表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
龍と人の末裔  作者: 東雲 紅葉


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/10

終章 白と紅

 祝言などという大層なものは、なかった。


 寺も神社もないこの山奥に、式を挙げる場所はない。媒酌人ばいしゃくにんもいなければ、祝ってくれる親族もいない。世間から見れば、ふたりはどこまでもただの逃亡者だった。


 だが、それでよかった。


 月の美しい夜を選んで、蒼馬が小さな杯をふたつ用意した。どこで手に入れたのか、ひとつは素朴な木の杯で、もうひとつは欠けた瀬戸物だった。


 山の清水を汲み、それを酒の代わりにした。


 小屋の前に出て、月明かりの下に並んで座った。谷の向こうに、雪を残した山の稜線が、月光を浴びて白く光っていた。虫の声が、静かに夜を満たしている。


三三九度さんさんくどの真似事くらいは、しようと思ったんだが——」


 蒼馬が杯を見つめて言った。


「酒がない」


 雪永は笑った。


「水でいい」


「味気ないだろう」


「酒があったところで、あなたは顔が赤くなるだけよ」


「……なぜそれを」


「前に一度、薬酒を煎じたとき、少し舐めただけで耳まで赤くなっていた」


 蒼馬がわずかに目を逸らした。月明かりの中でも、耳が赤くなっているのがわかった。


 雪永はまた笑った。


 ふたりは向かい合い、杯に水を注いだ。作法も何もあったものではなかったが、気持ちだけは本物だった。


 蒼馬が杯を傾ける。雪永が杯を受ける。


「蒼馬」


「何だ」


「あなたに——名乗っていなかったことがある」


 蒼馬が首を傾げた。


「雪永は——母がくれた名。龍の言葉で、『雪の中の永遠』という意味がある。母は私に長い命を願ってくれた。この雪深い山の中で、永く生きよと」


 雪永は杯を掲げた。月の光が水面に映り、小さな月が杯の中に揺れた。


「だけど——今なら、もうひとつの意味があるように思える」


「もうひとつの」


「雪のように白い日々が、永く続くように。——あなたと、ともに」


 蒼馬は何も言わなかった。ただ、自分の杯を雪永の杯にそっと合わせた。ふたつの杯がかちりと鳴った。小さな音だった。だが、それがこの谷間に響いたとき、雪永には——世界が祝福してくれたように聞こえた。


 水を飲んだ。冷たく、澄んだ水だった。酒ではない。だが、その冷たさが胸の奥まで浸み渡り、そこにあった熱いものと混じり合って、不思議な温かさに変わった。


 これが、契りなのかもしれない。寺も神社もない。仲人も親族もいない。だが、月と星と山と川が見届けてくれている。それで十分だと、雪永は思った。


「……雪永」


 蒼馬が、熱っぽい瞳で雪永を見つめた。


 言葉はいらなかった。


 蒼馬の手が、雪永の頬にそっと触れた。


 指先が、白い髪を耳の後ろへ送る。その仕草が、言葉よりも雄弁だった。


「綺麗だ……」


 蒼馬が溜息のように漏らした。月の光に照らされた、白い髪と紅い瞳。この世のものとは思えないほどの美しさだった。だが、蒼馬にとって、雪永はこの世のものだった。この手で触れられる、温かい、生きている人だった。


