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神様の夜ノ傀儡人形  作者: 大嶽丸
第二章
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第二章一話 その名は責任の意味を持つ

明かされるシュピュアとバリーレの過去。

2人とも、心に少なくない傷を持っていた。

良くも悪くも、桃矢という存在は、2人の心に陽を差すか?

第二章一話、開幕です。

 シュピュアが初めて舞踏会に出たのは、まだ八歳の時だった。


 白銀刺繍のドレスに身を包まされ、照明の下では、紅蓮のような髪が鮮やかに燃え立ち、会場に集まった貴族たちの視線を引いた。

 ──まるで、火の精霊が迷い込んだかのように。


 微笑め、うなずけ、座るときは角度を整え、背筋は決して曲げるな。

 あらゆる所作は“家”の格を示すためのものだった。

 父が求めたのは、完璧で、無謬で、話題になる“飾り”だった。


 「口角が足りない。もう一度。」


 舞踏会から戻ると、笑顔の練習が始まった。

 自分が笑っていたのかどうか、シュピュアにはよくわからなかった。


 ──彼女の名は、リーゼロッテ・フォン・ホーエンベルク。

 だがそれは、“彼の最高傑作”としての名だった。


 遺伝子の配合、才能の選別、養育環境の最適化。

 父と呼ぶ男は、幾人もの子どもを生み、育て、世に送り出した。

 そのうちの幾人かは“孤児”として軍に引き取られ、幾人かは記録にすら残っていない。

 彼女がその事実を知ったのは、軍に入ってからのことだった。


 知らなかった兄妹たちの存在。

 ──けれど、そんなことはどうでもいい。

 自分だけが“成功体”だった。

 だから、自分だけが価値を持っている。


 そう、信じるしかなかった。


 どんなに浮いていても、

 どんなに“普通”がわからなくても、

 ──自分には努力しか、なかった。


 


「……また、あの光。」



 髪が光を乱反射していた。


 ソファの上で、炎の髪がパチパチと火花を散らす。

 手で押さえると、じんわりと熱が掌に移った。


 起き上がり、隣を見る。

 まだバリーレは寝息を立てていた。


 部隊。仲間。補佐官。

 そのどれもが、まだどこか遠い言葉に感じられる。


 けれど──


 今日は、昨日と違う。

 その実感が、確かに胸の奥に残っていた。


 辺りを見渡す。

 規律という言葉がしっくりくる部屋だ。


 コの字型の室内はそれぞれ、扉によって仕切られている。

 奥の部屋はキッチンとシャワールーム、トイレだ。

 シャワールームは水を出していいのは15分まで、これでもアイゼンライヒでは長い方だ。


 リビングには、壁際の棚にずらりと並ぶ書籍が背表紙を覗かせており、軍制に関する専門書から、戦術論、近代魔術学、さらには古びた哲学書や歴史書まで揃っている。

 革張りの分厚い本も多く、長年読み込まれているせいか、角が擦り切れているものも多い。


 棚の上段には、艶を帯びた勲章がガラス張りの小さな陳列ケースに収められている。

 それは装飾というより、“過去の務めを記録するためのラベル”のように、無機質に並べられていた。


 床には深いえんじ色のマットが敷かれている。擦り切れた箇所もあるが、隅は丁寧に揃えられており、踏み込むたびに僅かに沈む柔らかさがあった。

 コーガ上等兵は昨夜、このマットで睡眠をとったようだが、流石にあまり眠れてはいないだろう。


 そして、窓際の小さな冷蔵棚には茶色いガラス瓶のビールがずらりと並び、その横には飲みかけの陶器製ジョッキが置かれていた。

 口縁には乾いた泡の跡が残り、生活の気配と戦場の記憶が隣り合っているようだった。


 そして、奥の部屋。

 恐らく中尉の寝室だろう。


 二度、ノックをする。

 返事はない、が入った所で怒る上官ではない事は推測出来た。


「失礼致します。」


 入室すると、クーゲルが酒瓶と分厚い兵法書を抱えて床で雑魚寝していた。

 ベッドなどというものはなく、あるのはクローゼットと酒樽だけであり、椅子や1人がけ用のソファといったものすらなかった。

 見る人が見れば、物置と誤認しても不思議じゃない。


「……。」


 人間には誰にでも二面性はある。

 あたしとて勿論そうだ。

 しかし…。


「これは…酷い…。」


「んぉ?」


 クーゲルが目を覚ましたようだ。

 クーゲルは軽く背伸びすると、挨拶をした。


「おはよう、シュピュア伍長。起こしに来てくれたのかな?」


Jawohl,(はい) wie(その) Sie(通り) sagen.(です)


