第1話:終わりの一音
「――あなたは、恋をした瞬間ではなく、“最後の一音”で死にます」
医師の声は、窓の外の雨音みたいに淡々としていた。
王都の診療所は白く、清潔で、音がよく響く。椅子の軋みまで、胸に刺さるほど鮮明だった。
私は、喉に手を当てた。
歌い手の癖だ。緊張すると、そこに“自分”がいるか確かめたくなる。
「……最後の一音?」
「恋が成立したとき、心臓は“終わり”を求めます。あなたの身体は音楽と同じで、終止符に向かってしまう。最後の一音が鳴った瞬間、心拍が止まる」
「恋が……成立したら?」
医師は首を傾げる。
「好きだと気づくことではありません。相手に受け入れられ、あなたも受け入れたとき。あなたが“帰る場所”を持ったときです」
帰る場所。
その言葉が、胸の奥を少しだけ温めたのが悔しかった。
私は泣かなかった。叫びもしなかった。
ただ、息を整えて、問う。
「治るんですか」
「現時点では、難しい。呪いは魔術的な誓約に近い。けれど――対処はできます。恋を避ける。もしくは……“最後の一音”を鳴らさない」
「……そんなの、歌い手に死ねって言ってるみたい」
医師は否定しなかった。
白い壁の静けさが、答えの代わりだった。
診療所を出ると、雨はやんでいた。
石畳は濡れて、街灯の光を薄く映している。王都の夕暮れは、いつも忙しいはずなのに――今日は音が遠い。
私は胸の上に手を置いて、心臓の拍を数えた。
まだ生きている。
なら、選べる。
(この条件で、生きよう)
歌うことをやめるのは、私にとって“死”と同じだ。
でも、恋を避けるだけなら、できるかもしれない。
歌だけを選んで、誰にも帰らない。
そう考えた瞬間、背中から冷たい汗が落ちた。
“誰にも帰らない”という選択が、想像以上に寂しかったから。
「リラ」
振り向くと、傘も差さずに立つ男がいた。
黒い外套。濡れた肩。
表情の少ない顔と、まっすぐな眼差し。
セヴ・ヴァルディア。
公爵家の楽長――王都で一番冷たい合理主義者だと噂の人。
「……どうして、ここに」
「医師が、あなたの診断を公爵家へ送ると言った。止められない。なら、先に迎えに来る」
「迎えに……?」
「あなたがこのまま帰ると、歌う場所を失う。噂は広がる。宮廷は“危険な呪いの歌姫”を隔離したがる」
言葉は少ない。
でも、その一言一言が、状況を整理していく。
「私は、隔離なんて――」
「しない」
彼は即答した。迷いも怒りもない。
「公爵家の音楽室に来い。環境を整える。検査もする。必要なら、契約も」
契約。
その響きが、少しだけ怖い。
「どうしてそこまで?」
「合理的だからだ」
セヴは、濡れた外套のまま私の前に立つ。
「君の声は希少だ。失うのは損失。――それに」
「それに?」
彼は一瞬だけ、視線を逸らした。
まるで言葉を探しているみたいに。
「君は、泣いていない。そういう人間は、折れるとき静かに折れる。……見過ごせない」
心臓が、ひとつ強く鳴った。
怖い。嬉しい。
その混ざった感情が、胸の中で小さく震える。
私は急いで息を吸って、感情を平らにした。
(恋はしない。しないけど――助けは受け取っていい)
「……わかりました。行きます」
セヴは頷いた。
それだけで、彼は私の隣に立ち、歩き出す。距離は近すぎず、遠すぎない。
石畳を踏む靴音。
街灯の灯り。
雨の匂い。
そして――私の歩幅に合わせて、ほんの少し速度を落としてくれる、彼の沈黙。
公爵家の門が見えたとき、私は初めて気づいた。
怖いのは呪いだけじゃない。
この人の優しさに、慣れてしまうことが、いちばん危ない。
門の内側は静かで、音が柔らかく吸い込まれる。
セヴが小さく言った。
「リラ。ひとつ約束しろ」
「……なにを?」
「君は、勝手に終止符を打つな」
終止符。
それは歌の終わりで、私の死の合図。
私は、ゆっくり頷いた。
「はい。――打ちません」
セヴはそれ以上、何も言わない。
でも彼は、門番に短く命じ、廊下の灯りを増やし、私の手が冷えていることに気づくと、無言で温い布を差し出した。
行動が、ずっと味方だ。
疑う余地のない安心が、ゆっくりと胸に染みていく。
(……この条件で生きる。歌うなら、終わり方を選ぶ)
その決意の中に、もうひとつだけ、小さな予感が混ざった。
私が選ぶ“終止符”は、たぶん――ひとりでは決められない。
——次の朝、音楽室で。
彼は私に、呪いの“検査”を始める。
(第1話・了)
次話予告:「検査」と呼ばれる、彼の優しすぎるルール。




