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龍と人の末裔  作者: 東雲 紅葉


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第六章 対峙

 六月みなづきが来た。梅雨の気配が山を覆い、毎日のように霧雨が降った。


 蒼馬の不在はますます長くなり、戻ってくるたびに表情が暗くなった。以前は穏やかだった沈黙が、今は重く、息苦しいものに変わっていた。


 雪永は黙って耐えていた。


 問わない。責めない。ただ、傍にいる。


 だが、心は散々に乱れていた。蒼馬を信じようとする気持ちと、裏切られるという確信が、昼と夜のように交互に訪れた。


 その間も、季節は動いていた。山の緑は濃くなり、空が曇る日が増えた。梅の穂が湿った空気の中でかすかに香った。にもかかわらず、雪永の心は湿り気とともに重く沈んでいた。


 夕食の支度をしながら、雪永は考えていた。蒼馬がいつ動くのか。新月までと、あの書状にはあった。月を見上げれば、夜空に細い三日月がかかっている。新月まで、あとどれだけだろう。


 猶予はもうなかった。蒼馬を待つか、逃げるか。そのふたつの選択肢が、雪永の前に横たわっていた。



 雪永は——待つことを選んだ。



 ある夜、雨が激しく降っていた。


 蒼馬が囲炉裏の前に座り、じっと火を見つめていた。いつもなら刀の手入れをするか、罠の仕掛けを繕うか、何かしら手を動かしている男だった。だが、今夜は何もせず、ただ座っていた。


 雪永は、そんな蒼馬の背中を見つめていた。


 広い背中。この背に負われて、あの洞窟から逃げた。あのとき蒼馬は「軽い」と言った。骨と皮ばかりだった自分を、背負って山を駆けた。


 あの背中が——自分を裏切る。


 そう思うと、胸が軋んだ。だが同時に、あの背中であの書状を書いた者のもとへ連れていかれるとは、どうしても想像できなかった。


「雪永」


 不意に、蒼馬が名を呼んだ。振り向かずに。


「なに?」


「おまえに——話さなければならないことがある」


 心臓が跳ねた。だが雪永は、表面上は静かだった。


「聞いてるよ」


 蒼馬はしばらく黙っていた。雨音だけが、小屋を包んでいた。やがて蒼馬は低い声で話し始めた。


「俺は——ただの浪人ではない」


「……知ってる」


 その言葉に、蒼馬は振り向いた。驚いた顔をしていた。


「知ってる、とは」


「あなたが何かを隠していることは、最初からわかっていた。通りかかっただけで、あの龍狩衆の拠点に乗り込む人間はいない」


 蒼馬は唇を引き結んだ。


「それだけじゃない」雪永は続けた。声が震えていたが、止めなかった。「あなたの荷の中にあった書状を——見た」


 蒼馬の顔から、血の気が引いた。


「雪永——」


「混血の龍子を引き渡せ、と書いてあった。——私のことでしょう」


 沈黙が落ちた。雨音が、痛いほど大きく聞こえた。


 蒼馬が、ゆっくりと目を閉じた。そして開いたとき、その目には——諦めのような、そして同時に、どこか解放されたような光があった。


「……そうだ」


 蒼馬は認めた。


「俺は——ある男に命じられて、おまえを探しに来た」


「ある男」


「名は——梶原玄斎かじわらげんさい。加賀の大名に仕える学者だ。だが、表の顔は学者でも、裏では龍に関わるあらゆるものを収集している。龍の骨、龍の鱗、龍が棲んでいたと言われる土地の石——そして、龍の血を引く者」


「私の血が——欲しいということ?」


「おそらく。玄斎は龍の力を人の手に収めることを目論んでいる。龍の血を使って何をするつもりなのかは、俺にもわからん。だが——ろくなことではないだろう」


 雪永は息を呑んだ。また、あの恐怖が蘇る。龍狩衆の洞窟。鞭と焼けた鉄。自分の身体を道具として扱う人間の、無慈悲な目。


「なぜ、そんな男の命に従ったの」


 蒼馬はしばらく答えなかった。そして、ようやく口を開いたとき、その声は擦り切れたように掠れていた。


「俺には……妹がいた」


 雪永は黙った。


「俺と妹は、若狭の漁村で生まれた。両親は早くに死に、俺が妹を育てた。妹は身体が弱く、よく熱を出した。薬が要る。医者が要る。金が要る。俺は剣の腕を買われて、方々の大名に仕えた。だが、仕え先の身分が没収される処分があり、浪人になった。金が尽きかけた頃——玄斎が声をかけてきた」