「うん、ご苦労。今後は起こさなくていいぞ。」


「はっ!」


「面倒だからもう少し崩して会話してくれ。最低限の礼儀さえあればいいよ。」


 シュピュアは困惑した。

 生来、規律を重んじて生きてきたのだ。

 崩し方なぞ知らなかった。


「あの…。」


「なんだ、そんな事も出来んのか?いずれどこかで破綻するぞ。」

「肩の力をもう少し抜け、と言っているんだ。コーガにするようにな。」


 あんな感じでいいのか。

 拍子抜けだった。


Ach(あっ)、わかりました。」


「それが普通だよ。」


 普通。

 シュピュアにとっては価値を測りかねる言葉だ。

 生来普通を知らずに生きてきた。

 父親からは、普通などありえない、と。

 常に最優秀であれ、と教育を受けてきた。


 ……でも、普通なんて知らない。

 だから私は、正解を“精度”で埋めるしかなかった。


 自分に出来ない普通という所作が既に、シュピュアに劣等感を感じさせていた。


「…ュア、聞いているのかシュピュア?」


Ähm…(えーっと…)、すみません。聞き逃しました。」


 クーゲルは酒瓶を仰ぐと、続けた。


「換気の時間だ。窓を開けてくれ。コーガとバリーレもそれで起きる。」


 クーゲルの声に応じて窓を開けると、朝の冷たい空気が一気に流れ込んできた。

 すぐに誰かのくしゃみが聞こえる。バリーレだ。

 その音に釣られるように、コーガ上等兵も身体を起こした。


 生活音が広がっていく。

 それはまるで、“部隊”という言葉が、今この瞬間だけ、本当の意味を持ったような気がした。




 自分のくしゃみに驚いて目を覚ました。

 鼻がむずむずする。冷気が頬に触れる。


「おはようございます、シュピュア伍長……」


 ぼんやりとした頭で言葉を口にしてから、自分の声に驚いた。

 こんな風に、誰かと挨拶を交わす朝が来るなんて──少し前までは、想像すらしていなかった。


 あの、くすぐったい記憶が蘇る。


 絵本のページ。

 勇者さまの旅路。


「強くて優しい人になりたい」

 そう思ったのは、あの絵本の最後の場面を見た夜だった。


 ぼんやりしている頭を起こす。

 コーガ上等兵も床でまだぼんやりしている。


 一番下っ端の私が一番しっかりしないでどうするの!

