終章 白と紅
祝言などという大層なものは、なかった。
寺も神社もないこの山奥に、式を挙げる場所はない。媒酌人もいなければ、祝ってくれる親族もいない。世間から見れば、ふたりはどこまでもただの逃亡者だった。
だが、それでよかった。
月の美しい夜を選んで、蒼馬が小さな杯をふたつ用意した。どこで手に入れたのか、ひとつは素朴な木の杯で、もうひとつは欠けた瀬戸物だった。
山の清水を汲み、それを酒の代わりにした。
小屋の前に出て、月明かりの下に並んで座った。谷の向こうに、雪を残した山の稜線が、月光を浴びて白く光っていた。虫の声が、静かに夜を満たしている。
「三三九度の真似事くらいは、しようと思ったんだが——」
蒼馬が杯を見つめて言った。
「酒がない」
雪永は笑った。
「水でいい」
「味気ないだろう」
「酒があったところで、あなたは顔が赤くなるだけよ」
「……なぜそれを」
「前に一度、薬酒を煎じたとき、少し舐めただけで耳まで赤くなっていた」
蒼馬がわずかに目を逸らした。月明かりの中でも、耳が赤くなっているのがわかった。
雪永はまた笑った。
ふたりは向かい合い、杯に水を注いだ。作法も何もあったものではなかったが、気持ちだけは本物だった。
蒼馬が杯を傾ける。雪永が杯を受ける。
「蒼馬」
「何だ」
「あなたに——名乗っていなかったことがある」
蒼馬が首を傾げた。
「雪永は——母がくれた名。龍の言葉で、『雪の中の永遠』という意味がある。母は私に長い命を願ってくれた。この雪深い山の中で、永く生きよと」
雪永は杯を掲げた。月の光が水面に映り、小さな月が杯の中に揺れた。
「だけど——今なら、もうひとつの意味があるように思える」
「もうひとつの」
「雪のように白い日々が、永く続くように。——あなたと、ともに」
蒼馬は何も言わなかった。ただ、自分の杯を雪永の杯にそっと合わせた。ふたつの杯がかちりと鳴った。小さな音だった。だが、それがこの谷間に響いたとき、雪永には——世界が祝福してくれたように聞こえた。
水を飲んだ。冷たく、澄んだ水だった。酒ではない。だが、その冷たさが胸の奥まで浸み渡り、そこにあった熱いものと混じり合って、不思議な温かさに変わった。
これが、契りなのかもしれない。寺も神社もない。仲人も親族もいない。だが、月と星と山と川が見届けてくれている。それで十分だと、雪永は思った。
「……雪永」
蒼馬が、熱っぽい瞳で雪永を見つめた。
言葉はいらなかった。
蒼馬の手が、雪永の頬にそっと触れた。
指先が、白い髪を耳の後ろへ送る。その仕草が、言葉よりも雄弁だった。
「綺麗だ……」
蒼馬が溜息のように漏らした。月の光に照らされた、白い髪と紅い瞳。この世のものとは思えないほどの美しさだった。だが、蒼馬にとって、雪永はこの世のものだった。この手で触れられる、温かい、生きている人だった。
雪永は蒼馬の手に、自分の手を重ねた。
「蒼馬も——」
雪永の指が、蒼馬の頬に走る刀傷をそっとなぞった。額の汗を拭い、こわばった眉間に、指先で優しく触れた。
「蒼馬も——美しいよ」
蒼馬がわずかに笑い、そして——静かに唇を重ねた。
甘く、長い口づけだった。月明かりの中で、ふたりの影がひとつに溶け合う。
唇が離れたとき、蒼馬が囁いた。
「雪永……愛している」
蒼馬が初めて、言葉にしてくれた。
「私も……私も愛している、蒼馬……」
小屋に戻り、ふたりは初めて同じ布団に入った。蒼馬の腕に抱かれ、雪永はその胸に頬を寄せた。蒼馬の心臓の鼓動が、耳に直接伝わってくる。力強く、温かく、確かなその音。
