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戦は槍ではなく「カロリー」で決まる。 ~某数正のロジスティクス戦記~  作者: 冷やし中華はじめました


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パクス・トクガワーナの設計図

【1:新たなる戦場】


 数年後。  戦乱の世は終わり、江戸に幕府が開かれていた。


 だが、某数正はまだ戦っていた。  場所は、関東平野のど真ん中。渡良瀬川と利根川が合流する、広大な湿地帯だ。  彼は刀をくわに持ち替え、腰まで泥に浸かりながら測量を行っていた。


「……計算が合いません。このままでは、氾濫オーバーフローします」


 数正が指差した先には、暴れ川として名高い利根川が、江戸湾に向かって荒々しく流れている。  隣に立つのは、かつての上司であり、いまや関東郡代として内政を取り仕切る伊奈忠次だ。


「ならば、曲げるしかないな」  伊奈は、途方もないことをさらりと言った。 「利根川の流れを東へ曲げ、銚子(太平洋)へ逃がす。そして関宿せきやどを開削し、江戸川を通して物流の大動脈を作る」


 歴史に名高い「利根川東遷とねがわとうせん事業」。  数十年、いや百年かかると言われる、徳川幕府最大の国家プロジェクト(インフラ整備)だ。


【2:平和のロジスティクス】


 数正は、泥だらけの図面を広げた。  そこには、かつて彼が「乙女河岸」で夢見た水運物流網の、さらにその先にある「完成形」が描かれていた。


「莫大な金と労力がかかります。サンクコストどころの話じゃありません」 「やる価値はあるか?」


 伊奈の問いに、数正は即答した。 「あります。これが完成すれば、北関東や東北の米が、船でそのまま江戸城下まで運べます。馬もいらない。峠越えもいらない」


 数正の脳裏に、あの中山道の地獄がフラッシュバックした。  泥に足を取られ、飢えに震え、生米をかじった兵士たちの姿。  物理的な移動が困難であることが、どれほどの不幸を生むか、彼は骨の髄まで知っている。


物流フローが安定すれば、経済が回ります。経済が回れば、人は食える。人が腹いっぱい食える世の中になれば……もう、あんな戦は起きません」


 数正は、伊奈に向かって力強く頷いた。 「やりましょう。これは、未来への投資です」


「うむ。それが、我らの新しいいくさだ」


 二人は、荒野に杭を打ち込んだ。  それは、260年続く平和パクス・トクガワーナの礎石だった。


【3:江戸の血管】


 ――そして、数十年後。


 世界最大級の人口を擁する巨大都市、江戸。  その中心である日本橋は、全国から集まる物資で溢れかえっていた。


 川面を行き交う無数の高瀬船。  米、酒、醤油、木材。  かつて数正が設計した水運網は、この都市の血管となり、絶え間なく栄養を送り続けている。


 橋の欄干に、一人の好々爺が寄りかかっていた。  年老いた数正だ。


 彼は、賑わう魚河岸を見つめていた。  そこには、泥水をすする兵士の姿はない。  威勢のいい売り子の声。買ったばかりの団子を頬張る子供たち。着飾った町娘。  誰もが笑い、誰もが腹を満たしている。


(……ああ、計算通りだ)


 数正の目じりに、涙が滲んだ。  飢えも、寒さも、遅延もない。  ここにあるのは、最適化された物流と、それによって支えられた平和な日常だけだ。


【4:納期完了】


「おじいちゃん、何を見てるの?」  通りがかりの子供に声をかけられ、数正は我に返った。


「ん? ……ああ、昔の仕事を思い出していてな」 「お仕事? どんな?」 「荷物を運ぶ仕事さ。とても重くて、とても遠い……終わりのない仕事だったよ」


 数正は懐から、茶色く変色した古い紙切れを取り出した。  それは、あの中山道で握りしめていた、生存者の名簿ロースターの断片だったかもしれないし、最初の複式簿記の切れ端だったかもしれない。


 風が吹いた。  数正はその紙を、手から放した。


 紙切れは、日本橋川の風に乗り、ひらひらと舞い上がった。  それは、数正の手を離れ、江戸の青い空へと溶けていった。


「……納期、完了」


 数正は小さく呟くと、満足そうに杖をつき、雑踏の中へと歩き出した。  その背中は、かつて泥まみれだった頃よりも、ずっと軽やかだった。

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