第八章 二人
蒼馬が留まると決めてから、ふたりの暮らしは変わった。
表面的にはほとんど同じだった。蒼馬が薪を割り、雪永が炊事をする。山で狩りをし、薬草を採り、囲炉裏を囲んで静かに夜を過ごす。
だが、空気が変わった。
互いの間にあった壁が——嘘と秘密でできた透明な壁が——取り払われたことで、ふたりの距離は自然と近くなった。
蒼馬は雪永の正体を知った上で、傍にいることを選んだ。雪永は蒼馬の裏切りを知った上で、それでもなお蒼馬を選んだ。互いの傷も、弱さも、過去の暗がりも——すべてを曝け出した上で、なお共にいることを決めた。
それは脆いようで、強い絆となった。
美しい嘘で飾られた関係よりも、傷だらけの真実で繋がれた関係のほうが、よほど壊れにくい。なぜなら、壊れる部分がもうないからだ。すでに一度、粉々になっている。残ったのは——それでも手放せなかったものだけだ。
最初に変化を感じたのは、些細なことだった。
夕食の支度をしていたとき、蒼馬が背後から雪永に声をかけた。
「味見をしていいか」
雪永が振り向くと、蒼馬がすぐ近くに立っていた。以前なら——裏切りを隠していた頃なら——この距離に近づくことを蒼馬は避けていた。だが今は、自然にそこにいた。
雪永は匙を差し出した。蒼馬がそれを受け取り、汁を一口すすった。
「うまい」
「嘘つかないで。まだ煮えていない」
「いや、うまい」
蒼馬がわずかに笑った。その笑みが——以前とは違っていた。どこか、ほっとしたような、肩の荷を下ろしたような、そんな笑みだった。
雪永は頬が熱くなるのを感じて、慌てて鍋に目を戻した。
別の日。蒼馬が山から戻り、小屋の前で泥のついた足を洗っていた。雪永が水桶を運んでいくと、蒼馬が顔を上げ、何も言わずに桶を受け取った。手と手が触れた。
以前なら、どちらかが手を引いていただろう。
だが、今度は——どちらも引かなかった。
ほんの一瞬。だが、その一瞬に、言葉にならない何かが流れた。
蒼馬が変わったことは、日々の中に表れていた。
以前は見せなかった弱さを、少しずつ見せるようになった。妹の話をすることがあった。小さかった頃、よく俺の背中にしがみついていた、と。海が好きで、よく浜に連れていった、と。波が来るたびに叫んで笑っていた、と。
蒼馬が妹の話をするとき、その目は遠くを見ていた。だが、その遠さには悲しみだけでなく、温かさもあった。
「名前は——千鶴といった。俺より六つ下で、小さくて、いつも笑っていた。身体が弱いのに——不思議と笑顔を絶やさなかった」
「強い人だったのね」
「ああ。俺よりずっと、強かった」
蒼馬はそう言って、少し笑った。だが、その笑みの端に、微かな痛みが滲んでいた。
「千鶴が死んだとき——俺は、傍にいられなかった。玄斎の命で、おまえを探して山に入っていた。知らせを受けたのは——すべてが終わった後だった」
雪永は何も言えなかった。ただ、蒼馬の傍に座り、黙ってその言葉を受け止めた。
「妹がいたから——俺は生きてこられた。妹を守ることが、俺の生きる理由だった」
「今は」
「今は——おまえがいる」
蒼馬はそう言って、少し照れたように視線を逸らした。雪永は笑った。
その夜のことだった。
蒼馬が着替えるとき、背中の古い傷痕がちらりと見えた。火傷の痕だ。以前から気にはなっていたが、蒼馬はそれについて語ろうとしなかった。
「蒼馬。——その背中の傷に、薬を塗らせて」
蒼馬は一瞬躊躇したが、やがて静かに着物を肩から落とし、背中を見せた。
囲炉裏の灯りに照らされた背中には、幾筋もの傷痕が走っていた。刀傷、鞭の痕、そしてあの火傷。どれも古い傷だったが、冬になると痛むのだと、蒼馬は短く言った。
雪永は薬箱から軟膏を取り出し、指先に載せた。
「……冷たいぞ」
「我慢して」
指が蒼馬の背中に触れた瞬間、蒼馬の筋肉がびくりと強張った。だが、雪永が丁寧に薬を塗り広げていくと、少しずつ力が抜けていった。
火傷の痕は、触れるとわずかに凹凸がある。指先でなぞると、その形がわかった。まるで——鎖のような形。
「これは……」
「……訊くな」
蒼馬の声が低くなった。雪永はそれ以上問わなかった。蒼馬にも、語りたくない過去がある。自分と同じように。
だが、指は止めなかった。ひとつひとつの傷に、丁寧に薬を塗っていく。
「……おまえも、背に傷があるな」
蒼馬が振り返らずに言った。鞭の痕のことだ。龍狩衆につけられた傷。もうほとんど癒えているが、薄い線がまだ残っている。
「ええ。お揃いね」
雪永が軽い口調で言うと、蒼馬が振り返った。少し驚いたような顔をして——それから、かすかに笑った。
「……お揃い、か」
その声が、不思議と温かかった。
傷だらけのふたりだった。身体にも、心にも、たくさんの傷を負っている。だが、互いの傷に触れることで——少しだけ、癒されるものがあった。
