サンクコストの決断(慶長5年 7月24日)
【1:資産が負債に変わる時】
慶長5年7月24日。 下野国・小山。
その急報は、夏の日差しを凍りつかせるほどの冷気を持っていた。 「石田三成、大坂にて挙兵。内府(家康)打倒を叫び、諸大名の人質を確保!」
本陣は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。「上杉など捨て置け!」「直ちに反転して三成を討つ!」「いや、まずは人質の安否だ!」 怒号が飛び交う中、数正だけが顔面蒼白で震えていた。 恐怖ではない。絶望的な**「計算結果」**が出たからだ。
(戻る……だと?)
数正は脳内の地図を書き換える。 現在地は栃木県の小山。目指す敵は、大阪。距離にして約500km以上。 そして、彼の背後には、昨日完成したばかりの「20万石の兵糧」がある。
(この米はどうする? 持って帰るには重すぎる。置いていくには……あまりに惜しすぎる!)
上杉と戦うために北へ積み上げた物資は、西へ急行軍するための「足かせ」でしかない。 昨日まで最強の武器(資産)だったものが、一夜にして、行軍速度を殺す最悪の重荷(負債)へと変貌したのだ。
【2:小山評定の裏側】
翌7月25日。歴史に名高い「小山評定」が行われた。 福島正則や山内一豊といった豊臣恩顧の大名たちが、次々と家康への忠誠を誓う。政治的な勝負はここで決した。 だが、実務的な勝負は、その直後の軍議で始まった。
人払いを済ませた奥の間。家康は、血走った目で数正を見た。 「数正。兵站はどうする。乙女に積んだあの米、持って帰れるか?」
胃に穴が開くような激痛。 数正は、自分が手塩にかけて築いた物流センターの図面を握りしめた。 「持っていきたい」と言えば、家康は喜ぶだろう。だが、それは嘘だ。
「……殿。申し上げます」 数正は唇を噛み切り、血の味と共に言葉を絞り出した。
「あの米は、捨てましょう」
場が凍りついた。 「捨てろと申すか。あれだけの宝の山を」 「はい。あれを運べば、行軍速度は時速4kmから2kmに落ちます。荷車が峠で立ち往生すれば、もっと遅れます。三成に勝つために必要なのは『米』ではなく、一日でも早く戦場に着く『時間』です」
いわゆる**「埋没費用」**の無視だ。 どれだけ金と労力をかけたとしても、それが将来の利益(勝利)を生まないなら、未練なく切り捨てなければならない。 頭では分かっている。だが、心が悲鳴を上げていた。あれを集めるのに、どれだけ苦労したと思っているんだ。
沈黙を破ったのは、金山奉行の大久保長安だった。 彼はニヤリと笑い、懐から砂金袋を取り出して放り投げた。 「良い判断だ。米など、また金で買えば良い。重い荷物は川に流し、我らは手ぶらで東海道を走る。金なら私がいくらでも用意しよう」
家康が瞑目し、やがてカッと目を開いた。 「……あい分かった。数正、処分せよ。一粒も残すな!」
【3:断腸の損切り(ライトオフ)】
乙女河岸に戻った数正を待っていたのは、地獄絵図だった。 「蔵を開けろ! 中身をすべて川へ流せ!」
数正の命令に、部下たちや人足が泣きついてきた。 「組頭! 正気ですか!?」 「もったいねえ! これだけの米がありゃ、村が何年食えると思ってんだ!」 「バチが当たりますぞ!」
一人の老兵が、米俵にしがみついて動かない。 「嫌だ! わしらが泥水すすって運んだ米だぞ! なんで捨てなきゃならねえんだ!」
数正は、その老兵の胸倉を掴み、鬼の形相で怒鳴りつけた。 「どけッ! 俺だって捨てたくないんだよ!」
数正の声が裏返る。 「だがな、これを持っていたら、俺たちは三成に負けるんだ! 米を惜しんで首を斬られたいか! これは米じゃない、ただの『重り』だ!」
数正は自ら小刀を抜き、米俵を切り裂いた。 ザァァッ! という音と共に、白い米が地面に溢れ出し、川へと転がり落ちていく。
「やれ! 全部流せ! 敵に一粒たりとも渡すな!」
泣きながら米俵を切り裂く兵士たち。 思川の水面が、流された大量の米で白く濁っていく。 それは、数正の魂が削り取られる光景だった。 SCMマネージャーとしての誇り。完璧な在庫管理。美しい物流網。それらすべてが、濁流に飲み込まれて消えていく。
(これが、戦争……)
数正は震える拳を握りしめた。 効率化することだけが正解ではない。 状況が変われば、正解も変わる。昨日までの100点は、今日の0点になる。 変化に対応し、痛みを受け入れて生き残る。それが「戦略」なのだ。
【4:モード転換】
数時間後。 20万石の山は消え失せ、空っぽになった蔵だけが残された。 身軽になった徳川軍は、驚異的な速度で転進を開始する。
数正は、白く濁った川に背を向け、新たな指令を飛ばした。 「これより兵站モードを転換する! 備蓄型から、現地調達型へ! 金に糸目はつけるな! 道中の村から米を買い上げろ! 走りながら食え!」
涙はもう乾いていた。 数正の目は、すでに西の空――関ヶ原の彼方を見据えていた。 失った20万石の代償は、必ず三成の首で支払わせてやる。
だが、この時の数正はまだ知らなかった。 身軽になった家康本隊とは別に、自分には「地獄の中山道」という、さらなる試練が待ち受けていることを。