 そう思うに至るに時間はそうかからなかった。


 そして、後から遅れて少しずつ周囲を認識しだす。

 男の人と一晩一緒に過ごしたのだ。

 うぶなバリーレにはそれだけで顔を赤くするには充分だった。


「あっ、バリーレさんおはよう。顔赤いみたいだけど風邪引いた?」


「大丈夫です!!」


 考えないようにしよう、そう思う事にした。

 なんでこんな事になっているんだっけ……。


 バリーレは昨日の事を思い出す。


 昨日、あれから小隊は直帰となった。

 しかし、兵舎の手続きがゲリラのせいで片付いていないそうで。

 結局クーゲルの士官部屋で寝る事となった。

 当然、部屋には1人がけソファが1つ、3人がけソファが1つしかないのだ。

 ……誰かが雑魚寝するしかない。


 しかし、"女の子はちょっと特別"、という価値観が植え付けられているらしい、日本人のコーガ上等兵には、シュピュアとバリーレを床に寝かせる選択肢はなかった。


 ──もっとも、アイゼンライヒにそんな区別はない。

 孤児院では皆平等、良くも悪くも皆一緒だった。

 軍でも平等、いい結果を出そうと出すまいと。


 でも、コーガ上等兵は特別扱いしてくれた。

 初めての感情、まだ本人は気付いていないが、恋に近いそれを抱いたバリーレが、寝起きで桃矢に対して顔を赤くするのも詮無き事だった。



「今日はベッドを調達しませんか?」


 クーゲルが振る舞う手料理を食事中、コーガ上等兵が言った。

 ベッドと言うと、バリーレには孤児院の三段ベッドの印象しかない。

 一番上の段は夜中こっそり起きていても見つかりにくくて、一番下と真ん中は、支えの鉄の棒に私物を引っ掛けられる為、一長一短だった。


 どこを取ろうかつい迷ってしまう。


「バカ者、三日もレディの部屋に寝泊まりさせる筈なかろうが。今に見ていろ、すぐ兵舎の辞令が出る。」


 エッグスタンドの半熟ゆで卵をスプーンで食べている勇者様──もとい、クーゲル中尉閣下がそう言う。

 思えば寝る前も、モノポリー(人生ゲーム)でどんちゃん騒ぎをして楽しかった気がする。


「食べないの?バリーレさん。」


 フォークを口に咥えて呆けていると、心配してくれる。

 こんな普通が服を着てるような凡人をだ。

 素敵な人だ。


「食べないなら食べちゃうよ!」


 シュピュア伍長が私のヴルスト(ソーセージ)にフォークを伸ばす。

 こういう食事の奪い合いには慣れている。

 フォークを弾いてすかさずシュピュアのヴルストにフォークを突き刺すと、一気に口に放る。


「あぁぁぁ!!あたしのヴルスト取ったー!」


「奪おうとするからだ、奪う覚悟がある者は当然奪われる覚悟もあるものだ。自業自得というやつだ。」


「ちぇ…。」


 あまりに奪い合いが弱過ぎて、ちょっと悪い事したかなという気持ちになる。


「あっ、シュピュア伍長、俺のソーセージ、どうぞ!」


「いいのー?ありがとー!」


 やっぱり優しい、誰にでも平等に優しいのかな?