「妹を人質にしたの」


「人質――というほど直接的ではない。玄斎は妹の治療を買って出た。高名な医師を手配し、高価な薬を与えた。妹の容態は劇的によくなった。だが――代わりに、俺にはひとつの仕事を命じた」


「私を——」


「ああ。越後の山奥に、龍の混血が隠れ住んでいるという情報を得たと。おまえを見つけ出し、玄斎のもとへ連れて来いと。——それが、妹の治療を続ける条件だと」


 蒼馬はそこで言葉を切理、両手で顔を覆った。


「龍狩衆がおまえを見つけたのは——俺が流した情報のせいだ」


 雪永は、全身が凍りつくのを感じた。


「……今なんて」


「玄斎の手の者が、龍狩衆に情報を売ったんだ。それとは知らず、俺がおまえの居場所を探る中で集めた情報が、巡り巡ってあの連中の耳に入った。おまえが龍狩衆に捕まり、拷問を受けたのは——俺の、せいだ」


 雪永は声を失った。


 拷問の記憶が、鮮やかに蘇った。鞭の痛み。焼けた鉄の音。指を折られたときの、あの音。


 それが——蒼馬の「せい」だった。


 蒼馬が助けに来たのも——龍狩衆に先を越されたから。獲物を横取りされないために。


 頭の中で、パズルの断片が組み上がっていく。あの日、洞窟に乗り込んできた蒼馬の目。「白い、髪」と呟いた声。あれは確認だったのだ。自分が「標的」であることの。


 雪永は立ち上がった。身体が震えていた。


「出ていけ」


 声が、自分のものとは思えなかった。


「雪永——」


「出ていけ!」


 叫んでいた。涙が頬を伝っていた。あれほど凍りついていた涙が、今はせきを切ったように溢れ出していた。


 怒りではなかった。悲しみだった。


 蒼馬との日々。薬草を刻んだ穏やかな朝。きじを焼いた夕暮れ。桜の花弁が降りかかる午後。眠れない夜に、黙って火の番をしてくれた背中。


 その全部が——全部、嘘の上に建てられた家のように、崩れていく。


 蒼馬は動かなかった。ただ、膝をついたまま、雪永をまっすぐに見上げていた。


「……すまない」


 雪永は蒼馬を見下ろした。涙で歪んだ視界に、蒼馬の顔が映った。


 泣いていた——。


 蒼馬が。


 あの無表情な、感情を見せない男が。声もなく、だが確かに、目の端から涙を流していた。


「すまない——雪永」


 蒼馬の声が震えていた。


「俺は——おまえを、裏切るつもりだった。最初は。だが——」


 蒼馬は言葉を切り、唇を噛んだ。血が滲んだ。


「おまえと暮らすうちに——わからなくなった。何が正しいのか。妹を守るために、おまえを犠牲にするのか。それが——本当に正しいのか」


「だが、あなたは——まだ迷っているのでしょう」


 雪永の声は、冷たかった。冷たくしなければ、壊れてしまいそうだった。


「妹のことがある限り、あなたは私を玄斎に渡すしかない。違う?」


 蒼馬は答えなかった。


「帰れ。妹のもとへ。——私のことは忘れろ」


 雪永はそう言って、背を向けた。


「頼む——もう少しだけ、考える時間をくれ」


 蒼馬の声が、背中に突き刺さった。


 雪永は振り返らなかった。振り返れば、許してしまう。許せば、またあの温かさに溺れてしまう。そして——また裏切られる。


 だが——蒼馬の声が——あまりにも切実に響いた。


「三日」


 雪永は言った。声が震えていた。


「三日だけ待つ。三日後に——答えを聞かせて。私を玄斎に渡すのか、それとも——」


 言葉が続かなかった。


 それとも——何なのか。自分でもわからなかった。


 蒼馬は静かに立ち上がり、小屋を出ていった。雨の中へ。


 戸が閉まる音を聞いて、雪永は崩れ落ちた。


 蒼馬の足音が遠ざかる。雨音に紛れ、やがて聞こえなくなる。


 ひとりだ。


 また、ひとりだ。


 雪永は囲炉裏の前で、壁に背をつけて座り込んだ。火が、ぼんやりと揺れていた。


 あの庵で、ひとりで火を見つめていた日々を思い出した。火が燃え続ける限り、自分はここにいる——そう思っていた。あのときは、火が消えても構わなかった。自分の命に執着はなかった。


 だが今は——火が消えるのが、怖い。


 蒼馬という火が、消えるのが、こわい。

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