第一章五話 強さは、見せびらかすものではなく
静かな街角、立ち上る油煙と代用コーヒーの香り。
けれど、世界は確実に崩れていた。
「勇者」がビールを飲み干し、異常が日常として流れていく帝国。
少年はまだ知らない。
自分が踏み入れたその場所が、かつて“戦場”と呼ばれた地の延長線上にあることを。
静の中に潜む動乱の気配の第5話です。
朝の光が差し込む店内は、活気と油煙が混じったような空気が鼻をつく。
労働者たちがパンを頬張り、片隅では近所の爺さん連中が、苦味の強い代用コーヒーを手に雑談を回している。
木製のテーブルには傷跡と油染みが年輪のように刻まれていて、古びたラジオがかすれた音で音楽を流していた。
桃矢はカウンター席の端に座り、何も注文せず、水の入ったコップに手を添えていた。
──朝食はクーゲルの手で完璧に済まされている。これ以上は、胃が受け入れてくれそうになかった。
隣ではクーゲルが、早くも二杯目のビールを空けている。
おかわりを頼むのとほぼ同時──店の奥から、椅子かテーブルが倒れるような音が響いた。
「なんか始まりましたけど!」
桃矢はあわててクーゲルに声をかける。
振り返ると、酔っ払いが立ち上がり、何か喚きながら別の客に絡んでいる。
だが、店主は陽気に笑って言った。
「よりによって元勇者様がいる時にケンカとは、ついてねえなぁ、あいつ。」
クーゲルは小さくため息をつき、立ち上がる。
振り返った、その瞬間だった──彼女の姿が視界からすっと消える。
否、消えたのではない。
見ると、酔っ払いのもとにすでに接近しており、アッパーを顎に叩き込んでいた。
椅子やテーブル、客を掻き分けての接近。
直線距離でも3メートル、迂回すれば5.5メートルはあっただろう。
だが、他の客が彼女の動きに気づいたのは──酔っ払いが大の字に倒れてからだった。
その動きには誰もついていけなかった。
この間、およそ0.5秒未満。
桃矢もまた、殴打音に反応して振り返った時には、すでにアッパーが決まっていたのを見ただけだった。
……速い。
それは、人間離れしていた。
「店主、ビールをもう一杯。」
クーゲルは涼しい顔で席に戻る。
小柄なその背中からは、確かに“元勇者”の片鱗が感じられた。
「コーガ、貴君が連行するように。」
そう言うと、嬉しそうにビールを受け取る。
しかし、桃矢には連行先はわからない。
「あの、すみません。何処へ連れて行けば…?」
「そう言えば説明してなかったな。」
ビールを一気飲みすると、ジョッキを置く。
「75ペニヒです。」
店主は義務的に言った。
「1マルクだ。釣りの25ペニヒはチップだ、とっとけ。」
「はい、毎度どうも。」
真顔で答える。
どうやらアイゼンライヒには愛想笑いという文化はないようだ。
クーゲルが出口に向かって歩き出したので、慌ててついていく。
完全に伸びている酔っ払いの両腕を掴んで引っ張るも、中々進まない。
「どうした?」
「いえ、思ったより重くて…。」
クーゲルは鼻で笑うと続ける。
「貧弱だな、もっと鍛えろ。」
酒焼けした声でそう言うと、クーゲルは酔っ払いの片足を掴み、変わらぬ速度で歩き出した。まるで布団を引きずるように、酔い潰れた男の体が地面を滑っていく。
桃矢は慌ててあとを追いながら、そっと言葉をかける。
「精進します……。こういう人って多いんですか?」
「いや、多くはない。大抵の人間は自分を律している。」
クーゲルはあっさりと言った。規律の国らしい答えだと桃矢は思う。
「正直、ちょっと混乱してしまって……クーゲルさんに頼ってしまいました。」
「何を言ってる?相手はただの酔っ払いだぞ。ただの人間だ。」
クーゲルは片目だけでこちらを見ながら、ゆるく笑う。
「世の中にはもっと恐ろしい連中がいる。貴君の力を使うべき相手は、そいつらだ。」
「たとえば……?」
「妖怪、仙人、神話生物──今この世界で最も警戒すべき存在だ。その中で、警戒すべきという一点においては神話生物が一番危険だ。」
クーゲルの声が少しだけ低くなる。
「旧インド軍の残党が、未だ神話生物と共に各地でゲリラを起こしている。何処からともなく現れ、町を襲撃しては、忽然と姿を消す。人間の集団──おおよそ百人単位──と必ず一緒に現れることが特徴だ。」
「えっ、そんな……それ、どこから出てくるんですか?」
「わからん。それが問題だ。建物の中にも湧く。周囲に予兆がないことから、当時の軍上層部は“インドが瞬間移動技術を確立していたのではないか”とまで考えていた。」
思わず桃矢は足を止めた。
「瞬間移動……。じゃあ、見張りも、包囲も、何の意味もないってことですか……?」
「ああ。しかも、神話生物は並みの武器では傷一つつかない。ヘアテンを貼った兵士が肉薄して、ようやく削れるかどうか……そんなほどだ。」
