえる紐を締め直した。


 空の水筒は、よく鳴る。


 次の継ぎ目で音がしたとき、トクジは振り返って荷台を見た。

 医務区画から引き取った一本が、隣の容器に触れている。


 乾いた胴を、掌で一度押さえた。


 それから、荷車を引いて、また歩きだした。


 

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