第七章 三日間
蒼馬は近くの岩陰にいたようだった。雨に打たれながら、小屋から離れすぎない場所に。
雪永にはそれがわかっていた。完全に去ったのではなく、見えない場所で見守っている。それが蒼馬の、不器用な誠意なのだろうと思った。
一日目。
雪永は何もできなかった。囲炉裏の前に座り、膝を抱え、ぼんやりと火を見つめていた。食事もせず、水だけを飲んだ。
雨が窓を打つ音が、小屋の中に響いていた。それは不思議と、蒼馬が薪を割る音に似ていた。規則的で、力強く、けれどどこか優しい音。
蒼馬が薪を割る姿を思い出した。広い背中。汗に濡れた髪。斧を振り下ろすたびに、背の筋肉が動く。それを見ているのが好きだった。夜の囲炉裏の前で、蒼馬が黙って刀を磨いでいる姿も好きだった。雪永が落とした薬草の包みを、何も言わずに拾ってくれたことも。山から摘んできた野苺を、何気ない顔で雪永の前に置いたことも。
あのひとつひとつが——全部、嘘だったのか。
いや。全部が嘘だったとは、やはり思えない。
だが、偽りが混じっていたことも事実だ。そして、その偽りがどれほどの割合であったのかは——雪永にはわからない。それは蒼馬自身にしかわからないことだ。
夜が更け、雨足を強めた。雪永は囲炉裏の火が消えかけるのを、ぼんやりと見ていた。薪をくべる気力もなかった。火が消えたら、消えたままでいい。寒くはない。龍の血が、寒さからは守ってくれる。
だが——寒くはなくとも、寂しい。
たかが数日前まで、この囲炉裏の向こう側に、蒼馬がいた。同じ火の光に照らされ、同じ温もりを分かち合っていた。それが当たり前だと思っていた。当たり前のことが、あっけなく失われる。人の温もりとは、そういうものだ。雪永は、それを嫌というほど知っている。
母の顔を思い出そうとした。人の姿の母。白い髪と紅い目。穏やかに微笑む、美しい人だった。父と並んで座っているとき、母はいつも少しだけ首を傾げて、父の話を聞いていた。父が山の話や獣の話をすると、母は目を細めて笑った。龍にとって、人の語るくだらない日常が、珍しく、愛おしかったのかもしれない。
父は、母が龍であることを知っていても、母のことを「おかあ」と呼んだ。「おまえ」と呼ぶこともあった。母は少し困ったように笑い、「人の呼び名は、不思議なものだな」と心の中で雪永に語りかけたことがある。
——おかあさま。私は、どうすればいい。
答えはなかった。母はもう、いない。
だが——雪永は、ふと思った。母なら、何と言うだろう。
母は、父を選んだ。龍でありながら、人の男を愛し、ともに暮らした。それがどれほど危険なことか、母が知らなかったはずがない。それでも選んだ。怖いと知りながら、それでも——。
きっと母なら、こう言うだろう。
——自分の心に、正直になりなさい。
雪永は、暗い小屋の中で、静かに涙を流した。
二日目。
雨がやんだ。雲が切れ、久しぶりに陽が射した。
雪永は外に出て、谷川のほとりに座った。水の流れを見つめている間に、考えがまとまってきた。
蒼馬が自分を裏切ろうとしていたことは事実だ。だが、蒼馬には蒼馬の事情があった。病弱な妹。治療を盾に取る黒幕。蒼馬は、妹を守るために自分を犠牲にしようとした。それは卑怯なことだが——同時に、人として理解できる動機だった。
雪永の父もまた、龍である母と暮らすことで、自分の人生を危険にさらしていた。それでも父は母を選んだ。なぜか。愛していたからだろう。しかし、もし父に守るべき家族が他にいたら——たとえば、母以外の誰かを犠牲にしなければ母と一緒にいられないと言われたら——父はどうしただろう。
答えは簡単ではない。
人は、誰かを守るために別の誰かを傷つけることがある。それは悪だが、同時に——愛の裏返しでもある。
雪永は手を水に浸した。冷たい水が指の間をすり抜けていく。掴もうとしても掴めない。水は、人の手からは逃れていく。
だが——その冷たさの中に、確かな何かがあった。水は流れ続ける。どんな形の岩があっても、どんな障害があっても、水はその形に沿って流れ続ける。止めることはできない。
自分の想いも、それと同じかもしれない。蒼馬への想いは、裏切りを知っても止まらなかった。怒りや悲しみという岩にぶつかっても、その形に沿って流れ続けている。
