結城大海の恋
ユウキヒロミ(結城大海と書く)が訪ねて来た。
彼は四角い眼鏡をかけ短い髪をオールバックにして、公認会計士みたいなスーツ姿だった。
いささか堅苦しい感じだが、せいぜい30代半ばくらい。
「ここに草別たまきさんという方が住んでおられると聞いてきたのですが」
上ずったようなやや高い声。緊張しているかと思ったが、それが通常ということは話しているうちにわかった。
色々な事情で今たまきには戸籍というものがない。女性の姿をしてはいるが、元は人間ですらない。
こんなタイプの人が訪ねてくるなんてまずありえないことだった。
「申し遅れました。わたくし、こういうものです」
名刺にはこう書かれてある。
「財団法人、イルカの会、人財調査係、結城大海」
イルカ?
「我々は、草別たまきさんが、社会的なお名前はおろか戸籍もないことも把握しております。
別に捕まえに来たというわけではありませんのでご安心ください。我々は、彼女がこの国で生活するための必要な資金や身分証や書類をお渡ししに来たのです」
イルカの会は、たまきみたいな『なんでもない者』が人間になったとき、それをサポートするための財団ということだ。
「無理なく彼女が草別たまきさんであるといえる書類と、当面の生活資金をご用意してあります」
彼女はこのイルカの会がやっている孤児院で育ち、そこの系列の学校やらを出て、今は21歳で大学(これは、この辺では結構有名な私大である)を休学中ということになっている。彼女次第で復学もできるし、このまま辞めることもできる。
そういう筋書きが用意されているらしい。
お金は封筒に入った結構な厚さの現金と、彼女名義の通帳が用意されていて、結構な額のお金が振り込まれてある。
「暗証番号をお伝えします。解約していくつかのご自身の口座を作ってそこへ振り込んでも良いですし、この口座をそのまま使っていただいても構いません」
「なんでこんなに待遇が良いんでしょうか」
「彼女には特別な方からの援助があったのでして」
「特別な援助?」
「それをお伝えする前に、封筒のチェックと、たまきさんご本人をここに呼んでもらえませんか」
***
結城はやってきた彼女に僕にしたのと同じ話をし、それから玄関の外の壁に立てかけていた三味線を出してきた。
「これは、たまきさんに寄付をしてくれた方が、あなたに差し上げるようにといって、あずかったものです」
「その人は誰なんです?」
僕は尋ねた。
彼女を知っている人なんて、この家にたまにやってくるヘンテコなものたちや、この前きた大家をのぞいてはほとんど誰もいないのに。
「羽子板幸二さまといえば分かるでしょうか」
そうか、彼がいた。何を隠そう、僕が二人を出会わせたのだ。
そうして忘れていたが、彼の両親はとんでもない金持ちなのだ。
「なるほど事情は分かりました。じゃあこの三味線は?」
「私が何か楽器をやってみたいと言ったのを彼が覚えていたのかも知れません」
たまきは楽器を手に取り、べんべんと鳴らしてみせる。
「お気に召しましたか?」
結城が尋ねる。
「もちろんです」
彼女は答える。
「じつは、わたくしどもの間で、三味線のサークルがあるのですが、そこに入られてはどうです?」
べんべん。たまきが返事みたいに三味線を鳴らす。
「ええ。それはよろこんで」
「それから、あなた方お二人のご関係を聞いておきたいのですが」
べんべん。また三味線の音。どうやら彼女はこの楽器を気に入ったようだ。
「それはまたなんで?」
僕が尋ねる。
「私どもといたしましても、そういうことを把握しておいた方が、我々のたまきさんを始めとする方たちの理解がいっそう深まるというものでして」
べんべん。
要を得たのか、今のは音の切れが良い。たまきが話を引き取る。
「それは嘘でしょう結城さん。何か隠しておられませんか」
「ええと、それは」
結城が口ごもる。
「私、そういうことはすぐ分かるんです」べんべん。「隠しだてしたって無駄です」
今の発言は僕にとっても聞き捨てならないものだったが、素知らぬ顔でもっともらしくうなづいてみせる。
二人はしばらく静かに見合い、結城が答える。
「じつは、羽子板様にぜひ聞いてくるよう頼まれたことでして」