薬を塗り終えた雪永が手を引こうとしたとき、蒼馬の手がそれを捕まえた。
「……ありがとう」
蒼馬の手は大きかった。温かかった。雪永の細い指を、そっと包み込んでいた。
雪永は何も言えなかった。ただ、その手の温もりが——胸の奥まで、じんわりと広がっていくのを感じていた。
しばらくして、蒼馬は手を離した。雪永も何も言わなかった。だが、離れた後も、指先に蒼馬の温もりが残っていた。いつまでも。
雪永もまた、少しずつ自分の過去を語るようになった。母のこと。父のこと。あの日の嵐のこと。逃げて、隠れて、何十年もひとりで生きてきたこと。
蒼馬は黙って聞いていた。時折、怒りを堪えるように顎が強張ったが、口を挟むことはなかった。雪永が語り終えるまで、じっと待っていた。
「長い間、ひとりだったな」
「ええ」
「もう——ひとりにはしない」
蒼馬のその言葉が、雪永の胸にしみ込んだ。
ある晩、ふたりが囲炉裏を囲んでいるとき、雪永が不意に口を開いた。
「ひとつ——聞いてもいい?」
「何だ」
「玄斎は——いつか、ここへ来るのかしら」
蒼馬の顔が引き締まった。
「来る可能性はある。俺が戻らなければ、いずれ追手を送るだろう」
「そう」
「だが——この谷は深い。簡単には見つけられまい。それに、俺はもう、玄斎の手の者に居場所を報告していない。奴らが辿れる手がかりは途絶えているはずだ」
「けど——万が一」
「来たら——斬る」
蒼馬は低く、だがはっきりと言った。
「おまえに手を出す者は——誰であろうと、斬る」
雪永は蒼馬を見つめた。蒼馬の目には、冗談の色はなかった。本気だった。この男は、自分を守るために人を斬る覚悟をしている。
「……そこまで、しなくていい」
「する」
「蒼馬」
「俺は——もう、誰かを守れなかった悔いを、二度と味わいたくない。千鶴のときの、あの——何もできなかった無力さを。二度と」
蒼馬の声に、振り絞るような切実さがあった。雪永は何も言えなかった。蒼馬が背負っているものの重さを、改めて思い知った。
「——ありがとう」
雪永はそう言った。それ以上の言葉は見つからなかった。だが、蒼馬は小さく頷いた。それで十分だというように。
七月に入り、梅雨が明けた。夏の日差しが谷間に降り注ぎ、緑が一層濃くなった。蝉が鳴き始め、谷川の水は冷たく澄んでいた。
ふたりの距離は日を追うごとに近くなっていた。食事のとき、自然と膝が触れるようになった。囲炉裏の前で並んで座るとき、肩が寄り添うようになった。言葉にはしなかったが、互いの温もりを求めていることは、もう隠しようがなかった。
ある夕暮れ、ふたりは谷川のほとりにいた。水に足を浸し、並んで座っている。西の空が紅く染まり、その光が水面に反射して、辺り一帯が金色に輝いていた。蜻蛉が水面を掠めて飛び、沢蟹が石の陰に隠れた。
蒼馬が、不意に言った。
「雪永」
「なに」
「俺と——夫婦にならんか」
雪永は振り向いた。蒼馬の顔が、夕陽に照らされて紅かった。だが、それが夕陽のせいだけではないことは、目を合わせようとしない蒼馬の様子からわかった。
「……何を急に」
「急ではない。ずっと——考えていた」
「いつから」
「桜が咲いた頃から」
雪永は目を見開いた。あの四月——蒼馬がまだ裏切りの任務を背負っていた頃から。
「おまえの髪に、桜の花弁が散りかかったのを見て——ああ、この人と生きたいと思った。任務のことなど忘れて、おまえの隣に立っていたいと。あのとき——もう、わかっていたんだ。俺にとっておまえが何であるかが」
雪永は何も言えなかった。胸がいっぱいで、言葉が見つからなかった。
「俺は——おまえを一度裏切った男だ。相応しくないのは、わかっている。だが——それでも」
蒼馬が雪永を見た。真っ直ぐに。あの切れ長の目に、今まで見たことのない光が宿っていた。
「俺の命を——おまえに預けたい。おまえとともに、ここで——生きていきたい」
雪永は——笑った。
泣きながら笑った。涙が頬を伝っているのに、口元は自然と弧を描いていた。
「相応しいとか、相応しくないとか——そんなことは、私にはわからない」
雪永は蒼馬の手を取った。
「ただ——あなたの隣にいると、温かい。あなたの声を聞くと、安心する。あなたがいると——生きていたいと思える。それでは、いけないかな」
蒼馬は雪永の手を握り返した。強く、だが壊れぬよう、慎重に。
「いける」
蒼馬の声が、かすかに震えていた。
「十分だ」
夕陽が沈んでいく。空が紅から紫に、紫から藍に変わっていく。最初の星が、東の空に瞬いた。
ふたりは手を繋いだまま、暮れゆく空を見上げていた。
言葉はなかった。
だが、繋いだ手から伝わる温もりが、千の言葉よりも雄弁だった。




