38%の恋
例えば、「友情」というグラスがあって。
そこに「恋心」というアルコールを注いだとしたら──
その度数は、いったいどのくらいだろうか。
────ブッ、ブッ、ブッ。
短く連続して震えるスマホを鞄の中から探り出す。
明かりの少ない夜道に、目に刺さるようなブルーライトが浮かび上がった。
画面には「徹平」の文字。指先は、躊躇うことなく通話ボタンをスワイプしていた。
『────あ、もも? あのさ、今から一杯付き合ってくれない?』
電話越しの声は、どこか疲れを滲ませていた。
「……今どこ?」
『錦糸町』
「反対方向じゃん。面倒くさい」
『そこをなんとか』
面倒くさい、と返した時点で、桃子の足先はもう錦糸町行きの電車の方向を向いていた。
店名を聞かなくても、徹平がどこにいるのかなんて分かっている。
「とりあえず電車乗るから、一回切るね」
『はーい』
徹平の間延びした声を少し遠くに聞きながら、桃子は通話終了のボタンをタップした。
そのままの勢いで一度出たはずの改札を抜け、錦糸町へ向かう電車に乗り込む。
錦糸町に着く頃には、夜風が少し冷たくなっていた。
人通りの多い通りを抜け、一本奥の路地へ。
目立たないビルの二階、控えめなネオンサインが灯る“いつもの店”の扉を押し開ける。
ふわりと鼻先をくすぐる、スモーキーな香り。
カウンターの奥、見慣れた背中がすぐに目に入った。
徹平は、いつもの席でグラスを片手にしている。
「……早いじゃん」
声をかける前に、徹平が振り向いて、少しだけ笑った。
その笑い方が、高校の頃から何も変わっていなくて──胸の奥で思い出が光る。
「そっちが呼び出したんでしょ」
桃子はそう言いながら徹平の隣に腰掛け、荷物をカウンターの下にしまい込む。
「そうだけどさ、まさか本当に来るとは思わなかった」
「はぁ? 呼んでおいてそれ?」
「だってももが反対方向なの知ってるし、ダメ元だったし。それに何より“面倒くさい”って言ったじゃん」
「……まぁ、確かに言ったけど……。ていうか、そういうことばっか言うなら今からでも帰っていいんだよ?」
わざとしまった荷物を取り出して帰る素振りを見せれば、「ごめんって」と軽い謝罪と引き留める手が伸びてきた。
昔から、こういうどうでもいいやり取りのテンポだけは妙に噛み合う。
「何飲む?」
「……ジントニックでいいや」
「めっずらし。いつも一杯目はビールなのに」
「いいでしょ、そういう気分なの」
桃子の答えを受け、徹平はマスターに軽く合図を送り、グラスを一口。
その仕草がやけに板についていて──体育館で汗を流していた頃の徹平と、今目の前にいる彼が一瞬重なって、そして静かに離れていった。
「そういえばさ──」
徹平がグラスを軽く回しながら、ふと思い出したように言った。
「この前、ちょっとびっくりしたんだけどさ。うちの会社に、美咲が入ってきたんだよ」
「……え、美咲って、あの男バレのマネージャーの?」
「そうそう。中途採用で契約社員として。最初、名前見たときまさかと思ったけど、本人だった」
「へぇ……そうなんだ」
驚きと同時に、胸の奥がほんの少しだけ、ざらっと波打った。
“あの”美咲。
部活全体の空気をまとめていた、誰からも好かれていたマネージャー。
その名前を久しぶりに聞いた瞬間、体育館の匂いと、コート脇でタオルを配っていた横顔が一気に蘇る。
「偶然だよなー。最初、向こうも俺の顔見て『え!?』ってなってさ。懐かしくてちょっと盛り上がった」
徹平は無邪気に笑って、氷をカランと鳴らす。
その音が、やけに耳に残った。
「……そっか」
桃子は目の前に出されたジントニックのグラスに視線を落とした。
ライムの香りがふっと立ちのぼる。
胸の奥に広がるのは、懐かしさじゃない。
名前を聞いただけで、ほんの少し刺さるような感情だった。
「────美咲、どう? 変わっていなかった?」
桃子が投げかけた、酷く一般的な台詞。
