運命の分岐点(プロローグ・エンド)
小山の評定から数日後。 軍は二手に分かれて西へ向かうことになった。
一つは、家康本人が率いる東海道軍。 海沿いの平坦な道を行き、大久保長安の財力で米を買いながら進む、言わば「王道」だ。 もう一つは、嫡男・徳川秀忠が率いる中山道軍。 内陸の険しい山岳地帯を貫き、真田氏などの敵対勢力を牽制しながら進む「別動隊」である。
街道の分岐点で、数正は荷物をまとめていた。当然、自分も家康本隊――つまり、勝ち馬に乗る東海道ルートだと思っていたからだ。 だが、上司の伊奈忠次は、数正の背中を扇子で叩いた。
「数正。私は大殿(家康)について東海道を行く」 「はい。では、私もすぐに支度を……」 「いや。お前は残れ」
伊奈は、北西にそびえる暗い山脈を顎でしゃくった。 「お前は、秀忠様の軍監として、中山道を行け」
数正の手から、荷物が滑り落ちた。 「……な、中山道ですか!? 正気ですか!?」
思わず上司に対して声を荒らげてしまう。 「あそこは山道です! 道幅も狭く、峠越えの連続だ。現代……いや、兵站の常識で言えば、あんな細いパイプに3万8千もの大軍を流し込めばどうなるか、明白でしょう!」
【2:ボトルネックの悪夢】
数正の脳内には、中山道の過酷なルートマップが浮かんでいた。 東海道のように整備された宿場は少ない。補給拠点は貧弱で、道は人一人が通るのがやっとの難所ばかり。 通信用語で言えば、**「帯域幅(バンド幅)」**が極端に狭い回線だ。 そこに3万8千人という巨大なデータ(兵士)を一気に流し込めば、何が起きるか。
「絶対的な渋滞。そして補給の寸断が起きます。現地の村から徴発しようにも、山間の寒村に3万の胃袋を満たす備蓄などありません!」
数正は必死に食い下がった。 「飢え死にします。戦う前に、軍が崩壊します!」
伊奈は静かに聞いていたが、表情一つ変えずに頷いた。 「分かっている。だから、お前が行くんだ」
「え……?」
「普通の奉行なら、兵を飢えさせるだろう。だが、お前なら計算できるはずだ。どのタイミングで休み、どれだけの荷物を捨て、どう配分すれば、兵を生かしておけるか」
伊奈の手が、数正の肩を強く掴んだ。 「あそこは地獄だ。秀忠様は戦を知らぬ。お前の計算能力がなければ、徳川の次代を担う精鋭たちは、山中で朽ち果てることになる。……頼んだぞ」
それは、信頼という名の死刑宣告だった。 華々しい勝利が約束された東海道ではなく、泥と汚名が待つ裏ルート。 だが、誰かがやらねばならない「貧乏くじ」だった。
【3:泥濘への一歩】
伊奈は去っていった。 残された数正は、暗雲が立ち込める北西の空を見上げた。 遠くで重い雷鳴が響く。低気圧が近づいている。あの雲の色は、長雨の予兆だ。
「マジかよ……」
東海道を行く家康本隊は、金と海運を使った「イージーモード」。 自分が向かう中山道は、天候不順と悪路が待つ「ハードモード」。
数正は懐から算用状を取り出した。もはや「勝利」の計算などできない。 これからの計算式は一つだけ。 『生存』。
納期(関ヶ原)に間に合うかどうかではない。 一人でも多くの兵を、生きてこの山から吐き出させること。
「……くそッ、やってやるよ! ブラック案件は慣れっこだ!」
数正は泥を蹴り上げ、馬上の人となった。 覚悟を決めたその顔に、もはや迷いはなかった。武功などいらない。ただ、自分の計算で、3万8千の命を繋ぐ。それが、転生した兵站屋の戦いだった。
「小荷駄隊、出発! 遅れるなよ、地獄の行軍だ!」
慶長5年8月。 後に「徳川秀忠の遅参」として歴史に刻まれる、苦難の行軍が幕を開けた。




