序章 雪白の孤影
雪が降っている。
音もなく、ただ静かに、白い薄片が暗い空から舞い落ちてくる。積もった雪が山の稜線を柔らかく包み、杉の枝がその重みにしなる。風はない。世界が息を殺しているかのような、深い静寂がそこにはあった。
山あいの小さな庵から、一筋の煙が立ち上っている。周囲には人家もなく、獣道さえ雪に埋もれてしまうような、奥深い谷間だった。最も近い里まで、雪のない季節でも半日はかかる。冬ともなれば、この庵は完全に世間から切り離される。
それが、彼女には都合がよかった。
囲炉裏の火に照らされた小さな土間で、女が薬草を刻んでいる。すりこぎで丹念にすり潰し、油と混ぜ合わせて軟膏をつくる。冬になると山を下りてくる猪や鹿が、崖から落ちて傷を負うことがある。そうした獣を見つければ、手当てをして返してやるのが、彼女のささやかな日課のひとつだった。
女の名は、雪永という。
囲炉裏の火が、その白い髪を琥珀色に染めている。腰まで届く長い髪は、雪よりもなお白く、この山の冬景色に溶け込んでしまいそうなほどだった。そして、その髪の間からのぞく瞳は、紅い。血の色ではなく、深い冬の日暮れに、雪の上を最後の陽光が滑るときの——あの切ないほどに美しい茜色だった。
白い髪。紅い目。
それが、彼女を人ならざるものと知らしめる印だった。
雪永の母は、龍だった。
この世に龍が棲むことを、人は古くから知っている。山の奥深く、海の底、雲の上——この国のどこかに、人よりもはるかに長く生き、はるかに強い力を持つ存在がいる。龍は天変地異を操り、大地を揺るがし、津波を呼び、嵐を従えた。人がどれほど束になろうとも、一頭の龍には敵わない。それは、この世の理のひとつだった。
だが、理であるがゆえに、人は龍を畏れ、そして憎んだ。
龍がひとたび怒れば、村がひとつ消える。田畑が水に沈む。山が崩れる。人の営みなど、龍の吐息ひとつで灰になる。龍にとって人は塵芥に等しく、人にとって龍は災厄そのものだった。
両者の間に、和解などあり得ない——そう、誰もが信じていた。
雪永の父は、人だった。
越後の山奥で猟師をしていた朴訥な男だ。ある冬、猛吹雪の中で道に迷い、死にかけていたところを、一頭の龍に救われた。その龍は、人の姿をとることができた。雪のように白い髪と、紅い瞳を持つ、美しい女の姿を。
弥助は龍の正体を知っても逃げなかった。龍は——雪永の母は——それに驚いた。
ふたりは、ともに暮らし始めた。人里を離れ、誰にも知られぬ山の奥で。やがて子が生まれた。白い髪と紅い目を持つ、小さな女の子が。
それが雪永だった。
しかし、穏やかな日々は長くは続かなかった。
雪永が十の年を数えた春のことだった。
父が薬草を採りに里近くまで下りたとき、見知らぬ侍に声をかけられた。藩の龍狩衆——龍とその眷属を討伐するために組織された武装集団だった。弥助の暮らしぶりに不審を抱いたのか、あるいは誰かが密告したのか。侍たちは弥助を尋問した。弥助は何も語らなかったが、侍たちは山に踏み込んだ。
母は、弥助と雪永を逃がすために龍の姿に戻った。
雪永は覚えている。母の本当の姿を見たのは、あれが最初で最後だった。
白銀の鱗を持つ、巨大な龍。翼が谷を覆い、吐息が吹雪を呼んだ。龍狩衆の刀も槍も、その鱗には届かなかった。だが、龍狩衆には「龍鎖」があった。古の術で鍛えられた、龍を縛るための鉄の鎖。母はその鎖に絡め取られ、動きを封じられた。
父は、母を助けようとして斬られた。
雪永の目の前で。
赤い血が白い雪の上に広がるのを、雪永は呆然と見つめていた。父が倒れ、動かなくなった。母が咆哮した。大地が震えた。しかし龍鎖は緩まなかった。
——逃げなさい。