べんべん。たまきは追及の手をゆるめない。
「それで?」
「は、はあ、それで、たまきさんを彼の家へ連れて行くことが私の最重要任務の一つになっておりまして」
彼は胸ポケットからハンカチを取り出す。それで額の汗をぽんぽんぽんと叩く。
べんべんべん。
そのぽんぽんぽんに合わせて、たまきも三度三味線を鳴らす。
変な沈黙がおとずれる。
結城はハンカチを額に当てたまま固まっている。
たまきは彼が動いた瞬間、いつでも鳴らせるよう、荒野の拳銃早打ち対決みたいに三味線を構えている。
玄関の隙間が開いたのはそんなときだ。
さやかだ。
「お」
「さやか、今までどこ行ってたの」
久しぶりにみる彼女の様子に特に変わったところはなかった。出て行ったときと同じウグイス色のワンピース姿で、髪型も同じ。
裸足だがそれはいつものことだ。髪はちゃんと整えられてあり、服もきれい。しわや汚れはない。
彼女は三味線をかまえるたまきを見て目を細め、それからドアをぴしゃりと閉めてしまった。
僕は二人に中座を告げて、台所へ向かう。
案の定冷蔵庫を開けて中を漁っているさやかがいた。
「おう」
彼女は口にくわえていた魚肉ソーセージを手に持って言った。
半分猫なのだ。基本的に礼儀というものを知らない。
それでも一応ここに住んでいた少しの間、家電やお風呂、最低限の礼儀作法は一通りたまきが教え込んだ。
「今までどこにいたんだよ」
彼女はソーセージを食べようと必死でビニールと格闘していた。最終的に二つに引き割いて、ほお張っていた。もぐもぐもぐ。
ビニールをポイと放り、流しの食器が入ったボウルに顔を近づけ、そこの水をぺちゃぺちゃと舐めてから、満足そうに何度も顔を擦るしぐさをした。
僕は床のゴミを拾ってゴミ箱に放り、ブザーを鳴らし続ける冷蔵庫の中を少し片付けた。そのころにはさやかの姿は台所にはなかった。
「さやか、そっちに行った?」
玄関のたまきに尋ねる。
「きていません」
彼女は背を向けたまま、そっけなくそう言った。
縁側の方に行ってみる。
さやかは、僕たちが干そうとしていた布団で丸まって寝ていた。ちょうど干そうとしたとき結城が訪ねてきたのだ。
彼女の足の裏は目も当てられないほど真っ黒で、僕が畳を少し歩いただけでも、ざすざすという砂の感触と音がした。
「おい」
さやかは返事もしない。
「台所の戸口に、アジの干物が干してあるんだけど」
試しにそう言うと、彼女はあっという間に身を起こし、台所の方へ飛んで行ってしまった。
すぐさま追いかけるともういない。台所の裏口が開いている。
道路の真ん中で昨日仕込んだアジの一夜干しをがつがつと食べている彼女の後ろ姿があった。
結局二枚の干物を手に持ったまま、彼女は向こうに走っていった。
「行ってしまった」
僕は玄関に戻って二人にそう告げた。さやかは元気にやってはいるのだろう。
「さやかさんのお話は、今たまきさんから聞きしました。彼女と、あともうお一人の分の書類も速やかに用意しようと思います」
そう、もう一人いる。さくらのことだ。でも彼女も今、この家にはいない。見聞を広めたいとかで、どこかへ行ってしまったのだ。僕の財布と共に。
後日、保険証やらメンバーズカードやら回数券やらが送られてきた。
同封されていた手紙によると、岩手県にいるらしい。僕の財布は我慢してしばらく使うと書かれてあった。
自分のことは心配しないでくれ、免許証も送りたかったが、重量オーバーで定形外郵便の扱いになり、資金不足のため送れない。局留めで至急現金を送ってほしいと書かれてあった。
百円だけおくってやろうかとも思ったが、馬鹿らしくなってそのままにしておいた。財団が動くというのなら、もう送る必要はない。
でもさくらのことだ、金を手に入れたとたん、僕の免許証が魚肉ソーセージの皮みたいにぽいと捨てられる恐れもある。
やはりこちらからも少しばかり送っておこうと思う。
たまきは、受け取り書類にサインをし、僕も不備がないことを確認した。
でも結城は書類をカバンにしまっても、何か言いたげにこちらを見ていた。
「なんでしょう」
たまきが尋ねる。
