第3話:夜のスープと譜面台の距離(小さな幸福①:食)
宮廷からの招待状は、厚い紙でできていた。
角が硬くて、触るだけで気持ちが削れる。
「行かない」
セヴは即答した。
「……でも、断ったら」
「断る理由を作る。君は今日は“発熱”だ」
「嘘ですよね」
「合理的な嘘だ」
言い切って、彼は厨房へ向かった。
公爵家の厨房は広く、夜でも火が落ちていない。
忙しそうな料理人たちが、セヴを見ると一瞬だけ動きを止めて、すぐに視線を戻した。
この家でセヴは、“命令する人”ではなく、“判断を背負う人”なのだとわかる。
鍋の中で、骨と野菜が静かに煮えている。
出汁の匂いが、胸の緊張をゆるめた。
「座れ」
セヴは私に椅子を引く。
そして無言で、スープを器に注いだ。
「……あなたが作るんですか」
「味の確認だけだ。君は食べろ」
「楽長なのに」
「楽長だからだ」
セヴは湯気を見て、言う。
「音は、身体で鳴る。身体が冷えたら、音も冷える」
私は笑いそうになって、慌ててスープを飲んだ。
熱い。やさしい塩気。
喉がほどける。
「……美味しい」
セヴは頷くだけ。
でも、器の中身が減るのを見て、ほんの少しだけ目元がやわらいだ。
「リラ」
「はい」
「宮廷音楽監督――ヴァイスは正論で来る」
その名前だけで、背筋が伸びた。
宮廷で一番影響力のある音楽監督。
“音を守る”の名のもとに、歌い手を切り捨てると噂の人。
「正論……」
「『危険は隔離すべき』、『呪いは管理すべき』、『君の存在は宮廷のリスクだ』」
セヴは淡々と並べる。
「筋は通っている。だから厄介だ」
「……私は、どうすれば」
セヴはスープを一口飲む。
「君は、正直に言え。『私は歌う。条件があっても生きる』と」
「反発されます」
「反発されても、生きる」
短い言葉に、芯があった。
私の手が震えそうになったのを、セヴが見た。
何も言わず、譜面台の位置を変える。
私の目の前に、譜面台が置かれる。
その背後に立って、セヴが伴奏の姿勢を取った。
「今、歌え」
「……ここで?」
「君の身体に、“怖い場所でも鳴る”記憶を残す」
私は息を吸った。
厨房の火。スープの匂い。
背後の静かな伴奏。
安心が、音の土台になった。
私は小さな旋律を歌った。
スープの湯気の向こうで、音がやわらかく立ち上がる。
歌い終わると、セヴはただ一言。
「大丈夫だ」
その言葉は、慰めじゃなかった。
事実みたいに、胸に落ちた。
――翌朝。宮廷の使者が来て、ヴァイス本人が“今日、来訪する”と告げた。
(第3話・了)
次話予告:正論の刃が来る。セヴは、言葉ではなく“手続き”で守る。