 私だけに特別優しかったらいいのに…。


 勇者様が作る朝食は、とってもボリューム満点で美味しかった。

 食べ終わると、また呆けてしまう。


 よく思い出すのは、父親が亡くなったという説明の場面だ。

 世界の中心だった人が突然この世を去った。

 母親というものを知らなかった私は、孤児院のシスターに母親というものを感じ、見出していた。


「はいはい、食べ終わったら早く片付けなさいね!」


 早く遊びたくてお皿を放っていたから、口酸っぱく言われたっけな。


 日がな勇者ごっこに明け暮れた。

 棒を振り回したり、箒を振り回したり、時には鉄パイプを振り回したりもした。


 槍を持った大きな勇者様が、私の頭を撫でてくれて、孤児院に寄付もしてくれたらしい。

 当時は寄付なんてよくわからなかったけど、今にして思えば感謝してもしきれない。


 私も立派な勇者様になる為に、まずは軍給金を一部孤児院に送った。

 特別になれた気がして、とても多幸感に包まれた気がした。


「大きくなったら、何になるの?」


 記憶が混濁してる…気がする。


「強くて優しい勇者様に──。」


「──丈夫?おーい、バリーレさん!」


 気がつくと、換気の時間も終わっていて、自分の皿も片付いていた。


「えっと…寝てたみたいです。すみません。」


 慌てて立ち上がる。


「いっぱい食べたから、多分血糖値スパイクが起きてたんだよ。」

「食べ過ぎたりすると、血糖値が過剰に上がったり下がったりして、急激に眠くなる症状の事を指すんだけど、多分そうだと思う。」

「食事量ちょっと気をつけようか。」


「はい、すみません。」


 コーガ上等兵の説明は、やさしくて、理屈っぽくて──でも不思議と心地よい。


 けれど。


 心の中で膨らんでいたあの“勇者さま”の影が、急に遠のいたような気がした。


 やっぱり、私はまだ夢を見てるだけなのかな──。




 外に出ると、小雨が降っていた。


 クーゲルは軍帽を目深に被り直すと、一歩前に出た。

 バリーレは素早く傘代わりの防水ケープを広げ、後ろから桃矢とシュピュアも続く。


「向かうぞ。まずは兵舎の辞令確認だ。その後、装備の再点検。」


「了解です、中尉閣下!」


 シュピュアが敬礼する。桃矢とバリーレも、後に続くように小さく頷いた。


 石畳の通りを横切り、軍務局別館へ向かう。

 雨のせいか、朝の点呼後の喧騒は幾分静かだった。兵士たちの足音と、旗のはためく音だけが耳に残る。


 軍務局の門衛が一礼し、クーゲルは無言で応じるとそのまま中へ。


 軍務局の受付で、クーゲルは革の手袋を外し、カウンターの事務官に識別証を提示した。


「クーゲル中尉。新任補佐官二名の配属確認、それと兵舎の辞令確認だ。」


事務官は無言で書類をめくり、鉛筆でいくつかのチェックを入れると、記帳台の裏から数枚の紙と金属の鍵束を取り出した。


「区画B-17、四人部屋。午後1300時までに移動、記録票に署名を。点呼あり。」


クーゲルは署名を済ませると、書類の控えを桃矢に押し付け、ぶっきらぼうに言い放った。


「午後まで自由行動だ。鍵は任せる。」


 クーゲルが鍵を渡すと、バリーレが小さく声を上げた。


「四人部屋!? じゃあ、コーガ上等兵と……」


「おい。」


 シュピュアが肘で軽く小突く。


「はっ、はい、了解しました!」


 慌てて姿勢を正し、敬礼する。


「私は別件がある。午後には戻る。各自、問題があれば逐次報告しろ。」


 言い残し、クーゲルは雨の中に消えていった。


 シュピュアが鍵を手に取り、くるくると指の間で回す。


「さて……兵舎、見に行く?」


「うん、行こう!」


 バリーレが弾んだ声で答えた。桃矢は少しだけ複雑な表情で、二人の後を追った。




 兵舎の扉を開けると、微かに煤の匂いと革靴の油の匂いが鼻をかすめた。

 鉄製のベッドが壁に沿って規則正しく並び、その脇には個人ロッカーがひとつずつ配置されている。

 白熱灯はなく、壁には蝋燭式の壁掛け灯が取り付けられており、各ベッドにはランタンが吊られていた。炎は穏やかに揺れ、天井に淡い影を踊らせている。


 床は石敷きで冷たく、中央には共有の金属製ゴミ箱が置かれていた。靴磨き道具一式──馬毛のブラシ、油、布巾──が、各自のロッカーの上に揃えて置かれているのは軍規によるものだ。

 部屋の隅では石炭ストーブが赤く光り、時折ぱちりと石炭が弾ける音がした。


 奥の扉を抜けると、簡素な洗面台と便器、簡易シャワーが設けられた衛生室がある。シャワースペースには防水カーテンが吊られており、床には粗い目の排水溝が切ってある。


 掲示板には今週の配属予定と巡回任務のローテーション表、そして士官からの注意事項が整然と並んでいる。

 唯一の娯楽と言えるのは、小さな木の棚に据え付けられたラジオだけだ。つまみをひねれば、微かなノイズと共に軍の広報番組が流れ始める。


「……これ、が?」


 桃矢は一歩踏み込んだきり、思わず立ち止まった。

 ここが寝起きする場所──そう思うには、あまりに素っ気なさすぎる。

 食事を囲むテーブルもなければ、私物を置けそうな棚もない。

 温もりのかけらもなく、ただ「過ごす」ではなく「滞在する」ための箱、という印象が強かった。


「ここが兵舎……最低限って感じだな。」


 桃矢がため息混じりに言うと、背後から入ってきたシュピュアが、少しだけ目を丸くした。


「最低限? これはかなり“良い方”だよ。」


 その言葉に、桃矢は思わず振り返った。


「え、これが?」


「はい。壁が石造りで遮音性が高い。ベッドのスプリングも新品で、蝋燭灯は毎晩交換される仕様です。しかも、換気用の高窓がある──前線の兵舎では、まず望めない待遇です。」