蒼馬の手が、雪永の髪をゆっくりと梳いた。白い髪が、蒼馬の指の間をさらさらと流れていく。
「温かいな——」
蒼馬が呟いた。
「ええ」
温かかった。身体だけではない。胸の奥が、静かに、深く、温かかった。
互いの鼓動がひとつになるまで。何度も名前を呼び合い、愛を確かめ合った。
——おかあさま。おとうさま。
雪永は心の中で語りかけた。
——私は、人を見つけました。人と龍のあいだで生まれた私を、受け入れてくれる人を。
——あなたたちが、そうであったように。
窓から空を見上げた。月の傍に、ひとつだけ明るい星があった。
あれは母だろうか——と、雪永は思った。根拠のない、子供のような想像だ。だが、あの星が瞬いたとき、胸の奥が温かくなった。
「寒くないか」
「寒くない」
「嘘をつけ。手が冷たい」
蒼馬が雪永の手を取り、自分の手で包んだ。大きな、荒い手のひら。薪割りと狩りで鍛えられた、武骨な手。だが——。
温かかった。
いつも、温かかった。
「蒼馬。ひとつ——約束してほしいことがある」
「何だ」
「私は——おそらく、あなたより長く生きる。龍の血のせいで。あなたが老いても、私はこのままかもしれない」
蒼馬は少し考えてから、言った。
「それが、どうした」
「怖くない? 自分だけが老いていくことが」
「怖くない。——おまえがそこにいるなら、構わん」
「けど——」
「雪永」
蒼馬が、雪永の手を強く握った。
「俺は——おまえを残して先に逝くかもしれん。それは、どうしようもないことだ。だが、俺がいる間は——おまえを、ひとりにはしない。それだけは、約束する」
雪永は唇を噛んだ。涙がまた溢れそうになったが、今度はこらえた。
「……十分」
「ああ」
「十分よ——蒼馬。それで十分」
ふたりは黙って、月を見ていた。
人と龍は、交われば悲劇しか生まれない——そう、世間は言う。
だが——この谷間の小屋で、ふたりの間に生まれたものは、悲劇ではなかった。
傷だらけで、歪で、危うい。世間に認められることもなく、祝われることもない。
だが——確かに、温かいものだった。
雪永は蒼馬の肩に頭をもたせかけた。蒼馬の腕が、自然に雪永の肩を抱いた。
月明かりの中で、白い髪と黒い髪が混じり合った。風が蒼馬の残り香を運び、雪永の白い髪を揺らした。
雪永はそっと、蒼馬の腕に触れた。小さな、かすかな動作だった。だが蒼馬は気づいて、雪永の手の上に、自分の手を重ねた。
「雪永」
「何?」
「……何でもない。ただ——呼びたかっただけだ」
雪永は笑った。胸が熱くなった。名前を呼びたかっただけ。たったそれだけのことが、こんなにも愛おしいとは。
「蒼馬」
雪永も、呼び返した。
「何だ」
「何でもない」
蒼馬が、わずかに笑った。
月明かりの中で、白い髪が風に揺れた。あの日、嵐の中をひとり逃げた少女は——もう、ひとりではなかった。
谷川がさらさらと流れている。虫の声が夜を満たしている。月が空をゆっくりと渡っていく。
すべてが——穏やかだった。
この穏やかさが、永遠に続くとは思わない。玄斎がいつ動くかわからない。龍狩衆の影はまだ消えていない。人と龍の対立は、この国のどこかでなお続いている。
だが——今夜だけは。
今夜だけは、この谷間に、ふたりだけの世界があった。
白い髪と、黒い髪。
紅い瞳と、闇色の瞳。
龍の娘と、人の男。
交わるはずのないふたつの世界から来たふたりが、肩を寄せ合い、同じ月を見上げている。
——おかあさま。
雪永は心の中で呟いた。
——私は、生きています。
——あなたが願った通りに。
