8 side:ペリオドス
怪我をした彼女を見た時、息が止まりそうになった。間諜は危険な仕事だ。年頃の少女が己の身を危険に晒す必要などない。私の屋敷で療養する事になったキャスケットの許を訪れたクリスハルトに話があると告げると、年下の同僚は軽く頷く。
「ベルベット伯の領地分割の件か? 少し待つよう伝えてくれ。そろそろ俺も普通に金獅子の副団長として動きたいぜ」
自分の父親が政務相談役である王弟を通してクリスハルトに厄介な仕事を割り振っている事は承知している。そのために機動力が高く団長も柔軟な金獅子騎士団が動く事も多いのだが、私は父である宰相の仕事に関して口を出す事はない。
「わかった、伝える。だが、話とはキャスケットの事だ」
「ああ、そろそろ出てけって?」
「いや、逆だ」
端的に答えるとクリスハルトは片眉を跳ね上げる。
「どういう意味だ?」
「彼女が……欲しい。私に譲ってくれないか」
応接間に沈黙が落ちた。茶を淹れてすぐに執事は下がったため、室内は二人きりだ。私は本気である事を示すためにクリスハルトを凝視する。
「譲るって、お前に間諜が必要か?」
眉間に皺を寄せる同僚に、私は首を横に振る。
「間諜は必要ない。ただ……これ以上彼女を危険な目に遭わせたくない」
刻まれた皺が深くなった。
「キャスはお前からしたら子供に見えるかもしれねえが、相当優秀だ。引きとって何もさせねえなんて宝の持ち腐れだぞ」
「彼女が優秀な事はわかっている。私の屋敷には家令がいない。屋敷の財務や法務に関する管理を手伝って貰おうと思う」
「宿舎にいてろくに利用してねえんだから、執事で足りてるんだろ」
「だが執事はもう高齢だ。補佐が欲しいと言っている。女性使用人も少しだけいるし、その管理も手伝って貰いたい」
クリスハルトと睨み合いになった。
「怪我をした若い女に同情する気持ちはわかる」
「同情ではない」
「じゃあなんだ。家事なんぞお前が結婚でもして奥方に仕切らせりゃ良いだろ。よりによってキャスを……ってペリオドス」
表情を変えたつもりはなかったが、僅かな変化も見逃さない観察力の鋭さも天才と呼ばれた少年の能力だ。私が彼女を欲する理由について知られてしまっただろうか。
「女が欲しいなら娼婦でも買え。貴族専門の店もある」
軽蔑も露わに言われ、私は拳を堅く握る。
「欲望を処理したいんじゃない。私は……」
身分違いの娘を軽々しく欲しがってはならない。敵国の将を求めた団長程ではないが、困難な道である事はわかっている。ただ、キャスケットが危険な目に遭うのを黙って見ていられない。十も年下の少女への懸想を彼女と同年の同僚に伝えるのは気恥ずかしく、私は言葉に詰まった。
「何となく見えて来た。純情過ぎて気持ち悪いぞ、ペリオドス」
ため息交じりに言われて、項垂れる。愚かな行動であるのは百も承知だ。言い訳はすまい。
「まあ良い。そこまで言うなら、お前に預ける。ただな、お前にキャスが必要なんだと納得させろ」
「良いのか」
「まあ、お前だしな。キャスには暫く屋敷の仕事を手伝うよう言っておく。その間にどうにかしろ」
苦笑して頷くクリスハルトに、私は感謝を込めた眼差しを向ける。
「どうにかとは」
「ああ? 三十路も近い野郎が下らねえ事聞いてんじゃねえよ」
不機嫌に断じてクリスハルトはさっさと応接間を出て行った。隣室から出て来た執事に再びキャスケットの部屋へ向かうクリスハルトを先導させる。後に続こうとした私を制し、クリスハルトは足早に去った。
キャスケットは私の屋敷で家事を仕切る仕事を引き受けてくれたらしい。仕事のためクリスハルトと共に登城し、日暮れ後、いつも戻る騎士宿舎を素通りして自分の屋敷に馬を飛ばした。供して来た近侍を緊急時の連絡役として宿舎へ戻し、厩舎に馬を繋いで扉の前に立つ。玄関灯が仄明るく周囲を照らす様子を眺めていると、ギと鈍い音を立てて扉が開いた。見慣れた執事と、地味だが洗練された意匠のお仕着せを着込んだキャスケットがいた。
「お帰りなさいませ」
執事の後に続いてキャスケットも顔を上げた。臥せっている間は素顔だったが、軽く化粧を施している。頬と唇が桃色に艶めいている。
「お帰りなさいませ」
涼やかな少女の声が胸に染みる。緩みそうな頬を引き締め、頷いて外套を脱いだ。静かに進み出て手を差し出すキャスケットに、頷いて見せながら外套を渡す。
「これから食事を用意させますので、暫し自室でおくつろぎ下さい。着替えはキャスケット嬢、お手伝いお願い致します」