「……」
恐ろしさは、理解できた。
だが、どこか現実味がない。
桃矢の中では、まだ“別の世界の話”という感覚が残っていた。
例えば遠くの国の戦争の話、ニュースでしか聞いたことのない災害の話。
自分がその現場に立つなど、想像できるはずもなかった。
「最低でもS3級の火力を持つとされている。過去にはS7級──“終末級”とまで記録された神話生物もいた。」
「え……じゃあ、そいつがまた現れたら……?」
「現れないことを祈るしかないな。だが、我々が知っているのは“現象”だけだ。仕組みは何一つわかっていない。」
それが事実なのだと、クーゲルの言葉には誤魔化しがなかった。
桃矢は、唇を結んだ。
もしも──自分の出した岩が、あんな怪物にすら届かないのだとしたら。
自分の中にある恐怖と、世界の底に蠢く“なにか”が、少しずつ重なり始めている気がした。
考えすぎると足取りまで重くなる。
桃矢は無理やり思考を打ち切ると、目の前の石畳に視線を落とし、静かに息をついた。
その頃には、いつの間にか街の喧騒が戻ってきていた。
石造りの通りを曲がった先で、制帽を被った兵士二人とすれ違った。
一人は背負ったライフルを軽く下ろし、クーゲルに向かって敬礼する。
「中尉、そちらの人物は?」
「酔っ払いだ。店内で暴れていた。引き取れ。」
「了解、手間をおかけしました!」
兵士の一人が桃矢の代わりに酔っ払いを引きずり始めた。
桃矢は黙って横に避ける。
クーゲルは少し満足そうに鼻を鳴らした。
「楽ができたな。」
クーゲルが前方を見る。
「インビス(※1)が見える、寄って行こう。」
そうクーゲルが言うと、歩を早めた。
「インビスってなんですか?」
そう聞くと、クーゲルは驚いたように返した。
「貴君の世界にはインビスないのか?軽食店だ。ほら、シュニッツェル(※2)頼むぞ。」
クーゲルはシュニッツェルと付け合わせのソース、それにコーヒーを頼み手早く支払いを済ませた。
「なんでこんなにトマトソースたっぷりなんですか……?」
2人は立ち食い用の丸テーブルに皿を置いた。
「昔、イタリア人の料理人が同行していたんだ。勇者一行で旅をしてた頃にな。」
クーゲルは懐かしむように続ける。
「その男が、シュニッツェルにトマトソースをかけて、チーズまで乗せて出してきてな。“パルミジャーナ”と名乗ってな。最初は何の冗談かと思ったが……一口目で黙らされた。」
そして当然のようにナイフを入れる。
「それ以来、私はこれじゃないと満足できん。……まあ、パリパリザクザクの衣も嫌いじゃないがな。」
そして苦笑混じりに付け加えた。
「イタリア人はどうして飯が上手いのか……これは、アイゼンライヒがまだドイツだった頃からの謎だよ。」
クーゲルって、何歳なのだろう──。
素朴な疑問が浮かんだが、女性に年齢を訊ねるのは失礼かもしれないと、桃矢はそっと口をつぐんだ。
「そもそも、アイゼンライヒの人間はこんなにたくさん食べたりはしない。“自分すら管理できない者が、他人を管理できるはずがない”。だから、大食漢は出世できんのさ。」
──規律が厳しいなぁ、と桃矢は思った。
じゃあ、どうしてクーゲルさんはこんなに食べるんだろう?
ふと、そんな疑問が浮かんだ。
朝から酒を飲み、これだけ食べて、しかも堂々としている。
軍国国家でそんなふるまいが許されているのが、どうにも不思議だった。
「それはな──」
口に出す前に、クーゲルがナイフを置いて静かに言った。
「私は“戦勝宣伝特務大使”だ。“フォルケンハイムに対して、我らは恐れを抱かぬ”という空気を国内に浸透させるための、歩く広告塔さ。」
言いながら、コーヒーを煽る。
「だから昼間から酒を飲み、食事も豪勢に、笑って見せる。──“この国には余裕がある”と、民に思わせることが私の仕事のひとつだ。」
「つまり、これも作戦のうち、ってやつですか。」
桃矢が苦笑まじりに言うと、クーゲルもわずかに笑った。
「そのとおり。“私の強さ”と“私の飄々とした態度”は、国にとって“平和の象徴”である必要がある。……苦しいことは見せるな、勝者の顔だけ見せろ。それが命令だ。」
「私が昼間から書類仕事もせず、その辺を歩いていて、夜に"副業"をせざるを得なかったくらい低賃金だった理由さ。」
それならば、なおのこと疑問が残る。
わざわざ誰がこんな仕事を好んでするものか。
「何故他の仕事をしなかったんですか?」
「私には戦いしか出来ないからだよ。他の事を出来る自信がなかった。しかし私は、民達の希望になり過ぎた。」
「勇者としての仕事が終わった後、待っていたのは“選択”だった。」
クーゲルはコップの底を見つめながら、淡々と続けた。
「軍に残るなら“予備兵の宣伝大使”として、戦わずに笑っていろ。辞めるなら、一般市民として身を隠して生きろ──そう言われたよ。」
