第五章 裏切りの翳(かげ)
五月の末のことだった。その少し前——嵐の夜があった。
雷鳴が山を揺らし、暴風雨が小屋を叩く夜だった。気圧の変化のせいか、それとも嵐が龍の血を騒がせたのか、雪永の身体は異常な熱を帯びていた。
「はあ、っ……」
息が荒くなる。皮膚の下を、灼熱した何かが這い回る感覚。龍の血が暴れている。嵐に呼応するように、体内の力が制御を失おうとしていた。
雪永は囲炉裏の前で、身体を抱いて震えていた。目の前には蒼馬がいる。彼もまた、眠れずに火を見つめていた。
不意に、雷が近くに落ちた。轟音とともに小屋が揺れ、闇の中で火が揺らいだ。
「蒼馬……!」
雪永は思わず蒼馬に手を伸ばしていた。龍の血が、人の温もりを求めている。他者の体温だけが、この暴走を鎮められる——本能的に、そう感じた。
「雪永? どうした、顔が赤いぞ」
「熱い……身体が、熱いの……嵐のせいで、龍の血が……」
雪永は蒼馬の腕にしがみついた。触れた瞬間、蒼馬の体温が雪永の灼けるような熱を少しだけ和らげた。
「……化け物、だと思うでしょう」
雪永は俯いて呟いた。自分の身体が、自分の意志を離れて暴走するこの体質。それこそが、自分を人から隔てるものだ。
蒼馬は黙っていた。だが——逃げなかった。
「じっとしていろ」
蒼馬は低く言うと、雪永の肩に腕を回した。ぎこちなく、だが確かに。雪永の身体を、そっと抱きしめた。
蒼馬の胸に頬が押し当てられる。鼓動が聞こえた。力強く、規則的な音。嵐の中で唯一、落ち着いている音だった。
不思議なことが起きた。蒼馬の体温に触れているうちに、龍の血の暴走が、ゆっくりと鎮まっていったのだ。灼けるような熱が引いていく。代わりに、静かな温もりが全身を満たしていった。
「……大丈夫か」
「——ええ。もう、大丈夫……」
大丈夫ではなかった。龍の血は鎮まったが、別の熱が胸の中に灯っていた。蒼馬の腕の中にいることが、こんなにも心地よいとは。このぬくもりから離れたくないと、心の奥が叫んでいた。
蒼馬もまた、何かを堪えているようだった。抱きしめる腕がわずかに強張り、呼吸がほんの少し乱れている。だが、それ以上のことはしなかった。ただ、嵐が過ぎるまで、雪永を腕の中に抱いていた。
やがて嵐は去った。雷鳴が遠ざかり、雨音が穏やかになっていく。
蒼馬の腕が——ゆっくりと、離れた。
「……すまない」
「謝らないで」
雪永は俯いたまま言った。顔が火のように熱かった。
「——助かった。あなたがいなかったら、どうなっていたか」
蒼馬は何も言わず、囲炉裏に薪をくべた。炎が揺れ、蒼馬の横顔を照らした。その横顔もまた——かすかに赤い気がしたのは、炎のせいだけだっただろうか。
翌朝、目覚めたときには、何もなかったかのように蒼馬は粥を作っていた。だが、あの夜の温もりだけは、雪永の胸に焼き付いて消えなかった。
そして——変化が決定的になったのは、その数日後のことだった。
その日、蒼馬は朝から様子がおかしかった。落ち着きがなく、何度も小屋の外に出ては周囲を見回していた。
「どうした。何を見ているの」
雪永が訊くと、蒼馬はかぶりを振った。
「いや。——獣の気配が、少し」
嘘だ、と雪永は思った。蒼馬が獣の気配でこれほど敏感になることはない。もっと別の——人の気配を警戒しているのだ。
だが、その理由は問わなかった。
午後、蒼馬が山に入った。いつもの狩りと言ったが、夕方になっても戻らなかった。日が暮れ、闇が降りても、蒼馬は帰ってこなかった。
雪永は囲炉裏の前で待った。不安が胸を締め付けたが、山に探しに入るのは危険だった。夜の山は、足元が見えない。