「かしこまりました」
侍女としての教育を受けた事もある少女の態度は完璧だった。部屋の戸を開けようとする彼女を制し、自分で開けて先に入る。
「ペリオドス様?」
「少し、話したい。着替えは自分で出来るから、座ってくれ」
椅子を示すとキャスケットは笑みを浮かべて腰を下ろした。衣装室の中で軍服を脱ぎ捨て戻るとキャスケットは背筋を伸ばして座っている。
「お茶でも淹れます?」
「私がやろう」
「え、でも」
「以前もそうしただろう」
戸惑いつつも笑みを見せる少女に、己の気分が上向くのがわかる。大の男が年端も行かぬ少女に振りまわされている滑稽さに自嘲しつつも、浮かれてしまうのを止められずにいる。
「怪我はもう?」
「はい、大丈夫っす。本当、お世話になりました」
「いや……これからはこちらが世話になる」
「はい、ペリオドス様を陥れようなんて、とんでもない奴がいたもんすね」
キャスケットはしっかりと一度頷いて神妙な表情になる。
「は?」
思わず間抜けな声が零れた。
「アタシ以外に最近雇われたメイドのうち誰か、なんすよね? 今のところどの子も怪しくないっす」
話が見えず眉間に皺を寄せる私を見て、キャスケットは悪戯っぽく笑う。
「まあでもペリオドス様がアタシに夢中っていう設定で撃退出来るんすかね? クリスハルト様の策だからまあ、一応信用してますけど」
楽しそうなキャスケットの話の内容から、クリスハルトがどうやって彼女をこの屋敷に留めて置こうとしたかがおぼろげに推測出来た。
「どこまで聞いている?」
厄介な話をでっち上げたものだと思いつつ問いかけるとキャスケットは楽し気に語り出す。
「メイドとして潜り込んだ交戦派の間諜がペリオドス様を誘惑してお父上の宰相様の持っている機密を盗み出すのに協力させるつもりらしいってそこまでっす」
「私を誘惑」
戸惑う私に近寄り、キャスケットは私の手を掴んでカップを卓に置くよう促してから、自然に膝の上に座った。
「キャスケッ」
咎めようとした声は、柔らかな腕が首に回された事で途切れた。耳元に口を寄せた少女は甘い香を放ちながら囁く。
「いやいや、ペリオドス様が色仕掛けに落ちるような方じゃないって分かってますって、クリスハルト様も。ただ、穏便に事を済ませるために諦めさせんのが良いだろうって。恋人役がアタシじゃあちょっと釣り合わないだろうけど、せいぜい女らしく振舞うんで、その点は我慢して下さい」
舞い上がりそうになる感情を抑え込み、おそるおそる彼女の背に手を回すと、キャスケットは小さく笑い声を上げた。
「そんなにビビんなくても、もう怪我は治ってますから」
誰かがのぞいているのだろうか、クリスハルトの話は作り話ゆえ、雇ったメイドの中に間諜がいるはずなどないのだが、キャスケットは信じているようだ。キャスケットの話を整理するため頭を巡らせようと思うのだが、彼女の香りとぬくもり、柔らかな感触が邪魔をして冷静になりきれない。
「キャス……そう呼んでも?」
「その方が、親しそうっすね」
背に回した腕に力を込める。
「見られている?」
囁いて聞き返すと彼女は頷く。抱き合っていると頭に血が上って来る。
「ペリオドス様、何か話すふりをして、口付けて」
一体メイドがどこから見ていると言うのだろう、疑問に思いつつも抗い切れず、私はキャスケットの唇にそっと己の唇を寄せた。
「良いのか」
「何がです?」
何か話せと言われたので小声で問いかける。
「私に口付けられても。嫌ならばこんな真似はやめなさい」
「嫌じゃないです。それは、引き受けるって決めた時にクリスハルト様にも言われたし。ペリオドス様こそ、こんな小娘に触られて嫌じゃない?」
ある程度の触れあいは納得ずくだと可愛らしい口が言う。
「もっと、してもいい」
思わず出た本音にキャスケットは笑った。抑えが効かなくなりそうだ。
「して」
私は再び彼女の唇に向かう。キャスケットは逃げようとはしなかった。潤んだ目で私を見つめるが彼女は何も言わない。
「キャス……いいのか?」
「ペリ、オドス、様」
「寝室に」
「え、あ、きゃあ」
彼女を抱きかかえたまま立ち上がるとキャスケットは小さく悲鳴を上げた。寝室に続く扉を蹴り開け、寝台に彼女を横たわらせる。キャスケットの表情に驚きと戸惑いはあるものの、嫌がってはいないように見えた。
「キャス」
名を呼ぶと頬を紅潮させて視線を彷徨わせる。
「あの、ペリオドス様」
「君に……もっと触れてもいいだろうか」