蒼馬のあの笑い方が好きだ。
めったに笑わない男だが、たまに見せる笑みは——まるで雨上がりの空のようだった。熱を出したときに額に当ててくれた、ごつごつした掌。食事のときにそっと聞こえる、「うまい」の一言。あのひとつひとつが、雪永の心の中で、温かな火のように燃えている。
その火を、消すことはできなかった。裏切りを知っても、できなかった。
蒼馬が雪永との暮らしの中で変わっていったことは、嘘ではないと思えた。あの日々の中で蒼馬が見せた優しさが、すべて演技だったとは——やはり、思えないのだ。
猪に襲われたあの夜。雪永の手を握った蒼馬の手。あの温かさは、本物だった。
だが、本物だからこそ——苦しい。
蒼馬が自分を選ぶ保証はない。妹の命がかかっている以上、蒼馬には選択の余地がないかもしれない。三日後、蒼馬が「やはり玄斎に渡す」と言ったら——。
そのとき、自分はどうする。
逃げるのか。
あるいは——受け入れるのか。
雪永は自分に問いかけた。そして気づいた。
自分は——もう、逃げたくない。
逃げて、隠れて、ひとりで生きる。それを何十年もしてきた。もう、十分だ。
母が「生きなさい」と言った。生きてきた。だが、生きているだけでは足りない。母が望んだのは、ただ息をしているだけの存在ではなかったはずだ。父と母がそうであったように——誰かとともに、温かく、生きていくこと。それを、母は願ったのではないか。
蒼馬が自分を裏切るなら——そのときは、そのときだ。
だが、その前に——自分の想いを、伝えなければならない。伝えずに終わったら、一生悔いる。それだけは、確かだった。
雪永は水から手を引き上げた。指先から水滴が落ち、光を反射してきらりと光った。
空を見上げた。雲の切れ間から、青い空が覚いている。雨上がりの空は、洗われたように澄んでいた。
——おかあさま。
雪永は心の中で呼びかけた。
——私は、過ちを犯すかもしれません。あなたたちのように、人とともに生きようとして、傷つくかもしれません。
——でも、それでも、私は——。
風が吹いた。山の向こうから、若葉の香りを運んできた。
その夜——二日目の夜。
雪永は、もう耐えられなかった。
明日になれば、答えが出る。蒼馬が去るか、自分が売られるか。どちらにせよ、この関係は終わるかもしれない。
そう思ったら、居ても立ってもいられなかった。
雪永は雨の中、小屋を飛び出した。岩陰に向かって走った。
「蒼馬!」
雨に打たれて座っていた蒼馬が、驚いて立ち上がった。
「雪永……なぜ来た。雨に濡れるぞ」
雪永は答えず、蒼馬に飛びついた。冷たい雨の中で、蒼馬の身体だけが温かかった。
「抱きしめて」
雪永は叫んだ。
「今、私を抱きしめて。明日なんていらない。今だけでいい」
蒼馬は一瞬躊躇したが、雪永の濡れた瞳を見ると、強く抱きしめ返した。
「……後悔しないか」
「しない」
冷たい雨の中で、蒼馬の身体だけが温かかった。雪永は蒼馬の胸に顔をうずめ、両腕でしがみついた。蒼馬の鼓動が、直接伝わってくる。速い。蒼馬もまた、震えていた。
「雪永——」
蒼馬の手が、雪永の頬を包んだ。雨で濡れた白い髪を指で払い、紅い瞳をまっすぐに見つめた。
そして——唇が重なった。
雨の冷たさも、裏切りの痛みも、明日への恐怖も——何もかもが、その口づけの中に溶けていった。
「蒼馬……蒼馬……」
「雪永……」
何度も名前を呼び合った。額を合わせ、互いの息がかかるほど近くで。雪永の涙が蒼馬の頬を伝った。それが涙なのか雨なのか、もう区別がつかなかった。
「行かないで。どこにも」
雪永の声は、祈りのようだった。
蒼馬は答えず、ただ、もう一度——今度はゆっくりと、壊れものに触れるように唇を重ねた。
雨は降り続いていた。だが、蒼馬の腕の中だけは、永遠のように温かかった。
三日目の朝。
雪永は小屋の外に出て、岩陰のほうを見た。
「蒼馬」
静かに呼んだ。
しばらくして、蒼馬が姿を現した。二日間、ほとんど眠っていないのだろう。目の下に深い隈があり、頬がこけ、以前の端整な印象は見る影もなかった。
だが、その目だけは——真っ直ぐだった。
「入って。飯をつくった」
