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【客から仲間へ。】   作者: 夏目六華


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【客から仲間へ。】

明治時代、馬車を用いて「秘密裏に人を逃がす」ことから始まった織田家は、大正、昭和、平成、そして令和にいたるまで、依頼人の背景を問わず、預かった「荷物」を『決まった時間に、決まった場所』へ確実に送り届けるプロの届け屋だった。

ガレージの重い鉄扉を閉めると、夜の冷気と湿った油の匂いが、織田健二の身体を包み込んだ。


健二は今年で四十二歳になる。

人生の折り返し地点を過ぎ、若手と呼ばれる年齢はとうに過ぎた。だが、何かを成し遂げたという確固たる自信もない。

ただ一つ、急逝した父、源蔵から叩き込まれた「車を痕跡なく走らせる技術」だけが、彼の手に残された頼りない財産だった。


机の上には、真新しいスマートフォンと、役所に提出するだけの状態になった『廃業届』が置かれている。


明治時代、馬車を用いて「秘密裏に人を逃がす」ことから始まった織田家は、大正、昭和、平成、そして令和にいたるまで、依頼人の背景を問わず、預かった「荷物」を『決まった時間に、決まった場所』へ確実に送り届けるプロの届け屋だった。


「七十一ってのは、逝くにはまだ早いだろう、親父……」

健二はぽつりと呟いた。


一ヶ月前、四代目の父・源蔵が七十一歳で突然この世を去った。

最期まで現役を貫き、このガレージで工具を握ったまま息を引き取った。

親父の運転技術は本物だった。だが、現代はどこへ行ってもGPSで追跡され、Nシステムや防犯カメラ、ドライブレコーダーが張り巡らされた監視社会だ。


「記録に残らず走る技術」など、もはや時代遅れの遺物でしかない。


「俺の代で終わりだ。もう、こんな仕事が必要とされる時代じゃない」

そう自分に言い聞かせ、廃業届に判を押そうとしたその時だった。


午後十一時五十九分。


机の上の黒電話が、ジリリリリ、と静寂を切り裂いて鳴り響いた。


健二は躊躇った。

今日で廃業するのだ。だが、骨の髄まで染みついた習性が、彼に受話器を取らせた。


「……今日で廃業なんですがね」

受話器の向こうで、何人かの男が息を潜めている気配がした。 その奥で、誰かが小さく咳払いをした。

どこかで聞いたことのある咳だった。


健二は少しだけ自嘲気味に微笑み、

廃業届を裏返しにして机に置いた。


「最後に、一件だけだ。夜中三時に熊本新港の駐車場まで来い」

相手は名前を名乗らずに電話を切った。


午前三時、漆黒の古い国産セダンを深夜の埠頭へと滑り込ませた。


車のライトが切り裂いた闇の中に、四人の老人が立っていた。

全員が七十代後半から八十代に差し掛かる、かつて父、源蔵を、そして織田家の車を影で代々支え続けた「伝説の職人たち」だった。


エンジン、タイヤ、内装、塗装。それぞれの分野で世界一流の腕を持ちながら、決して表舞台には出ず、織田家の車だけを完璧に仕上げてきた男たちだ。


「おい、小僧。何ボサッとしてやがる。ドアを開けろ」