蒼馬が戻ったのは、夜更けだった。
小屋の戸を開けて入ってきた蒼馬は、泥と小枝にまみれていた。長い距離を走ったのか、息が上がっていた。
「蒼馬、どこへ——」
「すまない。遠くまで追いかけてしまった。鹿を」
また嘘だ。雪永にはわかった。蒼馬は鹿を持っていなかった。もっとも、取り逃がしたと言えばそれまでだが——蒼馬の目が、嘘をついている目だった。
雪永は何も言わなかった。温めておいた汁を椀に注ぎ、蒼馬の前に置いた。蒼馬は黙ってそれを受け取り、飲んだ。
その後も、同じようなことが何度か続いた。蒼馬が不意に出かけ、長い時間戻らないこと。戻ったときの、どこか後ろめたそうな顔。嘘とわかる言い訳。
そして——ある夜、雪永は決定的なものを見てしまった。
蒼馬が眠った後、雪永はふと目を覚ました。蒼馬の荷の中から、何かがはみ出しているのに気づいた。小さな紙の包みだった。
見るべきではない。他人の持ち物を勝手に見るなど、恥ずべきことだ。
だが、手が伸びていた。不安が、理性を押しのけた。
紙の包みの中には、書状があった。月明かりの下で読むのは難しかったが、冒頭の文字は読み取れた。
「蒼馬殿——」
「混血の龍子を、我が方へ引き渡されたし——」
手が震えた。
書状には、さらに続きがあった。目を凝らして読んだ。
「期限はすでに過ぎている。これ以上遅延を許すわけにはいかない。次の新月までに引き渡しがなければ、相応の処置を取る——」
相応の処置。それが何を意味するのか、雪永には想像がついた。蒼馬の背中にあった火傷の痕。あれは、逃げようとしたときにつけられたものではないか。蒼馬もまた、縛られているのだ。
混血の龍子。それは——自分のことだ。
雪永は書状を元に戻し、紙の包みを蒼馬の荷に押し込んだ。心臓が破裂しそうなほど鳴っていたが、表面上は何も変わらぬ様子で布に潜り込んだ。
眠れなかった。
蒼馬は——最初から、自分を狙っていたのだ。
通りかかっただけ。嘘だったのだ。蒼馬は龍狩衆から助けたのではない。龍狩衆とは別の誰かの命を受けて、自分を手に入れるために来たのだ。
助けたのは、生かしておく必要があったから。
傷の手当てをしたのも、食事をつくったのも、傍にいたのも——すべて、自分を信頼させるため。油断させるため。そして最終的に、どこかの誰かに引き渡すため。
あの優しさも——。
あの温かさも——。
すべて——嘘だったのか。
雪永は暗闇の中で、唇を噛んだ。血の味がした。
泣きたかった。だが、泣けなかった。涙はとうに枯れたと思っていたのに、枯れてさえいないのだ。ただ、凍りついているだけだった。
蒼馬の寝息が聞こえる。規則正しい呼吸。穏やかな、深い眠り。この男は——自分を裏切ろうとしている男は、こんなにも安らかに眠れるのか。
だが——本当にそうだろうか。
雪永はそっと首を巡らせ、蒼馬の横顔を見た。月明かりが薄く差し込み、蒼馬の顔を照らしている。眠っているときの蒼馬の表情は——起きているときよりも、ずっと疲れて見えた。眉間に皺が刻まれ、口元に力が入っている。まるで、眠りの中でさえ何かと戦っているかのような顔だった。
あの大きな手。自分の傷を丁寧に手当てした手。猪に襲われたとき、震えながら傷を縫った自分の手を、そっと握ってくれた手。あの手の温もりまで嘘だったとは——。
——信じたくない。
だが、書状は本物だ。あの文字は、あの書きぶりは、間違いなく蒼馬宛のものだった。「混血の龍子を引き渡されたし」——その一文が、頭の中で何度も何度も繰り返される。音のない叫びのように。