結城は一度眼鏡の真ん中をくいと持ち上げる。目がきらりと光ったような気がした。
「さやかさんには、誰か決まったお相手はいるのでしょうか」
「ええとそれは調査かなにかということで?」
僕が確認する。
「いいえ、これは私の個人的な問題です。さやかさんを私に紹介してくれませんか」
彼は、僕らが何か言うよりもはやく、「実は」と話を始めた。
「これはぜんぶ幸二さまの脱脂綿みたいな脳みそからひねり出された策略なのです。
あの方はたまきさんのためにここのあるすべてのモノを私に用意させ、三味線教室へ誘い込み、そのまま成り行き任せに結婚する予定でおりました」
たまきのようすから、彼女はなんとなくそのことに感づいていたようだ。
結城の話は続く。
彼はもともと羽子板家の執事の息子で、父同様執事として勤めていた。
だが羽子板幸二がわけの分からない財団を立ち上げたことで、そこの実働部隊として全てを任され今にいたるという。
もともと結城には、屋敷で一緒に働くメイドの恋人がいた。でもこういう事情になって離れた途端、何度メールをしても返事がこない。
「だからこれは体の良い良い口減らしで、私はもうどこへも帰る場所がないのだと思います。きっと幸二様は、たまきさんを手に入れたら財団を解体し、その責任のすべてを自分に押し付け、逃げる気でいるのでしょう」
一応言うが、彼はそんなことをする人物ではない。彼とは幼稚園から高校までずっと一緒だった。
なんというか、何でも呑み込むウワバミみたいな男なのだ。
同時に底なしのぬるま風呂みたいにどこまでも温厚で、どこまでも鈍い。
物に対する異様な執念はあるが、性格的にも古くから務める従業員そんなひどいことなんてしないと思う。
たださして人に興味というものを持ってはいない男ではある。
たぶん何の説明もなく突然結城を異動させ、変な仕事を押し付けたのだろう。
でもそのことで結城は相当考え込んでしまったのではないか。
「で、そんなとき私の前に現れたのがさやかさんでした」
そんなときとはどんなときだろう。
べんべん。
三味線が鳴る。
「結城さん。続けて」
「あんな自由奔放でエキゾチックでワイルドな女性は、私はこれまで見たことがありません」
うん。それについては僕もまったく同意見である。でも猫に対してもだいたいそのような意見に落ち着く。
「私は恋に落ちてしまったようです」
べん、と三味線が鳴った。
「だから私はこれからさやかさんのために、急ぎ資金を大量投入してもらい、ちゃんとしたイルカの会を立ち上げるつもりです」
「それはいい考えだと思います。私たち以外にも、人知れず人間になって困っている方もいるかも知れませんし」
結城の目が子供のようにきらりと光る。
「ならば、さやかさんを私に紹介していただくことはできませんか」
べんべん。
三味線が鳴り、彼女は僕を見て、視線でさやかの行方を尋ねる。
とはいってもさやかはもうどこかに言ってしまった。
「さやかは猫になろうとしていた奴ですし、今だってどこに住んでいるのか、何を考えているのかわかりません。
無理に近づこうとすれば引っかかれたり噛みつかれたりもします」
結城はまったくひるむ様子はない。恋は盲目ということだろうか。
べんべんべん。
三味線が鳴った。
「お気持ちは伝わりました。結城さんが良いというなら、もらってあげて下さい」
それで結局、今度さやかが顔を見せたら、縛り上げてでもつかまえて、結城に会わせるということで話がついた。
スルメを一袋持って来れば確実にものにできるだろうことも、たまきは教えていた。
結城は満足をして意気揚々と帰って行った。
「もらってくれだなんて、なんであんなことを言ったの? 彼は確かに良さそうな人だけど、一応彼女の気持ちもあると思う」
二人きりになったとき、僕はたまきに尋ねた。どうも彼女の考えが分からなかったから。
べんべん。
三味線が鳴る。
「だって、猫みたいな子ですから、猫みたいに扱ってあげるのが一番だと思って」
それで終わりだというように、彼女は立ち上がって台所に消えた。
それが本心でないことくらい僕にだってわかる。
彼女は怒っていた。さやかと、それから僕に対して。
明日も閑話出します。