 事もなげに、そう語るシュピュアの顔は本気そのものだった。


「それに、ロッカーがひとり一つあるのも贅沢ですよ?普段は相部屋で共有です。」


 「まじか……」


 桃矢は、ベッドの隙間から見える靴磨き用の布巾や、丁寧に並べられたラジオのツマミに目を向けた。

 確かに、ひとつひとつは綺麗に保たれている。古くとも、壊れていない。

 ──でも、どうしても「良い」とは思えなかった。


 「……やっぱり、感覚が違うんだな。」


 ぽつりと呟くと、傍でロッカーの鍵を試していたバリーレが顔を上げる。


「私は好きですよ、こういうの! ちょっと懐かしい感じがします。」


 そう言って笑うバリーレは、たしかに嬉しそうだった。

 孤児院育ちと聞いた彼女なら、たぶんこの硬さにも、無機質さにも、どこか親しみを感じているのかもしれない。


 ──彼女たちにとっては「安心できる場所」であって、

 ──自分にとっては「本当にここで暮らすのか」と身構える場所。


 同じ部屋に立っていても、感じ方がこんなにも違う。


 桃矢は少しだけ背筋を伸ばした。

 自分が知らないことの多さを、改めて実感する。


 しかし──聞く限り、これは“高待遇”なのだ。

 そう思えば、心持ちは少し軽くなる。


 昨日の戦闘は、正直いっぱいいっぱいだった。

 だが、結果がこれなら──頑張った甲斐もある、というものだ。


「昨日の戦果のご褒美……でしょうか?」


 バリーレが、誰にともなくぽつりと口にする。


「たぶんね。コーガ上等兵は“覚悟なんて出来てない”って言ってた割には、ちゃんと戦えてたし。」


 それは──違った。


 あのときの自分は、ただのやけくそだった。

 ひたすら走り、動き、振り絞るようにして生き延びた。

 命の危険に晒され、アドレナリンが出て、感覚が麻痺していたに過ぎない。


 終わってみれば、足は震えていた。

 「人が死なないように」と祈っていた。

 ──それだけが、理性の最後のかけらだった。


 インドラが光となって消えたから、血を見ずに済んだ。

 だからトラウマにならなかった。ただ、それだけだった。


「……そうは言われましても、多分俺は、まだ“対人間”相手はダメそうです。」


 ふーん、と気の抜けた返事をするシュピュア。


 そのとき、バリーレが掲示板に目を留めた。


「……あの、あそこ。何か書いてあります!」


 3人は掲示板の前に集まった。


 《娯楽について──モノポリー程度までなら使用を許可する。盛り上がりすぎて周囲に迷惑をかけぬように。》


 それを読んだ瞬間──


「やった……!」


「やりましたね!」


 3人は小さく、しかし本気で歓喜した──が、すぐに現実に引き戻された。


「……で、そのモノポリーって、どこでやるんですかね?」

 桃矢が兵舎を見回しながら呟く。


 テーブルはない。椅子もない。ロッカーとベッドだけの空間。どう頑張っても、盤を広げるスペースがない。


「うーん……じゃあ、床?」

 バリーレが言うが、さすがに気が進まない様子だった。


 そのとき、シュピュアがぽつりと提案した。


「……備品庫を見に行きませんか?予備の机や椅子くらい、余ってるかもしれません。」


「え、それって勝手に持ってきて大丈夫なやつ?」


「正式には申請が必要ですけど、“現場で困っていて、一時的に調整します”ってことにすれば、問題ありません。中尉の許可があれば、尚更。」


「おお……頼れるなぁ、シュピュア伍長……!」


「ふふん、これでもエリートですから。」


 バリーレがぱちぱちと拍手を送る。桃矢は苦笑しつつも、立ち上がった。


「じゃあ、調達班、出発といきますか。」