蒼馬は少し驚いた顔をしたが、黙って小屋に入った。
囲炉裏の前に座り、雪永が出した粥を受け取った。ふたりとも無言で食べた。
食べ終えたとき、雪永が口を開いた。
「答えを聞く前に——私の話を聞いてほしい」
蒼馬は箸を置き、雪永を見た。
「私の母は——龍だった」
蒼馬は目を見開いた。だが、言葉は発さなかった。
「越後の山奥で、人の男と暮らしていた。父は猟師だった。母は人の姿をとれる龍で、白い髪と紅い目を持っていた。この——私の髪と目は、母から受け継いだもの」
雪永は自分の白い髪を一房手に取った。
「私は龍と人の混血よ。龍の力は——ほとんどない。人よりも少し丈夫で、傷の治りが早く、人よりも長く生きる。それだけだ。嵐を呼ぶことも、炎を吐くこともできない。だけど——この白い髪と紅い目のせいで、人として生きることはできなかった」
蒼馬は静かに聞いていた。
「母は龍狩衆に殺された。父も。私はひとりで逃げた。それから何十年も——ひとりで山を転々として生きてきた。人里に降りても、いつかは怪しまれ、追われる。だから、人と関わることをやめた。あの庵で、ひとりで死ぬつもりだった」
雪永の声が、わずかに震えた。
「でも——蒼馬が来た」
蒼馬が息を呑むのが聞こえた。
「あなたに助けられて——初めて思った。人と暮らせるかもしれないと。あなたの隣で、穏やかに生きていけるかもしれないと」
雪永は蒼馬を真っ直ぐに見た。紅い瞳が、囲炉裏の火を映して揺れていた。
「あなたが裏切り者だとわかっても——私は、あなたの隣がよかった。あなたとつくった日々が——私にとっては、初めてできた居場所だったから」
涙が頬を伝った。だが今度は、雪永は拭わなかった。
「私は、あなたと生きたい。——それが、私の答えよ」
長い沈黙が落ちた。
囲炉裏の火が、パチ、と爆ぜた。
蒼馬が——動いた。
立ち上がりかけて、だが途中でそのまま膝を折り、深く——深く頭を下げた。額が土間の地面につくほどの、平伏だった。
「俺は——おまえに、許されるようなことはしていない」
蒼馬の声は、押し殺したように低かった。
「だが——俺も、おまえに話さなければならないことがある」
雪永は黙って待った。
「俺は——三日間、考えた。ずっと考えた。妹のこと。玄斎のこと。おまえのこと。——そして、自分自身のこと」
蒼馬はゆっくりと顔を上げた。目が赤かった。
「俺の妹は——去年の冬に、死んだ」
雪永は、息を止めた。
「……何」
「玄斎の手配した医師は確かに腕がよかった。だが、妹の病は——もとから治るものではなかったんだ。玄斎はそれを知っていた。知った上で、俺を縛り続けた。妹が死ねば俺の忠誠心が揺らぐことも見越して——次は、妹の墓を暴くぞと言った」
蒼馬の拳が、白くなるほど握りしめられていた。
「死んだ人間の墓を盾に、俺を動かそうとした。それでも俺は……逆らえなかった。自分の弱さが、情けなかった」
雪永は何も言えなかった。
「だが——ここで、おまえと暮らして——気づいた。俺は、ずっと怖かっただけだ。玄斎に逆らえば何をされるかわからない。だから、言われるままに動いていた。妹を言い訳にして——自分が逃げていただけだ」
蒼馬が雪永を見た。その目に、覚悟の光があった。
「三日間考えて——答えが出た。俺は——おまえを渡さない」
雪永の心臓が、大きく一度鳴った。
「玄斎が何をしようと——俺は、おまえを守る。おまえの傍にいる。それが——俺の選択だ」
「蒼馬——」
「俺はおまえを苦しめた。傷つけた。許してくれとは言わん。だが——おまえが望むなら、俺はここにいる。おまえの隣に。——たとえ、おまえが龍の血を引いていようと」
雪永は涙が止まらなかった。
「龍の血なんてどうでもいい。関係ない」
蒼馬が、初めて——はっきりと、笑った。
それは不器用で、ぎこちない笑みだった。だが、それまで見たどんな表情よりも美しかった。
「おまえは——雪永だ。それだけでいい」
雪永は泣いた。声を上げて泣いた。何十年分もの涙が、一度に溢れ出したかのように。
蒼馬がそっと手を伸ばし、雪永の肩に触れた。
雪永はその手を取り、握りしめた。
温かかった。
あの日と同じ、温かさだった。