エンジン屋のジジイが不機嫌そうに言った。


四十二歳の健二も、この怪物たちの前ではただの「小僧」だった。


健二は黙って助手席と後部座席のドアを開けた。

受け継がれてきた二つの家訓が頭をよぎる。

『運転手は、荷物を見るな。依頼人を見るな。行き先だけを見ろ』

『事情は聞くな。ただし、誰かを傷つけるための荷物は乗せるな』

たとえ相手が誰であれ、受けた依頼は命より重い。

全員が乗り込むと、車内には何とも言えない、古いオイルと上質な革の匂いが満ちた。


「行き先は?」

「親父さんの墓だ。日の出までに行って帰る」 助手席のタイヤ屋が言った。

健二は短く

「了解」とだけ応え、シフトをローに入れた。 クラッチを繋ぐと、クラシックなセダンは水面を滑るように、極めて静かに、そして力強く発進した。


深夜のバイパス。

ビル群の光がフロントガラスを流れていく中、後部座席から、不平不満という名の「最高級の賛辞」が聞こえ始めた。


「それにしても、お前のオヤジには本当に参ったよ」

エンジン屋が吐き捨てるように言った。

「ある日突然よ、『発進から七秒以内に時速百キロ。それでいて三速まで、客に変速を悟らせるな』と言いやがった。ランボルギーニじゃねえんだぞ! しかも、後ろの客に振動を伝えるな、ノイズを消せ、眠れるくらいにしろってんだ。エンジンマウントから車体へ伝わる振動も、排気脈動も、吸気音も、全部一から潰した。一週間、ほとんど寝ずにやり直した。ありゃ地獄だったね!」


「お前なんかまだマシだ!」

助手席のタイヤ屋がガハハと笑った。

「俺なんか、『皇室のVIPリムジンより質が良くて、熱垂れもしないタイヤを寄越せ』だぞ? 皇室のタイヤなんて売り物じゃねえし、情報もありゃしねえ。皇太子の結婚パレードのテープを何百回と擦り切れるまで止めてよ、一コマずつタイヤだけを見て記録したんだ。開発に一ヶ月、金はバンバン使い果たした!」


「俺なんか、高級ワニ革に張り替えたらさ、触っただけで『これじゃダメだ。次の依頼は、ショックを吸収して滑りにくい素材にしろ』とよ」 内装屋が呆れたように言った。

「一度も座らねえでダメ出しだぞ。呆れて物も言えん。負けてたまるかって三日三晩不眠不休でやり直して、時間ぴったりに渡したら、あいつ何て言ったと思う? 『最高の素材と出来だ』。それ一言で乗っていきやがった。もっと褒めてもいいだろ!」


健二はバックミラー越しに彼らの顔を見た。口々に親父の無茶振りを罵っているが、その表情は少年そのものだ。


「でもな、健二」 塗装屋が、静かにダッシュボードを撫でた。

「『目立っちゃいけねぇ、でも安っぽくも見えちゃいけねぇ』って磨いた技術でよ、今じゃワシ、息子と一緒にサグラダ・ファミリアやら世界中の遺跡の補修塗装に行っとるんだ。もう町のペンキ屋じゃねえ、世界のペンキ屋だ。息子は五ヶ国語喋って国連の部署におる」


エンジン屋が突っ込む。

「トンビが鷹を産んだな」

「あほか、蛙の子は蛙だよ!」


「俺の内装技術なんて、今じゃNASAの月や火星を走る探査車の衝撃吸収材なんかに使われて、がっつり稼がせてもらってる。 俺たちの技術は日本を超えて世界、宇宙まで行っちまったんだ」