母の声が、頭の中に直接響いた。龍は、言葉を持たない。だが、心でつながった相手には、想いを伝えることができる。
——生きなさい、雪永。おまえは、人として生きられる。人の中に紛れて、ひっそりと。髪を染め、目を隠し、誰にも正体を悟られぬように。
——でも、おかあさま——
——おまえは、私たちの宝だ。人と龍が、ともに在ることができるという——その証だ。
母が最後の力を振り絞った。鎖を引きちぎることはできなかったが、残された力で嵐を呼び、雪崩を起こした。龍狩衆は飲み込まれ、母もまた——。
雪永は、嵐の中をひとり逃げた。
あれから、どれほどの歳月が流れただろう。
人の子であれば、すでに老い、死んでいてもおかしくはない年月だ。だが、雪永の身体は二十歳を少し過ぎたあたりで歩みを緩め、それ以上老いることを忘れてしまったかのように、若いままだった。龍の血が、そうさせているのだろう。母ほどの長寿ではないにしても、人の一生よりはずっと長い時間を、雪永は生きてきた。
いくつもの山を越え、いくつもの土地を転々とした。人里に近づくこともあったが、長くは留まれなかった。白い髪を墨で染め、紅い目を伏せて暮らしても、やがて怪しまれる。年を取らぬことに気づかれる。化け物、妖——そう囁かれ、追われる。
そのたびに雪永は逃げ、また山の奥へと戻った。
やがて、人と関わることそのものを諦めた。
この谷に庵を結んだのは、三年前の秋のことだ。ここは雪が深く、冬は人が近づけない。夏でも険しい山道を越えなければたどり着けない。獣と木々と、雪と風だけが隣人の、静かな場所だった。
寂しくないのかと問われれば——寂しい。
人のぬくもりが恋しくないのかと問われれば——恋しい。
だが、人のぬくもりを求めれば、待っているのは恐怖と拒絶だ。母と父の末路が、それを教えている。人と龍は交わってはならない。交われば、悲劇しか生まれない。
雪永はすり鉢から手を止め、囲炉裏の火を見つめた。
火は揺れている。小さな、か弱い火だ。だが、この庵の中をほのかに照らし、凍えた身体をわずかに温めてくれる。雪永にとって、この火は世界のすべてだった。
火が燃え続ける限り、自分はここにいる。
火が消えたら——。
そこから先のことは、考えなかった。
夜が更け、雪永は薬草の仕分けを終えて、戸板の隙間から外を窺った。雪はまだ降り続いている。だが、風はなく、降る雪は綿のように柔らかだった。月の光が雲を透かして、雪原をぼんやりと青白く照らしている。
この景色だけは好きだった。
冬の夜、雪に覆われた山は、どこか母の背に似ていると思うことがある。母が龍の姿でいるとき、その白銀の鱗は雪のように輝いていた。遠い記憶の中で、母の巨大な翼の下に身を寄せたことがある。あのとき感じた温もりは、今もまだ、身体のどこかに残っている気がする。
雪永は手を伸ばし、戸板の隙間から降りてくる雪を掌に受けた。冷たい。だが、それは嫌な冷たさではなかった。
龍の血を引くせいなのか、雪永は寒さに強かった。真冬の沢で水を浴びても、震えることはあっても凍えることはない。火が消えても、死ぬことはない。ただ、寂しいだけだ。
人は火を囲んで集まるものだと、どこかの村で聞いたことがある。囲炉裏を囲み、家族で飯を食い、語らい、笑う。雪永がかつて持っていた、そしてもう二度と持てないもの。
——いや。持てないのではない。持とうとしてはならないのだ。
そう自分に言い聞かせて、雪永は戸板を閉めた。囲炉裏の火をかき混ぜ、残り火の上に灰をかぶせる。明日もまた、同じ一日が始まる。薬草を刻み、獣の世話をし、水を汲み、粥を炊く。
何も変わらない。何も起こらない。
それが——雪永の願いだった。
だが、願いは裏切られるものだ。
いつだって。