 備品庫は兵舎棟の裏手、石畳の中庭を挟んだ小さな平屋だった。

 鉄製の扉には錆びた軍用の鍵が掛かっており、壁には「補給部第8課 備品管理室」と古びた看板が掲げられていた。


 シュピュアが迷いなくノックする。

 しばらくして、ゆっくりと扉が開いた。


「……何の用だ?」


 現れたのは、目元に深いクマをつくった、やる気のなさそうな兵士だった。

 顎には剃り残し、シャツはボタンをひとつ外したまま。

 制服の裾も無造作に出ている。


「備品を確認しに来ました。使用可能な机と椅子があれば、一式お借りしたいのですが。」


 シュピュアが丁寧に申し出ると、兵士は大きくあくびをして、無言で鼻をすすった。


「はぁ?いま在庫整理中なんだけど。……勝手に持ってくつもりか?」


 桃矢が一歩前に出かけたが、それより早く、シュピュアがそっと軍帽を軽くずらして、前髪を払った。


「補佐官任命付き士官候補生伍長、シュピュアです。」


 その一言とともに、肩章の階級を見せる。

 一瞬で空気が変わった。


「……っ!? こ、これは失礼いたしました伍長殿ッ!」


 兵士は音を立てて直立し、踵を鳴らした。数秒前までのだらけた態度は跡形もない。制服の裾を慌てて引っ張って整え、姿勢を正す。


「す、すぐに在庫を確認いたします!机と椅子、人数分でよろしいでしょうか!」


「はい、三人分。できれば、軽量なタイプが望ましいです。」


「かしこまりました!……少々お待ちくださいませ!」


 兵士は小走りで奥へと消えていった。桃矢とバリーレは目を見合わせて、ぽかんとしていた。


「……なんです、今の?」


「エリートの名刺みたいなもんよ。」


 シュピュアは、そっと髪を戻しながら小さく笑った。


 備品庫の裏手に回ると、兵士はすでに三人分の椅子と机を引っ張り出して並べていた。木製の簡素なつくりだが、金属の補強がされており、それなりに頑丈そうだ。


「こちら、予備として保管されていた物です。多少の傷みはございますが……」


「充分です。問題ありません。」


 シュピュアが一歩前に出て答える。姿勢は正しく、声にも淀みがない。


「担ぎ出しは……私が──」


 兵士が申し出ようとした瞬間、バリーレが一番大きな机を肩に軽々と担ぎ上げた。まるで木箱か何かを持つような身のこなしだった。


「ありがとうございます、でも大丈夫です!」


 バリーレはにこっと笑って、そのまま振り返る。見た目に反して確かな筋力を感じさせる動作だった。


 桃矢も負けじと椅子を一脚抱えたが、背もたれが少しぐらついていて、気を遣いながら慎重に持ち上げる。


 シュピュアは無言のまま、残った椅子を片手で引き寄せ、ひょいと両腕で持ち上げた。

 その動きには無駄がなく、訓練された軍人らしい確かさがあった。


 周囲に指示を飛ばすでもなく、黙々と作業に徹する様子は、普段の堅さとは別の頼もしさを感じさせる。


「では、戻りましょう。」


 シュピュアが一言だけ発して歩き出すと、3人の影が石畳に伸びた。

 肩に机を担ぐバリーレ、苦労しながらもついていく桃矢、そして涼しい顔のまま椅子を運ぶシュピュア。


 ──たったこれだけの備品でも、今の彼らにとっては十分だった。


 兵舎へ戻る道すがら、何も言葉を交わさなくても、何となく“帰る場所”ができたような気がしていた。




 兵舎に戻る頃には、ちょうど集合時刻の10分前を指していた。


 廊下に入ると、壁の掛け時計が控えめに「カチ、カチ」と音を刻んでいる。遠くでブーツの足音が響くたび、誰かの部隊が動いている気配が伝わってきた。


 3人は備品をそれぞれの場所に置き、簡単に身なりを整える。