「こいつの息子なんか、金髪の嫁さん連れてきた時はドッキリかと思ったぜ! 結婚式はパリだぞ? 孫からは英語で『ビッグダディ』って呼ばれてんだ!」

「で、そのエンジン屋が、今じゃ孫のために静かなEVを買ってやがる。びっくりだぜ」


「タイヤ屋は、今や世界一のタイヤ企業の開発専門部の責任者として、F1やWRCやら世界中を駆け回ってやがる……」

「老後はゆっくりなんて言ってられねー」

車内が大爆笑に包まれる。

健二の胸の奥で、何かが静かに熱くなっていくのを感じた。


四十二歳。

人生の迷い子。

親父のせいで、自分は時代遅れの不器用な男になってしまったと思っていた。

だが、親父の「無理難題」は、この老人たちを世界一流に押し上げていたのだ。


「おい、健二。オヤジさんから運転の腕には合格をもらったんだろ!」

助手席のタイヤ屋が、不敵な笑みを浮かべてフロントガラスの先を指差した。


健二はそっと、スマートフォンの電源を切り、ナビの画面を消した。


バイパスを降り、大通りを外れる。 曲がるたび、街の灯りが一つずつ背後へ消えていった。

父から教え込まれた道は、地図には載っていても、記録には残りにくい道だった。

やがてセダンは、現在は使われていない山道の古い試験道路へ入った。

源蔵と四人の職人が、かつて夜ごと車を走らせた場所だった。

「次の五連続S字カーブを、サイドブレーキ無しで、最小限のブレーキングで、一本のラインに繋げてみろ」

健二は前方の闇に吸い込まれるような急カーブを見つめ、少しだけ笑った。

「危ないですよ。身体、しっかり支えてくださいね」


「安心しろ、俺様のタイヤは熱垂れなんか知らねえ!」

「俺の組み上げたエンジンは、ブレやしねえ!」

「俺の特注グローブなら、ハンドルを滑らせやしねぇ!」

「ぶつけたらワシが直してやる、金はもらうがな!」

「おい塗装屋、なんでお前だけ、ぶつける前提で塗装代を取ろうとしてんだよ」

車内に笑い声が弾けた。


クラッチを踏み込み、サードに入れる。

車体は軋まない。 タイヤは路面を離さない。 シートは身体を確実に支え、エンジンは健二の操作に一瞬の遅れもなく応えた。

深夜の静寂が、張り詰めたコックピットを支配する。

ヘッドライトに照らされた白線が、健二の視界へ次々と吸い込まれ、窓の外へ流れていく。 車内には、老人たちの息遣いと、完璧に調律された排気音だけが響いていた。


親父が職人たちに突きつけた無理難題。その一つ一つが、今、自分の命を支えている。 ——全部、ここに残っていたのか。 健二は深く息を吐き、さらにアクセルを奥へと滑り込ませた。 吸い付くように路面を捉え、滑るように五連続のS字カーブを抜けていくセダン。 五つ目のカーブを綺麗に立ち上がり、セダンが直線へ滑り出た瞬間――車内の沈黙が破られた。


「まあ合格。でももう少し踏めただろ!俺のタイヤが熱垂れなんかするかよ」

助手席でタイヤ屋が、嬉しそうにシートに深く背中を預けた。


後部座席で、エンジン屋が腕を組み、ニヤリと不敵に笑った。

「立ち上がりは、もう少し伸びたはずだ。エンジンを信じてなかったろ……まあ、甘く合格だ」


「荷重移動は問題なし、合格だ」

内装屋も、シートのホールド力を肌で感じながら太鼓判を押した。


「ちぇっ、ぶつけなかったな! 塗装工賃分を稼ごうと思ったのによ。まあ、ぶつけないことは良いことだ。合格だな」

塗装屋が、わざとらしくため息をつき、全員がどっと笑った。


それぞれ口々に文句を言いつつも、彼らの声には健二の運転技術に対する、確かな合格の証が込められていた。


バックミラーを見る。 七十、八十を過ぎたジジイたちが、速度の向こう側で、大笑いしていた。


東の空がゆっくりと白み始めた頃、車は海を見下ろす丘の上、源蔵の墓前に到着した。

老人たちは車を降り、墓石に缶コーヒーを置いた。

「お疲れさん、源蔵」

タイヤ屋がぽつりと呟き、四人はしばらく、朝靄の煙る海を無言で見つめていた。

その背中は、ひとつの時代を走り抜けた戦友への、最高に不器用で、最高に温かい敬意に満ちていた。


やがて彼らは車へと戻ってきた。

だが、その乗り込み方は、埠頭にいた時とは明らかに違っていた。


行きは「おい小僧、ドアを開けろ」と踏んぞり返っていた彼らが、今度は健二がドアに手をかける前に、それぞれ自分たちで静かにドアを開けて乗り込んだのだ。


健二が運転席に座ると、助手席のタイヤ屋が、じっとフロントガラスの先を見つめたまま口を開いた。

「おい、健二。さっきの五連続S字、お前意図的にフロントにわずかに荷重を残して進入したな?」

健二は驚いてタイヤ屋を見た。

「俺のタイヤが一番気持ちよく路面に食いつくスリップアングルを、お前、一瞬で見抜きやがった」

後部座席から、今度は内装屋が深くシートに身体を預けながら、感嘆の息を漏らした。

「ああ。横への揺さぶりが極めて優しかった。おかげでこのシートの最高級ウレタンが完璧に衝撃を吸収できたよ。あの走りなら、後ろに乗るのがどこのVIPだろうが、手元のお茶一杯こぼしやしねぇ」