——いいえ——あなたが願った以上に。
——しあわせです。
風が吹いた。山の向こうから、杉の香りを運んできた。
雪永は目を閉じた。蒼馬の温もりに包まれながら。
この温もりがある限り——生きていける。
どんな嵐が来ても。
どんな暗闇が来ても。
この温もりが——。
消えない限り。
……消えない限り。
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翌朝、雪永が目を覚ますと、蒼馬はすでに起きていた。
囲炉裏に火を起こし、粥をつくっている。いつもの朝だった。湯気が立ち上り、味噌の香りが小屋の中に漂っている。蒼馬の背中が囲炉裏の火に照らされ、影が壁に大きく揺れている。
「おはよう」
雪永が声をかけると、蒼馬が振り向いた。その表情が——昨日までとは違っていた。目元の険しさが消え、代わりに、穏やかな何かがそこにあった。
「ああ——おはよう」
何でもない。何でもない朝だ。
だが——蒼馬の「おはよう」が、昨日までとは違って聞こえた。
ほんの少しだけ、温かく。
ほんの少しだけ、柔らかく。
雪永は微笑んだ。
——ああ。これが、夫婦というものなのかもしれない。
小屋の外では、朝の光が谷間を照らし始めていた。鳥たちが目覚めの歌を歌い始めている。谷川が朝露を集めて、きらきらと光りながら流れていく。
白い髪が朝の光に輝き、紅い瞳がその光を受け止めた。
雪永は立ち上がり、蒼馬の隣に座った。
蒼馬が黙って椀を差し出した。雪永がそれを受け取った。
ふたりは並んで、朝の粥を食べた。
何も特別なことはない。ただの朝食だ。
だが——その「ただの朝食」を、ふたりで迎えられることが。
それが——。
何よりも、何よりも——。
尊かった。
食事を終えて、雪永は椀を洗いに谷川へ出た。冷たい水で椀を磨いていると、蒼馬が後ろからやってきた。
「今日は——山の上の沢まで行ってみないか。そこに、いい薬草がある」
雪永は少し驚いた。蒼馬が自分から誘うのは珍しい。いつもは雪永が薬草採りに行くと言えば、蒼馬が黙ってついてくるという形だった。
「……ええ、行きましょう」
雪永は頷いた。
ふたりは並んで山道を登った。以前よりも、少しだけ近い距離で。時折、蒼馬が手を差し伸べて、雪永が岩を登るのを助けた。雪永はその手を取り、上に登った。手を離すのが、少しだけ惜しかった。
沢に着くと、そこには岩菖蒲が群生していた。岩の間から湧き出す水に寄り添うように、小さな花が咲いている。雪永は膝をついて、掌でそっと花を触れた。
「これが岩菖蒲か」
「胃の薬になる。乾燥させて煎じると、胃の痛みを和らげるのよ」
「詳しいな」
「何十年も、それで生きてきたから」
雪永は花を摘みながら、少しだけ照れくさそうに笑った。蒼馬はその様子を見て、何も言わずに、だが確かに温かい目で見ていた。
帰り道、谷川に沿って歩いていたとき、蒼馬が言った。
「この谷は、いい場所だ」
「そうね」
「俺が知る中で、一番いい」
雪永は蒼馬を見上げた。蒼馬は真っ直ぐ前を見て歩いていたが、その耳の先がわずかに赤いのを、雪永は見逃さなかった。
「私も——そう思う」
雪永はそう言って、小屋へ続く道を歩いた。
小屋の煙突から、細い煙が上がっている。囲炉裏の火は、まだ燃えているだろう。あの小屋に帰れば、温かい火がある。そして、その火の傍に、蒼馬がいる。
それだけで——雪永は、もう十分だった。
帰ろう。
雪永はそう思って、足を速めた。蒼馬に追いついて、その隣を歩いた。
——帰ろう。私たちの、家に。