しかし、その言葉の後ろには桃子も無意識のうちに違う意味を込めていた。
「変わってなかったよ。もちろん、年齢相応にはなってたけど。笑った時の感じとか、声とかは変わってなかった」
変わってなかったよ。
その一言に、思わず桃子は「彼女の気持ちも?」と問いかけそうになり、言葉を口先で転がして無理やり飲み込んだ。
その後も、美咲は仕事ができるから助かる、だの気配り上手だの。
褒める言葉がぽんぽんと出てきて、その何気ない音のひとつひとつが、鼓膜を通って脳を殴る。
────桃子と徹平は、ほんの数ヶ月だけ恋人同士だった。
高校では桃子は女子バレーボール部、徹平は男子バレーボール部に所属し、どちらもスタメンとして春高で活躍するほどの有力な選手。徹平は今でも社会人チームに所属しながら働いている。
……美咲は、強豪と呼ばれる男子バレーボール部を陰で支える存在だった。
選手として並び立つ桃子とは違い、マネージャーとして皆に頼られ、支える側。
その献身的な姿に惹かれる者は少なくなかったし、美咲が誰に想いを寄せているのかは、部全体の関心事だった。
徹平は誰にでも明るく、人当たりが良くて──顔もいい。
当然のように「美咲は徹平が好きらしい」という噂がひとり歩きし、真相は誰も知らないまま、空気だけが広がっていった。
けれど結局、二人が付き合ったという話は聞かないまま、桃子と徹平は同じ大学へ、美咲は別の大学へ進み、噂はいつの間にかひっそり消えた。
同じ部活で長く一緒に過ごしてきた桃子と徹平は、大学でも良く顔を合わせた。
そのことを、まだ大人になりきれていないティーンエイジャーが面白がって関係をつついた。
「二人、そんなに仲いいのに付き合ってないの?」
「付き合ったら絶対長続きしそう!」
「付き合っちゃえばいいのに。これだけ言われて付き合わない理由ある?」
断ってはいけない雰囲気、が流れる。
その独特な雰囲気は嫌でも桃子と徹平の肌をひりつかせる。
その場を丸く収めるためには、付き合うという手段しかなかった。
けれど、結局大学生のノリで付き合った関係は、すぐに“何か違う感”が露呈して終わった。
手は繋げるけど、ハグは何だか恥ずかしい。キスなんてもってのほか。
結局、友達としての距離感のほうがずっと居心地がよかった。
「付き合ったけど、やっぱりなんか違ったね」
そう、周囲も納得できて、互いに笑い合える半年を目安に、二人は自然と恋人関係を終わらせた。
恋人らしいことはほとんどしていなかった半年だったけれど、それでも桃子の中では甘い思い出として色濃く残っている。
別れてからも居心地の良さは変わらない。
男だとか女とか。
男女の友情がどうのこうの、そんな壁はとっくに超えた二人だと思っていた。
徹平は、そんな過去を「そんなこともあったね!」と笑って吹き飛ばせるのだろう。
そう思うと、胸の奥のいちばん柔らかい部分が、チクリと痛んだ気がした。
その数日後の夜。
一日中書類とにらめっこしていた頭は重く、肩も凝っている。
電車を降りた瞬間、ふっと夜風が頬を撫でて──その拍子に、無意識にスマホを取り出していた。
画面をスワイプし、通話アプリを開いて、徹平の名前の上で親指が止まる。
なんとなく、今日は自分から誘ってみようと思ったのだ。
別に深い意味なんてない。ただ、疲れた時に一緒に飲んで笑える相手が徹平だった。それだけのはずだった。
……そのはず、だった。
ふと、別の通知が目に入り、何気なくSNSを開く。
流れるように再生されたストーリーに、見慣れた横顔が映っていた。
「……徹平と、美咲……」
“いつもの店”の、“いつものカウンター席”。
二人が並んで笑い合っている。
ピースサインをする美咲と、グラスを掲げる徹平。
「再会を祝して! 久々にゆっくり飲み〜」という文字が、画面の端に踊っていた。
心臓が一瞬、跳ねた。
冷たいものが指先からじわりと広がっていく。