蒼馬が野苺を持ってきて、何気ない顔で自分の前に置いたこと。雪永が熱を出したとき、夜通し額を冷やしてくれたこと。あれは——全部、任務の一部だったのか。
全部嘘だったなら——なぜ、期限を過ぎてもまだ自分をここに置いているのか。
書状には「期限はすでに過ぎている」とあった。つまり、蒼馬はすでに約束を破っている。自分を引き渡すはずの期限を、過ぎさせている。それは——なぜか。
雪永は天井の暗がりを見つめた。答えが見つからなかった。あるいは、答えは見えているのに、それを信じることが怖いのかもしれなかった。
蒼馬が寝返りを打った。その拍子に、蒼馬の手が雪永のほうに伸びた。無意識の動作だった。だが、その指先は——雪永の布の端に触れて、止まった。まるで、眠りの中でさえ雪永を探しているかのように。
その仕草を見たとき、雪永の胸の奥で何かが——かすかに、だが確かに——動いた。
翌朝、蒼馬がいつものように火を起こし、粥をつくった。
「雪永、飯だ」
その声は——変わらなかった。優しくはないが、確かにそこにある、あの穏やかな声。
雪永は起き上がり、蒼馬の前に座った。蒼馬が差し出す椀を受け取り、粥を口に運んだ。
味がしなかった。
だが雪永は表情を変えず、静かに食べ続けた。
何も知らないふりをした。
それから数日、雪永は普段通りに過ごした。薬草を刻み、炊事をし、蒼馬と言葉を交わした。だが、心の中では嵐が渦巻いていた。
逃げるべきだ。
理性はそう叫んでいた。蒼馬が誰の命で動いているのかはわからないが、引き渡された先にどんな運命が待っているかは、想像がつく。龍狩衆のような拷問か、あるいは——もっと恐ろしいことか。
だが——。
雪永は逃げなかった。
なぜなのか、自分でもうまく説明できなかった。恐怖はある。裏切られた怒りもある。だが、それ以上に——。
あの温かさが、嘘だったとは思えなかったのだ。
蒼馬が猪に襲われた夜、血まみれの手で雪永の手を握った。あの温かさは、演技だったのか。雪永が泣いたとき、黙って火の番をしていた。あの沈黙は、計算だったのか。
ふきのとうを食べて顔をしかめたあの表情は。ぎこちないうぐいすの鳴き声に、「そのうち上手くなる」と言ったあの声は。
演技で、あんなことができるのだろうか。
雪永の中で、ふたつの想いが激しくぶつかり合っていた。
蒼馬を信じたい自分と、信じてはならぬと叫ぶ自分。
このまま黙っていれば、いつか蒼馬は動く。書状の主が、しびれを切らして催促するだろう。そのとき蒼馬はどうする。雪永を縛り上げて、引き渡すのか。
それとも——。
雪永はふと思った。蒼馬が距離を置くようになったのは、猪に襲われた夜の後からだった。あのとき、蒼馬は何かを感じ、そして——迷い始めたのではないか。
任務と感情のあいだで。
命令と、この穏やかな日々のあいだで。
だとすれば——蒼馬もまた、苦しんでいるのではないか。
雪永は、ひとつの決意をした。
逃げない。
問い詰めもしない。
ただ、このまま——蒼馬の傍にいる。
蒼馬が選ぶまで。
自分を裏切るのか、それとも——自分と生きるのか。
その選択を、蒼馬自身にさせる。
それは賭けだった。命を賭けた、危うい賭け。だが雪永には、それしかなかった。なぜなら——この絆が、雪永にとって最後の絆だったからだ。
母を失い、父を失い、何十年もひとりで生きてきた。人に追われ、恐れられ、世界の隅に追いやられてきた。そして、初めてできた絆が——これだ。
嘘かもしれない。偽りかもしれない。
だが、もしわずかでも本物の部分があるなら——。
雪永は、それを手放したくはなかった。