 雪永は蒼馬の手に、自分の手を重ねた。


「蒼馬も——」


 雪永の指が、蒼馬の頬に走る刀傷をそっとなぞった。額の汗を拭い、こわばった眉間に、指先で優しく触れた。


「蒼馬も——美しいよ」


 蒼馬がわずかに笑い、そして——静かに唇を重ねた。


 甘く、長い口づけだった。月明かりの中で、ふたりの影がひとつに溶け合う。


 唇が離れたとき、蒼馬が囁いた。


「雪永……愛している」


 蒼馬が初めて、言葉にしてくれた。


「私も……私も愛している、蒼馬……」


 小屋に戻り、ふたりは初めて同じ布団に入った。蒼馬の腕に抱かれ、雪永はその胸に頬を寄せた。蒼馬の心臓の鼓動が、耳に直接伝わってくる。力強く、温かく、確かなその音。


 蒼馬の手が、雪永の髪をゆっくりと梳いた。白い髪が、蒼馬の指の間をさらさらと流れていく。


「温かいな——」


 蒼馬が呟いた。


「ええ」


 温かかった。身体だけではない。胸の奥が、静かに、深く、温かかった。


 互いの鼓動がひとつになるまで。何度も名前を呼び合い、愛を確かめ合った。


 ——おかあさま。おとうさま。


 雪永は心の中で語りかけた。


 ——私は、人を見つけました。人と龍のあいだで生まれた私を、受け入れてくれる人を。


 ——あなたたちが、そうであったように。


 窓から空を見上げた。月の傍に、ひとつだけ明るい星があった。


 あれは母だろうか——と、雪永は思った。根拠のない、子供のような想像だ。だが、あの星が瞬いたとき、胸の奥が温かくなった。


「寒くないか」


「寒くない」


「嘘をつけ。手が冷たい」


 蒼馬が雪永の手を取り、自分の手で包んだ。大きな、荒い手のひら。薪割りと狩りで鍛えられた、武骨な手。だが——。


 温かかった。


 いつも、温かかった。


「蒼馬。ひとつ——約束してほしいことがある」


「何だ」


「私は——おそらく、あなたより長く生きる。龍の血のせいで。あなたが老いても、私はこのままかもしれない」


 蒼馬は少し考えてから、言った。


「それが、どうした」


「怖くない? 自分だけが老いていくことが」


「怖くない。——おまえがそこにいるなら、構わん」


「けど——」


「雪永」


 蒼馬が、雪永の手を強く握った。


「俺は——おまえを残して先に逝くかもしれん。それは、どうしようもないことだ。だが、俺がいる間は——おまえを、ひとりにはしない。それだけは、約束する」


 雪永は唇を噛んだ。涙がまた溢れそうになったが、今度はこらえた。


「……十分」


「ああ」


「十分よ——蒼馬。それで十分」


 ふたりは黙って、月を見ていた。


 人と龍は、交われば悲劇しか生まれない——そう、世間は言う。


 だが——この谷間の小屋で、ふたりの間に生まれたものは、悲劇ではなかった。


 傷だらけで、歪で、危うい。世間に認められることもなく、祝われることもない。


 だが——確かに、温かいものだった。


 雪永は蒼馬の肩に頭をもたせかけた。蒼馬の腕が、自然に雪永の肩を抱いた。


 月明かりの中で、白い髪と黒い髪が混じり合った。風が蒼馬の残り香を運び、雪永の白い髪を揺らした。


 雪永はそっと、蒼馬の腕に触れた。小さな、かすかな動作だった。だが蒼馬は気づいて、雪永の手の上に、自分の手を重ねた。


「雪永」


「何?」


「……何でもない。ただ——呼びたかっただけだ」


 雪永は笑った。胸が熱くなった。名前を呼びたかっただけ。たったそれだけのことが、こんなにも愛おしいとは。


「蒼馬」


 雪永も、呼び返した。


「何だ」


「何でもない」


 蒼馬が、わずかに笑った。


 月明かりの中で、白い髪が風に揺れた。あの日、嵐の中をひとり逃げた少女は——もう、ひとりではなかった。


 谷川がさらさらと流れている。虫の声が夜を満たしている。月が空をゆっくりと渡っていく。


 すべてが——穏やかだった。


 この穏やかさが、永遠に続くとは思わない。玄斎がいつ動くかわからない。龍狩衆の影はまだ消えていない。人と龍の対立は、この国のどこかでなお続いている。


 だが——今夜だけは。


