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龍と人の末裔  作者: 東雲 紅葉


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第一章 狩られる者

 異変は、二月きさらぎの終わりに訪れた。


 その年の冬は、例年にない暖かさだった。雪解けが早く、二月の半ばにはもう、谷川の氷が緩み始めていた。雪永はそれを不吉な兆しだと感じていた。雪が早く解ければ、山道が通れるようになるのも早い。つまり、人が来る可能性がある。


 案の定だった。


 最初に気づいたのは、獣たちの様子がおかしくなったことだ。谷間に棲む兎たちが、一斉に北へ移動し始めた。鴉が空を旋回し、甲高く鳴き続けた。山の気配が、何かを警告していた。


 人が来る——。


 雪永は庵の中で身を固くした。逃げるべきだ。荷物をまとめて、もっと奥の山へ入るべきだ。だが、冬の間に蓄えた薬草も食糧も、ここに置いていくわけにはいかない。それらがなければ、春までもたない。


 それに——何十年も逃げ続けてきた。もう、疲れた。


 どこまで逃げればいいのだろう。この国の果てまで行ったとしても、いつかはまた見つかる。白い髪と紅い目。この印がある限り、雪永はどこにも隠れられない。


 迷っているうちに、遅くなった。


 庵の周囲に、幾つもの足音が近づいてきたのは、夜明け前のことだった。


 雪永は囲炉裏の火を消し、戸板の隙間から外を窺った。松明たいまつの灯りが、白い雪原の上にいくつも揺れている。十人か、あるいはそれ以上。統一された衣装に、腰の刀。そして——背中に描かれた紋様。


 蛇を貫く矢。


 龍狩衆の紋だった。


 心臓が凍りついた。


 あの日の記憶が、津波のように押し寄せる。松明の灯り。刀の煌めき。白い雪の上に広がる赤い血。父の倒れた姿。母の咆哮。


 ——逃げなさい。


 母の声が蘇る。だが、身体が動かない。恐怖が、全身を痺れさせていた。


「いるぞ」


 男の声がした。低く、冷たい。


「煙の跡がある。まだ温かい。中にいる」


 戸が蹴破られた。


 雪永は本能的に身を翻し、裏口から飛び出した。雪の上を裸足で駆ける。冷たさを感じる余裕もなかった。杉林の中に逃げ込み、木々の間を縫うように走る。だが、追手は訓練された者たちだった。雪上の足跡を辿り、あっという間に距離を詰めてくる。


「まて! 化け物が!」


 矢が風を切って飛んできた。一本が、雪永の肩をかすめた。痛みに顔を歪めたが、足は止めなかった。


 だが、二本目の矢は太腿を貫いた。


 雪永は雪の中に倒れ込んだ。白い雪が、紅く染まっていく。立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。


「動くな」


 足音が近づき、雪永を取り囲んだ。松明の灯りが頭上から降り注ぎ、この暗い森の中に不自然な明るさをつくり出す。


 雪永は歯を食いしばって顔を上げた。


 龍狩衆の男たちが、輪になって立っていた。先頭に立つのは、四十がらみの男だった。鋭い目つきに、頬にかけて走る古い刀傷。左腕がない。袖が空しく揺れている。


「白い髪、紅い目か」


 男が低く呟いた。まるで獲物の品定めをするかのような、冷たい声だった。


「間違いねえ。龍の混血だ。報告通りだな」


 報告。誰かが、雪永の存在を知らせたのだ。三年間、ここに隠れていたことが、どこかから漏れた。


「殺すか、与兵衛殿よへえどの


 部下のひとりが訊いた。


「まだだ」


 与兵衛と呼ばれた男は、雪永の前にしゃがみ込んだ。松明の灯りが、その顔を下から照らし、陰影を深くしている。


「まず、聞きたいことがある。——この辺りに、龍はいるか」


 雪永は唇を噛んだ。答えなかった。


「黙るか。まあいい。混血の口をこじ開ける方法なら、いくらでもある」


 与兵衛は立ち上がり、部下たちに顎をしゃくった。


「連れていけ。例の場所だ」


 雪永は縄で縛られ、目隠しをされた。猿轡さるぐつわを噛まされ、引きずるようにして山道を運ばれた。脚の矢傷が、一歩ごとに灼けるように痛んだ。血が雪の上に点々と赤い足跡を残した。


 どれほど歩かされただろう。やがて足元が土に変わり、湿った空気を感じた。洞穴のようだった。目隠しを外されると、松明の灯りに照らされた岩壁が見えた。天然の洞窟を、龍狩衆が拠点として使っているらしい。奥に幾つかの小部屋が設えてあり、鍛冶場のようなものもあった。


 雪永は小部屋のひとつに投げ込まれた。


 湿った土の地面に、雪永は這いつくばった。太腿の傷が熱を持って疼いている。だが、それよりも恐ろしい気配が、背後から迫っていた。


「剥げ」


 与兵衛の短い命令が飛んだ。

 

 男たちの手が、雪永の着物に伸びた。抵抗しようとしたが、傷ついた足では叶わなかった。荒々しい手つきで帯が解かれ、着物が引き裂かれるような音を立てて剥ぎ取られた。


 冷たい空気が、雪永の肌を刺した。薄い襦袢一枚の姿で、男たちの視線に晒される。


「ほう……」


 誰かが下卑た声を漏らした。


「龍の末裔たあ言っても、見た目はただの小娘だな」


「鱗はねえのか。尻尾は」


 男たちの手が、雪永の腕を引き、背中を調べ、髪を掴んで顔を覗き込んだ。獣を品定めするような無遠慮な手つきだった。人として見ていないのだ——道具として、あるいは戦利品として。