塗装屋が、窓枠を指先でなぞる。

「車体を暴れさせなかったな。これならワシの塗装に余計な飛び石も食らわせずに済む」


健二は静かに唾を飲み込んだ。

最後に、エンジン屋が腕を組んで、ふんと鼻を鳴らした。

「まあ、回転数の合わせ方は及第点だ、クラッチを繋ぐタイミング、親父よりコンマ二秒早かったな」


健二が驚いてミラー越しに視線を送ると、エンジン屋はぶっきらぼうに言った。

「やっぱり、源蔵の見立ては間違ってなかったな」

「……何のことです?」

健二が尋ねても、エンジン屋は答えない。

ただバツが悪そうに窓の外を眺め、口をへの字に結んだ。

代わりに助手席のタイヤ屋が、ふっと笑って肩をすくめた。

「親父さんが逝く半月前、居酒屋で一緒に酒を飲んだんだ。俺ら全員が生きて、日本に滞在しているタイミングなんて、もう貴重な時間だからな。『健二のシフトチェンジは、俺より優しい。あいつの足首は、俺が教えきれなかった領域に届きかけてる』ってな。珍しくあいつが、嬉しそうに漏らしてたよ」 健二の喉の奥が、ぎゅっと熱くなった。


親父は、見ていたのだ。何も言わずに、ずっと。 車内の会話は、いつの間にか健二を試すものではなくなっていた。

次に何を作るか。どこを変えるか。

四人はもう、健二の意見を聞いていた。


四人が交わす会話の輪の中に、健二は初めて自分の居場所を感じた。


「健二、お前なら、次のエンジンマウントの硬さはどうする?」

「もう少し硬くします。低速では振動が増えるでしょうが、その分、アクセルへの反応を直接伝えたい」

「後ろの客に、その振動を感じさせずにか?」 「そのために、シートと内装で吸収します」 「ほう。俺まで巻き込む気か」

内装屋が嬉しそうに笑った。

「ならタイヤも少し柔らかくする。お前の足なら、路面からの入力を使い切れる」

「エンジンの出力特性も詰め直さなきゃならんな」 エンジン屋が、もう次の仕事を始める顔で呟いた。


五代目という呼び名が、初めて重荷ではなく、誇らしいものに思えた。


空がすっかり明るくなった頃、セダンは四人を乗せた新港の駐車場へ戻ってきた。


タイヤ屋が窓の外を眺めながら呟いた。

「俺たちは皆、源蔵の車から始まった。だが、いつまでも同じ場所にいたわけじゃねぇ」

塗装屋が笑う。

「車から、世界遺産へ」 内装屋も肩をすくめた。

「俺なんか、地上から宇宙まで行っちまった」 エンジン屋は鼻で笑った。

「変わるってのは、悪いことじゃねぇ」

タイヤ屋が続ける。

「俺たちも息子たちに こんな油まみれの仕事を、無理に継げとは言えなかった」


エンジン屋は、自分の胸をトンと叩いた。

「決めるのは、いつだってここだ」

「他人じゃねぇ」 四人はそれぞれドアを開け、朝の駐車場へ降り立った。


彼らは朝の光の中を静かに歩き去っていった。


もう、誰も「小僧」とは呼ばなかった。


午前六時。 ガレージに戻った健二は、静かにシャッターを下ろした。

静まり返った薄暗い空間。 真ん中に佇む、漆黒のセダン。 健二は車の前まで歩み寄り、床にしゃがみ込んであぐらをかいた。


机の上には、まだ廃業届が置いてある。 だが、健二はそれをポケットに仕舞い込んだ。


今日、答えを出す必要はない。 

だが、四十二歳の胸に宿った火は、もう簡単には消えそうになかった。


健二は手を伸ばし、まだ温かいボンネットを軽く撫でた。


「……お疲れ様」


静かなガレージに、キーをポケットにしまう乾いた金属音が、心地よく響いた。


今回の物語はいかがでしたか?

感想や応援コメントお待ちしています。

次回の新作短編小説公開までお待ち下さい。

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