「……そろそろですね。」


 シュピュアが静かに言った。すでに上着の前を正し、襟の乱れも一切ない。表情にはいつもの凛とした張りが戻っている。


「じゃ、行きましょうか。置いてかれたら洒落にならないですし。」


 桃矢が言うと、バリーレも元気よく頷いた。


「はい!」


 3人は小走りで廊下を抜け、クーゲル中尉が待つ士官室へと向かった。


 入室すると、クーゲルは来たかと小さく呟き立ち上がる。


「思ったより早かったな、結構結構。」

「ではこれより、"荷物"を受け取りに行く。」


 桃矢はピンと来た表情をするのに対し、シュピュアとバリーレはいまいちわかっていないようだ。


「何を呆けている、置いていくぞ。」


 クーゲルが言うと、3人は慌てて歩き出した。




  クーゲルに続いて廊下を進むと、空気が次第に冷たくなる。

 建物の構造そのものが違うのかもしれない。


 数分もしないうちに、地下へと続く螺旋階段に差しかかった。

 鉄製の手すりはひんやりとしており、シュピュアが自然と指先を引いた。


 桃矢が口を開く。


「……ここ、前も来ました?」


「前回も同じ場所だった。記録上、軍直下の物資配給所という扱いになっているが──実質的には能力者の一次受け渡し所のような場所だ。」


 クーゲルの声は平坦だった。


 階段を下りきると、厚い鉄扉の前に到着した。

 無骨な取っ手と、側面に取り付けられた管制パネルが時代を感じさせる。


 クーゲルが軽くノックすると、やや遅れて内部から錠が外れる音がした。


 金属音と共に扉が開くと、室内は灰色の壁と天井に囲まれ、中央に簡素な木製ベンチと記録台があるだけだった。

 すでに一人の係官が書類を手にして立っており、顔を上げてクーゲルを一瞥する。


「中尉閣下。例の”荷物”が少々遅れておりまして。」


「そうか。では、ここで待とう。椅子を借りても?」


「どうぞ。数は足りないかと存じますが……」


 ベンチの端にクーゲルが腰を下ろし、他の3人も壁際に立ったり、簡素な木箱に腰かけたりして静かに時間が流れる。


 換気扇の微かな唸り音と、書類の紙がめくられる音だけが、空間を埋めていた。


 やがて、遠くから小さな靴音が響き始める。

 かすかに、けれど確かに──こちらへと近づいてくる気配があった。


 「……来たか。」


 クーゲルが、ゆっくりと立ち上がった。


ノック音が2回響くと、クーゲルが入れという。


すると、細くて童顔な──見た目だけなら少女のような兵士が現れた。


「本日付けで訓練兵から正規兵になりました、トリヒターと言いまぁす!こちら、書類となっておりまぁす♡」


声まで高く、滑らかで──何より口調が妙に軽い。

バリーレは目を丸くし、シュピュアは「これは何かの冗談ですか」と言いたげな顔で無言を貫いていた。


桃矢はというと──思考の処理が追いつかなかった。


「う、うむ。貴君はなんだ、その…随分とクセというか、アクが強いな…」


「えー?中尉閣下、それって僕を褒めて頂けてるって認識でいいですかぁ?」


「面倒だ、さっさと行くぞ。」


一同は「はい」と返事をした──が、口調はそれぞれにバラついていた。




 雨はまだ降り続いていた。


 といっても、本降りではない。傘を差すかどうか、迷う程度の細かい霧雨だった。

 インビスの屋台には簡素な軒先があり、そこでフリカデッレ(※1)を焼いている。肉と香辛料の焼ける香りが、湿気を押しのけるように漂っていた。


「ここにするぞ。少し遅い昼食だ。」


 クーゲルがあっさりそう言って、屋台の前に立った。

 その言葉を受けて、バリーレとシュピュアが素直に並ぶ。


 ──……え、ここで?


