複式簿記の衝撃
【1:泥と数字】
意識が浮上したとき、最初に感じたのは強烈な「臭い」だった。 腐った藁と、乾ききっていない馬糞。そこに男たちの汗と血の臭いが混ざり合い、鼻腔を暴力的に犯す。
「……うッ」
嘔吐感をこらえて目を開ける。 視界に飛び込んできたのは、無機質な物流倉庫のLED照明でも、積み上げられた段ボールの山でもない。 灰色の空と、見渡す限りの泥濘。そして、粗末な具足(防具)を身につけ、泥にまみれて作業する男たちの背中だった。
(ここは……どこだ? 俺はさっきまで、埼玉の配送センターで……)
記憶が混乱している。確か、繁忙期のトラブル対応で三日連続の徹夜をしていたはずだ。フォークリフトの警告音が鳴り響く中、胸を押さえて倒れ込み――。
「組頭! 何を呆けておられますか!」
怒鳴り声と共に、薄汚れた帳面が目の前に突き出された。声の主は、無精髭を生やした下級武士だ。 「米の搬入が合わねえんです! 手代の野郎、また三俵ほど誤魔化しやがったな!」
組頭? 米? その瞬間、脳裏に膨大な情報が雪崩れ込んできた。 ここは戦国時代。関東の湿地帯。そして自分は、徳川家の小荷駄(輸送部隊)を管理する末端の武士、某数正。
「……ははっ、マジかよ」
乾いた笑いが漏れた。 過労死して転生した先が、よりによってブラック企業も裸足で逃げ出す「戦国の兵站」現場とは。 数正は震える手で、突き出された帳面を受け取った。和紙の束は湿気でふやけ、カビ臭い。 だが、数正を真に絶望させたのは、その臭いではなかった。
そこには、墨で殴り書きされたミミズのような数字が並んでいた。 『入』『出』『残』。 ただそれだけ。日付もなければ、担当者のサインもない。訂正印もなく、黒く塗りつぶされた箇所がいくつもある。
(なんだ、これは……)
現代日本で、1円単位のコスト管理と秒単位の工程管理に命を削っていた元SCMマネージャーの血が、その杜撰さに沸騰した。 これは帳簿ではない。ただの落書きだ。 在庫の概念がない。これでは横領し放題だし、いつ兵糧が底をつく(ショートする)かも予測できない。
「筆と紙を持ってこい。あと、算盤もだ」 「は? ですが組頭、今は泥かきの手が足りて……」 「いいから持ってこい! こんなゴミ屑みたいな帳面で、戦ができるか!」
数正の怒声に、現場の空気が凍りついた。
【2:貸借対照表】
それからの数正は、憑かれたように数字と格闘した。 日が落ち、松明の明かりだけが頼りになっても、彼は筆を止めなかった。
彼が勝手に導入したのは、現代会計の基礎である**「複式簿記」**だ。 従来の「入った」「出た」だけの単式簿記では、金の流れは見えても「資産の状態」が見えない。 数正は、小荷駄隊にある米、味噌、銭、馬、そして貸し借り(借入金)をすべて棚卸しし、分類した。
左側に「資産(何を持っているか)」。 右側に「負債(誰に借りているか)」と「資本(元手)」。
この単純な左右のバランスが合ったとき、不正は物理的に不可能になる。 周囲の部下たちは「組頭が乱心した」「呪文を書いている」と遠巻きに噂したが、数正にとってはどうでもよかった。 整然と並ぶ数字。左右がピタリと一致する整合性。 それだけが、この狂った泥沼の世界で、唯一信じられる「秩序」だったからだ。
【3:テクノクラートの眼】
数日後。 関東郡代・伊奈備前守忠次が視察に現れたとき、現場には緊張が走った。 伊奈忠次。徳川家きっての実務官僚であり、検地や治水で辣腕を振るう男。その眼光は、戦場の武将よりも鋭く、冷徹だと言われている。
仮設の陣屋に、小荷駄の組頭たちが招集された。 「報告せよ」 伊奈の短い言葉に、他の組頭たちが脂汗を流しながら進み出る。 「は、はい! 米はだいたい足りております! たぶん!」 「馬が数頭逃げましたが、まあ、誤差の範囲かと……」
伊奈は無言で彼らの帳面をパラパラとめくり、ため息をつくように横へ放り投げた。 その動作だけで、彼らの更迭が決まったようなものだった。
「次」 数正の番が来た。 彼は無言で、新しく製本した帳簿を差し出した。 伊奈がそれを手に取る。表紙を開く。ページをめくる手が、止まる。
「……ほう」
伊奈の目が細められた。 そこには、従来の武家社会には存在しない「表」があった。 借方(Debit)と貸方(Credit)。 米の動きが「消費」なのか「保管」なのか、あるいは「腐敗損」なのかが、一目でわかるように分類されている。
「備前守様。我が隊の兵糧減耗率は、他隊より一割五分ほど低うございます」 数正は淡々と告げた。 「なぜだ?」 「横領ができない仕組みにしたからです。数字の辻褄が合わなければ、誰かが首を吊ることになりますので」
伊奈が顔を上げ、数正を見た。 その視線は、もはや下級武士を見るものではなく、同類の「怪物」を見る目だった。
「それに、米の出し入れは『先入先出し(FIFO)』を徹底させております。古米から先に食わせ、新米は奥へ。これで腐敗ロスもありません」 「さきいれ、さきだし……か」
伊奈は面白そうに口の端を歪めた。 武勇や精神論が支配するこの時代に、論理だけで構成された美しい帳面。 それは、千の槍よりも雄弁に、数正の異質さを物語っていた。
「お主、名は?」 「某数正にございます」 「某か。ふざけた名だが、悪くない」
伊奈は帳面を懐にしまうと、立ち上がった。 「明日から私の直轄に来い。泥仕事にはもったいない頭だ。……お主のその算盤で、徳川の天下を計算してみせよ」
数正は深く頭を下げた。 泥と汗の臭いの中で、初めて、生きるための道が見えた気がした。




