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38%の恋

作者: アオ
掲載日:2025/10/08


例えば、「友情」というグラスがあって。

そこに「恋心」というアルコールを注いだとしたら──

その度数は、いったいどのくらいだろうか。




────ブッ、ブッ、ブッ。


短く連続して震えるスマホを鞄の中から探り出す。

明かりの少ない夜道に、目に刺さるようなブルーライトが浮かび上がった。

画面には「徹平」の文字。指先は、躊躇うことなく通話ボタンをスワイプしていた。


『────あ、もも? あのさ、今から一杯付き合ってくれない?』


電話越しの声は、どこか疲れを滲ませていた。


「……今どこ?」

『錦糸町』

「反対方向じゃん。面倒くさい」

『そこをなんとか』


面倒くさい、と返した時点で、桃子の足先はもう錦糸町行きの電車の方向を向いていた。

店名を聞かなくても、徹平がどこにいるのかなんて分かっている。


「とりあえず電車乗るから、一回切るね」


『はーい』


徹平の間延びした声を少し遠くに聞きながら、桃子は通話終了のボタンをタップした。

そのままの勢いで一度出たはずの改札を抜け、錦糸町へ向かう電車に乗り込む。


錦糸町に着く頃には、夜風が少し冷たくなっていた。

人通りの多い通りを抜け、一本奥の路地へ。

目立たないビルの二階、控えめなネオンサインが灯る“いつもの店”の扉を押し開ける。


ふわりと鼻先をくすぐる、スモーキーな香り。

カウンターの奥、見慣れた背中がすぐに目に入った。

徹平は、いつもの席でグラスを片手にしている。


「……早いじゃん」


声をかける前に、徹平が振り向いて、少しだけ笑った。

その笑い方が、高校の頃から何も変わっていなくて──胸の奥で思い出が光る。


「そっちが呼び出したんでしょ」


桃子はそう言いながら徹平の隣に腰掛け、荷物をカウンターの下にしまい込む。


「そうだけどさ、まさか本当に来るとは思わなかった」

「はぁ? 呼んでおいてそれ?」

「だってももが反対方向なの知ってるし、ダメ元だったし。それに何より“面倒くさい”って言ったじゃん」

「……まぁ、確かに言ったけど……。ていうか、そういうことばっか言うなら今からでも帰っていいんだよ?」


わざとしまった荷物を取り出して帰る素振りを見せれば、「ごめんって」と軽い謝罪と引き留める手が伸びてきた。

昔から、こういうどうでもいいやり取りのテンポだけは妙に噛み合う。


「何飲む?」

「……ジントニックでいいや」

「めっずらし。いつも一杯目はビールなのに」

「いいでしょ、そういう気分なの」


桃子の答えを受け、徹平はマスターに軽く合図を送り、グラスを一口。

その仕草がやけに板についていて──体育館で汗を流していた頃の徹平と、今目の前にいる彼が一瞬重なって、そして静かに離れていった。


「そういえばさ──」


徹平がグラスを軽く回しながら、ふと思い出したように言った。


「この前、ちょっとびっくりしたんだけどさ。うちの会社に、美咲が入ってきたんだよ」

「……え、美咲って、あの男バレのマネージャーの?」

「そうそう。中途採用で契約社員として。最初、名前見たときまさかと思ったけど、本人だった」

「へぇ……そうなんだ」


驚きと同時に、胸の奥がほんの少しだけ、ざらっと波打った。

“あの”美咲。

部活全体の空気をまとめていた、誰からも好かれていたマネージャー。

その名前を久しぶりに聞いた瞬間、体育館の匂いと、コート脇でタオルを配っていた横顔が一気に蘇る。


「偶然だよなー。最初、向こうも俺の顔見て『え!?』ってなってさ。懐かしくてちょっと盛り上がった」


徹平は無邪気に笑って、氷をカランと鳴らす。

その音が、やけに耳に残った。


「……そっか」


桃子は目の前に出されたジントニックのグラスに視線を落とした。

ライムの香りがふっと立ちのぼる。

胸の奥に広がるのは、懐かしさじゃない。

名前を聞いただけで、ほんの少し刺さるような感情だった。


「────美咲、どう? 変わっていなかった?」


桃子が投げかけた、酷く一般的な台詞。

しかし、その言葉の後ろには桃子も無意識のうちに違う意味を込めていた。


「変わってなかったよ。もちろん、年齢相応にはなってたけど。笑った時の感じとか、声とかは変わってなかった」


変わってなかったよ。

その一言に、思わず桃子は「彼女の気持ちも?」と問いかけそうになり、言葉を口先で転がして無理やり飲み込んだ。


その後も、美咲は仕事ができるから助かる、だの気配り上手だの。

褒める言葉がぽんぽんと出てきて、その何気ない音のひとつひとつが、鼓膜を通って脳を殴る。


────桃子と徹平は、ほんの数ヶ月だけ恋人同士だった。

高校では桃子は女子バレーボール部、徹平は男子バレーボール部に所属し、どちらもスタメンとして春高で活躍するほどの有力な選手。徹平は今でも社会人チームに所属しながら働いている。


