黄金の在庫管理(慶長5年 6月)
【1:物流の芸術】
慶長5年(1600年)6月。 下野国・乙女河岸。
そこには、戦国時代の常識を覆す光景が広がっていた。 利根川の支流である思川の水面を、数百艘という高瀬船が埋め尽くしている。白い帆の連なりは、まるで川面に降りた雲のようだ。
「一番倉、搬入よし! 次、二番倉へ回せ!」 「検品、完了! 濡れ荷なし!」
驚くべきは、その静謐な喧騒だ。 通常、これだけの荷揚げ場なら、怒号と混乱が支配するはずだ。しかし、ここでは違った。 荷揚げ人足たちは、数正が定めた「標準作業手順」に従い、無駄な動きを削ぎ落としていた。船から桟橋、桟橋から荷車、そして蔵へ。 米俵のリレーは、現代のベルトコンベアを彷彿とさせる一定のリズム(タクトタイム)で、淡々と、しかし恐ろしい速度で行われていた。
丘の上からその様子を見下ろしていた数正は、思わず口元を緩めた。 (美しい……) SCMの専門家として、これほど心躍る瞬間はない。 ボトルネックは解消され、フローは最適化されている。 江戸から水運でピストン輸送された兵糧は、ここで一時備蓄され、陸路部隊へと受け渡される。完璧な中継基地の完成だ。
【2:一万の槍に勝る】
「……壮観だな」 背後から、重厚な声がかかった。 振り返れば、徳川家康その人が立っていた。供回りの武将たちも、眼下に広がる黄金色の山――積み上げられた20万石の兵糧――を見て、言葉を失っている。
「はっ。上杉討伐のため、先遣隊5万が冬を越しても余りある量を確保いたしました」 数正は平伏して答えた。
家康はゆっくりと歩を進め、積み上げられた米俵の一つに手を置いた。ずしりとした重み。藁の感触。 戦国武将にとって、米とは命そのものだ。これだけの「命」が、整然と管理されている。
「数正よ。わしは戦を長くやってきたが、これほど見事な兵站は見たことがない」 家康は米俵を愛おしそうに撫でた。 「これがあれば、兵は飢えぬ。馬も倒れぬ。……そちのその算盤は、一万の槍に勝るな」
最大級の賛辞だった。 周囲の歴戦の武将たちも、もはや数正を「計算だけの若造」と侮る目では見ていなかった。この圧倒的な物量こそが、勝利への舗装道路であると理解したからだ。
「恐悦至極に存じます。すべては、伊奈様のご指導と、殿のご威光あってのこと」 数正は頭を垂れたが、胸中には強烈な自負があった。 (槍? 鉄砲? 違う。戦争を決めるのは『物量』と『速度』だ。俺がこのシステムを回している限り、徳川軍は負けない)
【3:在庫という魔物】
夕暮れ時。 家康たちが去った後、数正は一人、茜色に染まる空を見上げていた。 完璧な仕事をしたはずだった。 安全在庫は十分。リードタイムも計算通り。リスク管理も万全だ。
だが、冷たい風が吹いた瞬間、ふと背筋が粟立った。 前世の記憶。過労死する直前の、あの感覚。
(在庫は……生鮮食品だ) 貸借対照表(B/S)の上では、この20万石は輝かしい「流動資産」だ。 しかし、状況が変わればどうなる? もし、上杉と戦わなくなったら? もし、戦場がここ(北関東)ではなく、遥か西へ移ったら?
その瞬間、この巨大な資産は、維持管理費を食い潰し、移動の足かせとなる巨大な「不良在庫」へと変貌する。 動かない在庫は罪だ。 積み上げれば積み上げるほど、変化への対応力は失われる。
「……考えすぎか」 数正は首を振って、不吉な予感を打ち消そうとした。 西の空、京の方角には、まだ暗雲は見えない。 だが、彼の「兵站屋」としての本能が、遠くで何かが軋む音を聞き取っていた。
積み上げた積み木は、高ければ高いほど、崩れる時の音も大きいのだ。
日本史をきちんと学んでないことを数正は初めて後悔した