 桃矢は一瞬、足を止めた。


 足元は濡れているし、風向きによっては屋根の下でも微かに霧雨が入り込んでくる。

 日本でならこういう天気の時は、屋内を探して食事を取るのが普通だった。

 立ち食いで、雨の中で、しかも制服がしっとり濡れるのを気にしないなんて──。


「……ここで、ですか?」


「不満か?」


 クーゲルがパンを受け取りながら言う。


「いえ、あの……はい。」


「アイゼンライヒ人はな、少しの雨で屋内に逃げたりはしない。傘さえ差さずにビールを飲む連中だ。濡れても死にはせん。」


 事実、他の兵たちもフードを被る程度で誰も文句は言っていない。

 桃矢の常識だけが、ここで浮いていた。


「……文化の差、ですかね。」


「適応していけ。貴様のその柔らかさは、生き残る上で武器になる。」


 クーゲルがフリカデッレを幾つか注文すると、店主から受け取る。

 手渡されたフリカデッレの熱が、意外なほどしっかりと指に伝わってくる。

 雨の冷たさに慣れかけていた手には、どこか染み入るような温かさだった。


「うっま!バリーレさん、これ!めっちゃジューシー!」


 かぶりつくと、耐油紙──ワックスペーパーに包まれていたフリカデッレは肉汁を出した。

 ミートボールらしいが、ぱっと見はハンバーグだ。


「ほんとだ……あ、でもちょっと熱い……っ、ふー、ふー!」


「軍の支給食とは違いますね、こういうの、嬉しいです。」


 シュピュアはフリカデッレを買うとついてくる丸パンをちぎって食べている。


「雨の中で食べる理由はぁ、芯から温まれるっていうメリットがあるからっ、やめられないですね〜!」


 トリヒターは丸パンを半分に千切り、ハンバーガーのようにしていた。


 小さなインビスの下、霧雨の向こうで車のタイヤが水を弾いていく。

 雨音と、焼ける音と、誰かの笑い声が交錯していた。


 ──ここでは、これが「普通」なんだ。


 桃矢は新たな普通を噛み締めもう一度、フリカデッレをかじった。

 クーゲルをちらりと見る。


 難しい顔をしていた。


「酒が欲しいんですか?」


 そう訊くと、クーゲルは答えた。


「欲しいには欲しいが…ここの店は失敗だったな。二度と来ることはないだろう。」


 クーゲルは相変わらず味にうるさいようだ。


「しかし、これなら赤ワインが欲しくなるな。」


 桃矢とクーゲルは2人で軽く笑い合った。


 雨足が強くなり始めると、小隊は移動を始めた。

 "治安維持"の為に酒場に向かう。


 2つ向こうの通りを抜けると、酒場に到着する。

 "治安維持"という大義名分を掲げる為仕方ないのかもしれないが、クーゲルは毎回違う酒場に顔を出しているようだ。


「店主、赤ワインだ。赤ワインをくれ。」


 カウンターに着席する前から声を掛ける。


「中尉さん、5人は多いからテーブル行ってくれるかい?」


「む、そうか…。すまなかったな。」


 長い事一人で"治安維持"をしてきた習慣が抜けないのだろう。

 長い月日、一人孤独な戦いをし続けてきた事は想像に難しくなかった。


 テーブルに移ると、クーゲルは飲み始めた。


「いいんでしょうか…、警邏中にお酒を飲んでしまって。」


 バリーレが心配そうにクーゲルを見つめる。


「いいんですよ、これも仕事ですから。」


 桃矢がフォローすると、シュピュアとトリヒターが驚いた。


「お酒を飲むお仕事…って事ですかぁ?」


「にわかには信じられませんが…。」


「良いんだ、これが上から与えられた仕事なのだからな。


 クーゲルはそう返す。


「……ですが、軍規違反ですよ。」


 シュピュアは小さく悪態をつくように指摘する。

 しかし、クーゲルは不敵に笑う。


「我々はフォルケンハイムなど怖くないぞー!」


 ワイングラスを天高く掲げる。

 すると、民衆達も続く。


「おー!」「そうだー!」「さっさとぶっ潰しちまえー!」「ハッハッハッ!」


 クーゲルがワイングラスを口元に近付け目を閉じる。


「これが私、そして貴君らの"仕事"だよ。」


 周りには聞こえないように、またしても不敵に笑いながらつぶやいた。


「カッコいい…。」


 トリヒターが小さく呟いた。


「店主ー!黒ビール頼むー!あーそれからヴルストを幾つか持ってきてくれー!」


 ガハハと豪快に笑うと、渡されたジョッキを軽く飲みまた笑う。


「かっこよくない…。」


 一瞬前の憧れが嘘のように、今度は呆れたような声が漏れ、頬をふくらませる。


 暫くして、店を後にすると雨は強くなっていた。


「諸君、帰るぞ〜!」


 クーゲルは陽気だった。

 浴びるように飲んで機嫌が良いのだろう。


「……これって毎日、続くんですかぁ?」


 トリヒターの声は、半分期待で、半分絶望だった。


「多分そうですよ。そうは言っても、俺も配属されてまだ1週間経ってないですけどね。」


 桃矢は軽く指で頬をぽりぽり掻きながら笑顔を見せた。


「戦闘ってなさそうですねぇ。」


 トリヒターが言う。


「そうでもないよ、あたしとバリーレなんて配属初日に神話生物と交戦させられたし。あたしにはエリートが内陸にいるって印象かな。」


 シュピュアが話に割り込む。


「僕は別にエリートじゃないのに、どうしてこんなとこ配属になったんでしょうかぁ…。」


 肩を落とすも、桃矢がフォローする。


「あくまでシュピュア伍長の推測ですから!気にしないで!ね!」


 すると、クーゲルが足を止める。


「これまでの貴君の評価は誰かが付けたものを誰かが審査し、誰かが配属先を決めた。しかし、これからは誰かが見ている、のではなく、我々隊内の同胞が見ている。」


 少し硬い口調で話し始め、全員背筋が伸びる。


「励めよ。」


 優しく、甘ったるい一言を残しまた歩き出す。


 一同共に、急速に冷え込む黄昏の中、見せた事のないクーゲルの姿に立ち尽くすばかりだった。

ご拝読ありがとうございました。

前話で全く深掘り出来なかった2人のバックボーンの深掘り回でした。

とりあえず、主要登場人物は多分全員出せたんじゃないかなと思います。

次回はキャラ達がちゃんとプロット通り動いてくれたら、トリヒターの深掘り回を出来たらいいなぁ…。


さて、今回の注訳です。

※1→フリカデッレ(Frikadelle)

小隊が小雨の中で食べた「フリカデッレ」は、ドイツで広く親しまれる肉料理です。

粗挽きの挽き肉にパン粉や卵、香辛料を加えたそれは、まるでハンバーグとミートボールの中間のような存在です。


本来なら食堂で座って食べるようなものを、濡れたまま屋台の軒先で立ったまま食べる──

それもまた、この世界の“普通”。

文化や常識の違いを噛みしめながら、桃矢たちの距離が少しだけ縮まった、そんな一幕でした。

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