早くスワイプして次の投稿を見ればいいのに、動画を一時停止するために画面を長押ししたままの親指は、微動だにしない。
通知を閉じて、スマホをバッグに押し込む。
夜風が、さっきよりも少しだけ冷たく感じた。
美咲は変わっていなかった。
手間暇かけたであろう髪型とメイクは少し大人びていたけれど、愛くるしい笑顔も、その「可愛い」を作るための努力も、何もかもが昔のまま。
その隣に座る徹平は、桃子にも見せる同じ笑顔を向けている。
私だけじゃなかった。
私だけが、特別なわけじゃなかった。
変な焦燥感が胸の内に溢れて、苦しいくらいに心臓が脈打つ。
あのストーリーの写真が、いつ撮られたものなのかはわからない。
数日前かもしれないし、今日かもしれない。
通話ボタンをタップすれば、すぐに徹平と繋がる。
けれど、トーク画面に「応答なし」と出てしまうのが怖い。
スマホの向こうで徹平が何をしているのか、誰といるのか──それを確かめるのが怖くて。
桃子は結局、徹平を誘えないまま、自宅の最寄り駅へ向かう電車に乗り込んだ。
仕事帰りの人々で混み合う電車の中、桃子はぼんやりと窓の外を眺めていた。
反射するガラスの中に映るのは、自分でもよくわからない顔。
悔しいのか、寂しいのか──ただ、胸の奥に小さな棘が刺さったまま、呼吸だけが少し浅くなる。
あの夜から、徹平と連絡を取っていない。
SNSも怖くて開けないまま、数日が過ぎた。
ふとした瞬間、「付き合いました」なんて子どもじみた投稿を目にしてしまうのが、今はただ怖い。
(全然……友達なんかじゃなかったんだなぁ……)
友達で良かった。
会えばいつも互いの愚痴を語り合って、笑って共感して、全部をアルコールで飲み込んで。
あなたのおかげで、楽しい気持ちで一日を終えられる。
互いにとってそういう存在であれば、それで良かった。
“いつもの店”を、店名を言わなくても伝えられたり。
“今どこ”を、“これから行くよ”と変換できたり。
“疲れた”を、“飲みに行こう”と解釈したり。
それだけで十分だった──はずだった。
あの、何もなかった半年間。
手を繋いで歩くだけで精一杯で。
ゼロセンチの距離が気恥しかったのは、相手が“友達”だからだ、と信じて疑わなかった。
本当は──。
気づけば、電車を乗り継ぎ、“いつもの店”の前に立っていた。
控えめなネオンサインが夜風に滲んでいる。
徹平の姿がないそのカウンターは、少しだけ広く見えた。
扉を押し開け、カウンター席に腰を下ろす。
マスターが軽く顎を上げて「いつもの?」と聞いてきた。
桃子は小さく首を横に振る。
「……テキーラ、ストレートで」
マスターの手元で、透明な液体が小さなグラスに注がれていく。
ほんの数秒で差し出されたグラスを手に取ると、桃子は躊躇うことなくその液体を喉の奥へ流し込んだ。
喉が焼ける。
けれど、痛みは一瞬で、すぐに身体の奥に熱が広がっていく。
苦くて、強くて、でも妙に心地いい──まるで、自分の中に残った恋心を飲み干すみたいだった。
終わりが来る関係より、長く一緒に居られる関係で良かった。
きっと、この選択肢は間違ってはいない。
グラスの底に残る一滴を見つめながら、ふっと小さく笑う。
喉の奥が痛いのは、流し込んだアルコールのせいか、それとも──。
夜の喧騒の向こうで、電車の走る音が遠くに響いていた。
スマホの充電、残り────38%
飲干したテキーラ────38%
喉を焼いた恋心────38%
その日、桃子の隣に座る影はなかった。
「友達のままでいたい」が本心のときもあれば、「言ったら壊れる」が怖いだけのときもある──その曖昧さを、夜のカウンターと一杯のテキーラに預けました。
ももこの“面倒くさいと言いながら向かう足”や、“動画を長押ししてしまう親指”に、少しでも自分を見つけてもらえたら嬉しいです。
もし感想欄に、あなたの「38%」の思い出(友情でも恋でも)を一言だけ置いてもらえたら、作者は泣いて喜びます。応援・ブクマ、心から感謝します。