……美咲は、強豪と呼ばれる男子バレーボール部を陰で支える存在だった。

選手として並び立つ桃子とは違い、マネージャーとして皆に頼られ、支える側。

その献身的な姿に惹かれる者は少なくなかったし、美咲が誰に想いを寄せているのかは、部全体の関心事だった。


徹平は誰にでも明るく、人当たりが良くて──顔もいい。

当然のように「美咲は徹平が好きらしい」という噂がひとり歩きし、真相は誰も知らないまま、空気だけが広がっていった。

けれど結局、二人が付き合ったという話は聞かないまま、桃子と徹平は同じ大学へ、美咲は別の大学へ進み、噂はいつの間にかひっそり消えた。


同じ部活で長く一緒に過ごしてきた桃子と徹平は、大学でも良く顔を合わせた。

そのことを、まだ大人になりきれていないティーンエイジャーが面白がって関係をつついた。


「二人、そんなに仲いいのに付き合ってないの?」

「付き合ったら絶対長続きしそう!」

「付き合っちゃえばいいのに。これだけ言われて付き合わない理由ある?」


断ってはいけない雰囲気、が流れる。

その独特な雰囲気は嫌でも桃子と徹平の肌をひりつかせる。

その場を丸く収めるためには、付き合うという手段しかなかった。


けれど、結局大学生のノリで付き合った関係は、すぐに“何か違う感”が露呈して終わった。

手は繋げるけど、ハグは何だか恥ずかしい。キスなんてもってのほか。

結局、友達としての距離感のほうがずっと居心地がよかった。


「付き合ったけど、やっぱりなんか違ったね」


そう、周囲も納得できて、互いに笑い合える半年を目安に、二人は自然と恋人関係を終わらせた。

恋人らしいことはほとんどしていなかった半年だったけれど、それでも桃子の中では甘い思い出として色濃く残っている。


別れてからも居心地の良さは変わらない。

男だとか女とか。

男女の友情がどうのこうの、そんな壁はとっくに超えた二人だと思っていた。


徹平は、そんな過去を「そんなこともあったね!」と笑って吹き飛ばせるのだろう。

そう思うと、胸の奥のいちばん柔らかい部分が、チクリと痛んだ気がした。



その数日後の夜。

一日中書類とにらめっこしていた頭は重く、肩も凝っている。

電車を降りた瞬間、ふっと夜風が頬を撫でて──その拍子に、無意識にスマホを取り出していた。


画面をスワイプし、通話アプリを開いて、徹平の名前の上で親指が止まる。

なんとなく、今日は自分から誘ってみようと思ったのだ。

別に深い意味なんてない。ただ、疲れた時に一緒に飲んで笑える相手が徹平だった。それだけのはずだった。


……そのはず、だった。


ふと、別の通知が目に入り、何気なくSNSを開く。

流れるように再生されたストーリーに、見慣れた横顔が映っていた。


「……徹平と、美咲……」


“いつもの店”の、“いつものカウンター席”。

二人が並んで笑い合っている。

ピースサインをする美咲と、グラスを掲げる徹平。

「再会を祝して! 久々にゆっくり飲み〜」という文字が、画面の端に踊っていた。


心臓が一瞬、跳ねた。

冷たいものが指先からじわりと広がっていく。

早くスワイプして次の投稿を見ればいいのに、動画を一時停止するために画面を長押ししたままの親指は、微動だにしない。


通知を閉じて、スマホをバッグに押し込む。

夜風が、さっきよりも少しだけ冷たく感じた。


美咲は変わっていなかった。

手間暇かけたであろう髪型とメイクは少し大人びていたけれど、愛くるしい笑顔も、その「可愛い」を作るための努力も、何もかもが昔のまま。

その隣に座る徹平は、桃子にも見せる同じ笑顔を向けている。


私だけじゃなかった。

