佐和山城の逆説(9月下旬)
【1:勝者の飢餓】
戦は終わったが、腹は減る。 関ヶ原の戦後処理において、数正には新たな、そして絶望的な任務が下っていた。
「敗残兵と捕虜、そして勝者の軍勢。合わせて10万人以上の胃袋を満たせ」
無理難題だった。関ヶ原周辺の村々は、両軍の進軍によって荒らされ、徴発できる食料など残っていない。 徳川の勝利軍でさえ、携行食は尽きかけていた。このままでは、勝者が飢え死にするか、あるいは飢えた兵が暴徒となって略奪を始めるかだ。
そんな中、一つの報告が届いた。 「石田三成の居城・佐和山城を接収。……蔵を確認してください」
世間では「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と謳われた名城だ。 さぞや金銀財宝を溜め込んでいることだろう。兵士たちは目を輝かせて城へ雪崩れ込んだ。
【2:何もない部屋】
だが、天守に入った兵士たちは愕然とした。 「なんだこれは……。何もないぞ!」
壁は荒土のまま。畳は古く、装飾品など一つもない。 質素倹約を旨とした三成の私室には、金目のものなど何一つなかったのだ。 期待外れだと唾を吐く兵士たちを尻目に、数正は城の奥深くにある「兵糧蔵」へと向かった。
重い扉を開けた瞬間、数正は息を呑んだ。 そこには、黄金よりも美しい光景が広がっていたからだ。
【3:完璧な在庫管理】
天井まで積み上げられた米俵。味噌、塩、薪炭、干し魚。 それだけではない。矢尻、火縄、替えの草鞋、そして貴重な医薬品。
驚くべきは、その管理状態だ。 すべての物品には「品目」「数量」「搬入日」が記された木札が下げられている。 湿気を避けるために床は高くされ、通路は確保され、古いものから手前に置かれている。
「すげえ……。完璧なロケーション管理だ」
数正は、棚に置かれた一冊の帳面を手に取った。 ページをめくると、そこには三成自身の筆跡と思われる、恐ろしく几帳面な文字が並んでいた。 入庫、出庫、在庫推移。損耗率の計算。
石田三成。 彼は冷酷な官僚と嫌われたが、その本質は数正と同じだったのだ。 誰よりも数字に厳しく、誰よりも「兵站」の重要性を理解していた実務家。 彼は、来るべき長期戦に備え、あるいは領民を飢えさせないために、これだけの備蓄を、これほど完璧な状態で維持し続けていたのだ。
【4:皮肉な配給】
「……あんた、すげえよ」 数正は、いないはずの三成に向かって語りかけた。 「俺は20万石を川に捨てたが、あんたは最後まで守り抜いたんだな」
だが、歴史の皮肉は残酷だ。 三成が守り抜いたこの食料は、いまや彼を殺した敵軍(徳川)の腹を満たすために使われようとしている。
数正は感傷を振り払い、部下たちに指示を出した。 「これより配給を開始する! 三成公が遺した帳簿通りに行え! 混乱させるな!」
城門が開かれ、炊き出しが始まった。 湯気を立てる温かい飯。味噌汁の香り。 飢えかけていた徳川の兵たちが、そして行き場を失った敗残兵たちが、貪るようにそれを食らう。
「うめぇ、うめぇ……!」 「生き返るぞ……!」
その米は、敵である三成が用意したものだ。 だが、極限の空腹の前では、敵も味方もない。ただ「生きる」ためのカロリーがあるだけだ。 三成の几帳面な仕事が、皮肉にも、戦後の混乱を鎮め、10万人の命を救っている。
【5:実務家の弔い】
数正は、城壁にもたれて、兵士たちが飯を食う光景を眺めていた。 隣に、いつの間にか本多正信が立っていた。
「……三成は、人望はなかったが、仕事はできたな」 正信が珍しく真面目な顔で呟く。
「ええ。最高のロジスティクス・マネージャーでしたよ。ただ、時代と、仕える相手が悪かった」 数正は、三成の帳面を懐にしまった。これは、燃やさずに持っておこうと思った。
「皮肉なもんです。彼の計算が正しかったことを、彼を倒した我々が証明しているんですから」
数正は、空になった粥の椀を掲げ、見えない敗者へ向かって静かに乾杯した。 これが、同じ数字の世界を生きた男への、数正なりの弔いだった。