 今夜だけは、この谷間に、ふたりだけの世界があった。


 白い髪と、黒い髪。


 紅い瞳と、闇色の瞳。


 龍の娘と、人の男。


 交わるはずのないふたつの世界から来たふたりが、肩を寄せ合い、同じ月を見上げている。


 ——おかあさま。


 雪永は心の中で呟いた。


 ——私は、生きています。


 ——あなたが願った通りに。


 ——いいえ——あなたが願った以上に。


 ——しあわせです。


 風が吹いた。山の向こうから、杉の香りを運んできた。


 雪永は目を閉じた。蒼馬の温もりに包まれながら。


 この温もりがある限り——生きていける。


 どんな嵐が来ても。


 どんな暗闇が来ても。


 この温もりが——。


 消えない限り。


 ……消えない限り。



---


 翌朝、雪永が目を覚ますと、蒼馬はすでに起きていた。


 囲炉裏に火を起こし、粥をつくっている。いつもの朝だった。湯気が立ち上り、味噌の香りが小屋の中に漂っている。蒼馬の背中が囲炉裏の火に照らされ、影が壁に大きく揺れている。


「おはよう」


 雪永が声をかけると、蒼馬が振り向いた。その表情が——昨日までとは違っていた。目元の険しさが消え、代わりに、穏やかな何かがそこにあった。


「ああ——おはよう」


 何でもない。何でもない朝だ。


 だが——蒼馬の「おはよう」が、昨日までとは違って聞こえた。


 ほんの少しだけ、温かく。


 ほんの少しだけ、柔らかく。


 雪永は微笑んだ。


 ——ああ。これが、夫婦というものなのかもしれない。


 小屋の外では、朝の光が谷間を照らし始めていた。鳥たちが目覚めの歌を歌い始めている。谷川が朝露を集めて、きらきらと光りながら流れていく。


 白い髪が朝の光に輝き、紅い瞳がその光を受け止めた。


 雪永は立ち上がり、蒼馬の隣に座った。


 蒼馬が黙って椀を差し出した。雪永がそれを受け取った。


 ふたりは並んで、朝の粥を食べた。


 何も特別なことはない。ただの朝食だ。


 だが——その「ただの朝食」を、ふたりで迎えられることが。


 それが——。


 何よりも、何よりも——。


 尊かった。


 食事を終えて、雪永は椀を洗いに谷川へ出た。冷たい水で椀を磨いていると、蒼馬が後ろからやってきた。


「今日は——山の上の沢まで行ってみないか。そこに、いい薬草がある」


 雪永は少し驚いた。蒼馬が自分から誘うのは珍しい。いつもは雪永が薬草採りに行くと言えば、蒼馬が黙ってついてくるという形だった。


「……ええ、行きましょう」


 雪永は頷いた。


 ふたりは並んで山道を登った。以前よりも、少しだけ近い距離で。時折、蒼馬が手を差し伸べて、雪永が岩を登るのを助けた。雪永はその手を取り、上に登った。手を離すのが、少しだけ惜しかった。


 沢に着くと、そこには岩菖蒲いわしょうぶが群生していた。岩の間から湧き出す水に寄り添うように、小さな花が咲いている。雪永は膝をついて、掌でそっと花を触れた。


「これが岩菖蒲か」


「胃の薬になる。乾燥させて煎じると、胃の痛みを和らげるのよ」


「詳しいな」


「何十年も、それで生きてきたから」


 雪永は花を摘みながら、少しだけ照れくさそうに笑った。蒼馬はその様子を見て、何も言わずに、だが確かに温かい目で見ていた。


 帰り道、谷川に沿って歩いていたとき、蒼馬が言った。


「この谷は、いい場所だ」


「そうね」


「俺が知る中で、一番いい」


 雪永は蒼馬を見上げた。蒼馬は真っ直ぐ前を見て歩いていたが、その耳の先がわずかに赤いのを、雪永は見逃さなかった。


「私も——そう思う」


 雪永はそう言って、小屋へ続く道を歩いた。


 小屋の煙突から、細い煙が上がっている。囲炉裏の火は、まだ燃えているだろう。あの小屋に帰れば、温かい火がある。そして、その火の傍に、蒼馬がいる。


 それだけで——雪永は、もう十分だった。


 帰ろう。


 雪永はそう思って、足を速めた。蒼馬に追いついて、その隣を歩いた。


 ——帰ろう。私たちの、家に。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