私だけが、特別なわけじゃなかった。


変な焦燥感が胸の内に溢れて、苦しいくらいに心臓が脈打つ。


あのストーリーの写真が、いつ撮られたものなのかはわからない。

数日前かもしれないし、今日かもしれない。

通話ボタンをタップすれば、すぐに徹平と繋がる。

けれど、トーク画面に「応答なし」と出てしまうのが怖い。

スマホの向こうで徹平が何をしているのか、誰といるのか──それを確かめるのが怖くて。

桃子は結局、徹平を誘えないまま、自宅の最寄り駅へ向かう電車に乗り込んだ。


仕事帰りの人々で混み合う電車の中、桃子はぼんやりと窓の外を眺めていた。

反射するガラスの中に映るのは、自分でもよくわからない顔。

悔しいのか、寂しいのか──ただ、胸の奥に小さな棘が刺さったまま、呼吸だけが少し浅くなる。


あの夜から、徹平と連絡を取っていない。

SNSも怖くて開けないまま、数日が過ぎた。

ふとした瞬間、「付き合いました」なんて子どもじみた投稿を目にしてしまうのが、今はただ怖い。


(全然……友達なんかじゃなかったんだなぁ……)


友達で良かった。

会えばいつも互いの愚痴を語り合って、笑って共感して、全部をアルコールで飲み込んで。

あなたのおかげで、楽しい気持ちで一日を終えられる。

互いにとってそういう存在であれば、それで良かった。


“いつもの店”を、店名を言わなくても伝えられたり。

“今どこ”を、“これから行くよ”と変換できたり。

“疲れた”を、“飲みに行こう”と解釈したり。


それだけで十分だった──はずだった。


あの、何もなかった半年間。

手を繋いで歩くだけで精一杯で。

ゼロセンチの距離が気恥しかったのは、相手が“友達”だからだ、と信じて疑わなかった。

本当は──。


気づけば、電車を乗り継ぎ、“いつもの店”の前に立っていた。

控えめなネオンサインが夜風に滲んでいる。

徹平の姿がないそのカウンターは、少しだけ広く見えた。


扉を押し開け、カウンター席に腰を下ろす。

マスターが軽く顎を上げて「いつもの?」と聞いてきた。

桃子は小さく首を横に振る。


「……テキーラ、ストレートで」


マスターの手元で、透明な液体が小さなグラスに注がれていく。

ほんの数秒で差し出されたグラスを手に取ると、桃子は躊躇うことなくその液体を喉の奥へ流し込んだ。


喉が焼ける。

けれど、痛みは一瞬で、すぐに身体の奥に熱が広がっていく。

苦くて、強くて、でも妙に心地いい──まるで、自分の中に残った恋心を飲み干すみたいだった。


終わりが来る関係(恋人)より、長く一緒に居られる関係(友達)で良かった。

きっと、この選択肢は間違ってはいない。


グラスの底に残る一滴を見つめながら、ふっと小さく笑う。


喉の奥が痛いのは、流し込んだアルコールのせいか、それとも──。


夜の喧騒の向こうで、電車の走る音が遠くに響いていた。


スマホの充電、残り────38%

飲干したテキーラ────38%

喉を焼いた恋心────38%


その日、桃子の隣に座る影はなかった。


「友達のままでいたい」が本心のときもあれば、「言ったら壊れる」が怖いだけのときもある──その曖昧さを、夜のカウンターと一杯のテキーラに預けました。

ももこの“面倒くさいと言いながら向かう足”や、“動画を長押ししてしまう親指”に、少しでも自分を見つけてもらえたら嬉しいです。

もし感想欄に、あなたの「38%」の思い出(友情でも恋でも)を一言だけ置いてもらえたら、作者は泣いて喜びます。応援・ブクマ、心から感謝します。

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