「やめて……!」


 雪永は悲鳴を上げたが、すぐに頬を殴られた。鉄の味が口の中に広がる。


「動くな、化け物」


 男の一人が、雪永の両腕を背中にねじり上げた。別の男が、雪永の白い髪を掴み、松明の灯りにかざした。


「この髪の色、間違いなく龍の血だ。いい獲物だぜ」


 男たちは代わる代わる、雪永を玩具のように弄んだ。蹴り、突き飛ばし、嘲笑った。化け物と呼びながら、その白い肌に拳や張り手を浴びせた。雪永はただ、歯を食いしばって耐えた。母の言葉を思い出しながら。


 ——生きなさい。


 だが、これは死ぬよりも辛い。


 ひとしきり暴力を振るわれた後、雪永は手足を太い柱に縛られ、身動きが取れなくなった。自身の血と泥にまみれて。


 矢は乱雑に引き抜かれた。太腿から噴き出す血を、汚れた布で乱暴に塞がれただけだった。治療ではない。尋問が終わるまで死なせないためだ。


 与兵衛が再び姿を現したのは、それからしばらく経ってからだった。


「さて、改めて聞く。龍はどこにいる」


 雪永は黙ったままだった。


「おまえの母親は龍だったな」


 与兵衛の言葉に、雪永の身体が強ばった。


「四十年前——いや、もっと前か。越後の山で白銀の龍が出たという話がある。龍狩衆が追い詰めたが、龍は嵐を呼んで雪崩を起こし、衆もろとも山ひとつ潰した。生き残りはわずか三人。俺は——そのときはまだ小僧だったが——二度目の討伐に加わった。だが、龍の死骸は見つからなかった。代わりに見つけたのは、人の男の骨と、子供の足跡だけだ」


 雪永は息を呑んだ。


「おまえだろう。あの足跡の主は」


 与兵衛が一歩近づいた。


「混血は珍しい。龍と人の間に子ができること自体、数百年に一度あるかないかだ。おまえの身体には龍の力が流れている。その力がどの程度のものか——それを知りたい者がいる」


「……誰」


 雪永がようやく声を発した。乾いた唇から、掠れた声が漏れた。


「それは答えられんな」与兵衛は薄く笑った。「ただ、おまえが素直に話せば、楽にしてやる。龍の居場所、おまえの持つ力の正体。それだけ話せばいい」


「私に……力などない」


 それは嘘ではなかった。雪永は龍の血を引いてはいるが、母のように嵐を呼ぶことも、炎を吐くこともできない。人よりも丈夫で、傷の治りが早く、寿命が長い——それだけだ。それは「力」と呼ぶには、あまりにも小さなものだった。


 だが、与兵衛は信じなかった。


「嘘をつくな。混血には必ず龍の力が宿る。そう古文書にはある」


「古文書に……何が書いてあろうと……」


「まあいい」与兵衛は背を向けた。「痛みが教えてくれるだろう」


 それから始まったことを、雪永は思い出したくはなかった。


 鞭。水責め。焼けた鉄。爪を剥がす。指を折る。


 彼は雪永を柱に縛り付けたまま、冷徹な目でその身体を観察した。


「混血の身体的特徴……興味深い」


 与兵衛は雪永の腕を取り、皮膚を爪で引っ掻いた。赤い線が走り、すぐに血が滲む。その血を、松明の灯りにかざして見た。


「血の色が常人より濃い。やはり、龍の血が混じっている」


 次に、背中を調べた。鱗がないか確かめるように、指先で背骨に沿って一本一本なぞっていく。まるで獣の毛並みを検分する家畜商のような、無機質な手つきだった。


「鱗はないか。だが——」


 彼は雪永の白い髪を掴み、乱暴に引き寄せた。松明の灯りを近づけ、瞳の奥を覗き込む。


「この瞳の紅さ。常人にはありえん色だ。虹彩が龍のそれに近い」


 雪永は歯を食いしばりながら顔を逸らそうとしたが、髪を掴む手が許さなかった。


「やめて……」


 与兵衛は構わず、刃物で雪永の指先を切り、滲んだ血を白い布に染み込ませた。傷の治りを観察するためだった。人なら一日かかる傷が、半刻もすれば塞がり始める——それを記録しようというのだ。


「化け物でも、痛みは感じるのか。面白い」


 彼は雪永を実験動物として扱った。痛みに対する反応、傷の治癒速度、寒さへの耐性。すべてを冷徹に記録していく。そこに慈悲はなく、ただ龍の血がもたらす特異性への、歪んだ学究的好奇心だけがあった。


 雪永は涙を流しながら、何度も何度も意識を手放しかけた。自尊心を引き裂かれるような、深い屈辱の中で。


 暗い洞窟の中では、時間の感覚が薄れていく。


 痛みに意識が朦朧としていく中で、雪永は考えていた。


 なぜ自分は生きているのだろう。


 母は死んだ。父は殺された。自分には居場所もなく、人に受け入れられることもない。逃げて、隠れて、それでもまた見つかって。痛めつけられて。


 もう——。


 いいのではないか。


 終わりにしても。


 意識が遠のいていく中で、雪永は母の声を聞いた気がした。


 ——生きなさい。


 だが、もう——。


 ——生きなさい、雪永。


 母の声は、いつもと同じだった。優しく、だが毅然とした、あの声。雪永が幼い頃、眠れない夜に子守唄の代わりに心に直接語りかけてくれた、あの声。龍の言葉で紡がれた、古い古い物語。海の底に眠る龍の歌。山の頂に吹く風の物語。


 ——おかあさま。もう、苦しいのです。


 返事はなかった。ただ、暗闇の中に、母の鱗のきらめきが見えた気がした。それも、すぐに消えた。


 意識が途切れた。

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