雨、そして崩壊(9月 中旬)
【1:アンコントローラブル・リスク】
政治的な思惑など、お天道様には関係なかった。 信濃の山々を、鉛色のカーテンが覆い尽くした。
最初はパラパラという乾いた音だった。だが、それはすぐに、地面を叩きつける轟音へと変わった。 秋の長雨。それも、数年に一度クラスの豪雨だ。
「止まれぇ! 川が増水している! 渡れんぞ!」
木曽川の水位はまたたく間に上がり、濁流となって橋を押し流した。 舗装されていない中山道の地面は、水を吸って底なしの沼と化した。
「……計算外だ」 数正は、蓑を打ち付ける雨音に怒鳴り勝つように叫んだ。 本多正信の「意図的な遅延」などという生易しいものではない。これは**「不可抗力」**による完全なロジスティクス崩壊だ。
【2:泥の地獄】
バキッ! 嫌な音が響いた。荷車の車輪が泥に食われ、車軸が折れたのだ。
「動かん! 押せ、押せぇ!」 人足たちが泥まみれになって押すが、腰まで浸かる泥沼ではどうにもならない。 馬も、足を滑らせて嘶き、次々と谷底へ滑落していく。
現代のトラック輸送で言えば、主要幹線道路が水没し、車両が全損した状態だ。 数正は決断した。
「荷車を捨てろ! 車輪はもう役に立たん!」 「なっ……奉行! 中には火薬が!」 「捨てろと言っているんだ! 人間が背負える分だけ持て! それ以外はすべて廃棄だ!」
数正はさらに、武士たちに向かって絶叫した。 「鎧も脱ぎ捨てろ! 具足櫃も捨てろ!」
「貴様、侍に鎧を捨てろとは何事か!」 「この泥の中で重装備など、自殺志願者と同じだ! 溺れ死にたいのか!」
数正は、泥に沈みかけていた若い兵士の襟首を掴み、無理やり引き上げた。 「いいか、プライド(面子)じゃ腹は膨れないし、命も守れない! 軽くなれば進める! 命の最適化だ!」
街道のあちこちに、高価な漆塗りの鎧箱や、葵の紋が入った旗指物が打ち捨てられていく。 それは、徳川の威信が泥にまみれていく光景だった。
【3:情報の空白地帯】
さらに恐ろしい事態が発生した。 家康からの使者が途絶えたのだ。
「報告! 増水により、伝令が渡河できません!」 「後方の部隊とも連絡取れず!」
通信途絶。 自分たちが今どこにいるのか。関ヶ原の戦況はどうなっているのか。勝っているのか、負けているのか。 情報と物流が同時に切断された軍隊は、暗闇の中で迷子になった子供と同じだ。
3万8千の兵は、情報の空白地帯で、ただ冷たい雨に打たれながら立ち尽くすしかなかった。 気温が下がる。濡れた衣服が体温を奪っていく。 ガチガチと歯の鳴る音が、雨音に混じって不気味に響き始めた。
【4:生米を噛む音】
野営の夜。火は焚けなかった。 薪は芯まで濡れ、火打ち石も湿気て火花を散らさない。 温かい食事など望むべくもなかった。
数正は、兵糧袋から一握りの米を取り出した。 精米された白米ではない。玄米に近い、硬い米だ。 彼はそれを口に放り込んだ。
ガリッ。ジャリッ。 石を噛むような不快な音が脳に響く。 唾液と混ざってもなかなか柔らかくならない。噛み砕いていると、粉っぽい感触と共に、わずかな甘味と、泥臭さが口の中に広がる。
「……食え」 数正は、周囲でうずくまる兵士たちに声をかけた。 「腹の中でふやかせば同じだ。食わなきゃ体温が上がらないぞ」
兵士たちも、涙目で生米をかじり始めた。 あちこちで「ガリッ、ボリッ」という乾いた咀嚼音だけが聞こえる。 それは、人間の尊厳を削り取る音だった。
(これが、計算の向こう側にある現実か)
数正は泥水をすすり、無理やり米を胃に流し込んだ。 東海道を行く家康軍は、今頃宿場で温かい飯を食っているだろうか。 SCMマネージャーとして、これほどの敗北はない。 納期遅延。品質劣化。在庫損耗。
だが、まだ「全損」ではない。 数正は、泥だらけの顔を上げた。目は死んでいない。
「……まだだ。俺たちはまだ、生きている」
関ヶ原の決戦は、もう目の前に迫っていた。 しかし、彼らは戦場に辿り着くことさえ許されず、遥か彼方の山の中で、自然という名の巨人と戦い続けていた。