「……辞めたら、どうなってたんですか?」
「恐らく、身分を隠して娼婦だ。実際、私はそうしていたしな。」
桃矢の表情が曇る。
しかしクーゲルはそれに構わず、むしろ突き放すように続ける。
「強すぎる力は、国家にとって脅威でしかないんだよ。アイゼンライヒだけじゃない。他国の勇者一行も似たようなものだ。罪をでっち上げられた者、消息を絶った者──様々だ。」
「ひどい……。」
「民衆の希望だった者が、戦いが終わった瞬間に不要になる。それが“勝者の国”だ。綺麗事じゃ、国家運営はできん。」
クーゲルは椅子に背を預け、肩をすくめた。
「だが、今は“敵”がいる。フォルケンハイムという、かつての同胞がな。いつでも戦争が再開できるように、我々は“戦える状態”を保たなければならない。皮肉な話だが──おかげで私は、表に出ていられる。」
「……俺は、運が良かったんですね。」
「運とタイミング、それに一撃の火力。貴君がもう少し早く現れていれば、私の後を追って“消されていた”かもしれないぞ。」
冗談めかしてはいたが、その瞳には笑みがなかった。
「私は、戦うことしかできない。戦場こそが、私が“生きていてもいい”と感じられる唯一の場所なのだ。」
桃矢は重苦しい空気を変えようと、無理やり話題を逸らした。
「あ、あの……他の勇者や、旅の話を聞かせてくださいよ。」
「……そう長い戦いでもなかったぞ?十日ほどの電撃戦で終わった話だ。」
思わず言葉を失う。
──魔王討伐とは、もっと壮絶で長い戦いのはずじゃなかったのか?
「各国で選ばれた勇者たちは、一度一箇所に集められてな。そこから魔王城近辺まで輸送された。作戦会議と移動で一週間。残り三日で作戦実行。」
「……魔王は、どれほど強かったんですか?」
「ああ……そうだな。勇者部隊は50人編成だったが……正直、半数もいれば十分だったかもしれん。」
クーゲルは、かすかに苦笑して続ける。
「しかし“倒したのは確かだが、もしかしたら死んだふりかもしれん”と言い出した奴がいてな。」
「……それ、あり得たんですか?」
「いや、ほぼないと思っていた。だが、あの時の我々には“その言葉”は嬉しかった。」
クーゲルは静かにコーヒーが入ったカップを回す。
「“魔王が死んだふりをしているかもしれない”。これがあれば、堂々と数日城に居残ることができる。“警戒のための滞在”──大義名分が立つからな。」
「……で、その間は?」
「何をする?魔王城だぞ?敵はいない。兵站はある。監視の目もない。」
「──飲むしかなかろうよ。」
まるで悪友との武勇伝のように、彼女は肩を竦めた。
「飲んで食って寝て、たまに魔王の死体をつついて反応を確かめる。それが、勇者部隊の“最終作戦”だった。」
桃矢は、その話を聞きながら──思っていた“英雄譚”というものが、脆く崩れていくのを感じていた。
栄光ではなく、命令。祝福ではなく、義務。
拍手喝采の裏で、誰も知らない“本当”が、静かに土を被って埋もれている。
──それでも、こうして隣にいるクーゲルは、確かにその“土の下”から生きて出てきたのだ。
桃矢はもう一度、自分の右手を見た。
自分も、これからあの“土の下”に沈む側なのだろうか──
クーゲルの話にはそう思わせる凄味があった。
しかし、聞き流せない話もあった。
「魔王より妖怪や神話生物の方が強かったんですか?」
「あぁ、そうだな。間違いないだろう。」
語気に迷いはなく、むしろ“見たことがある者”の確信すらにじんでいた。
「あの大魔王とやら、中国や日本には一切攻撃しなかったからな。」
「大魔王の敗因は明白だった。“自分が強い”と思い込んだことそのものが、最大の敗着だったのだ。」
「日本の妖怪とかは同行しなかったんですか?」
「あぁ、しなかった。どうせ土地もくれない、攻撃もしてこない相手に攻撃する理由がないとな。」
「だから人間のみの部隊となった。だが、人間のみでも過剰戦力だった所を見ると、妖怪が興味を示さなかったのはなんとなく力量を察知したからではないかと私は推測している。」
桃矢はふと気になった。
「クーゲルさんは、いろんな敵と戦ってきたと思うんですけど──俺は、最初に何と戦うことになると思いますか?」
クーゲルはふふんと鼻を鳴らすと、手短に答えた。
「民衆だよ。」
「民衆?」
「あぁ、貴君は今私の指揮下にある。ならばする仕事は、民衆へのプロパガンダだ。」
「まだ軍も貴君の能力を把握しきれていない、戦わせるというよりは私のように、余裕を振りまくのが仕事だ。」
「つまり、戦う相手は自分自身という事になるな。勿論、ゲリラが発生したら応戦するし暴動が起きれば鎮圧する。それも仕事だ。」
桃矢は一見簡単なようで難しいと思った。
「戦いたいのか?心配せずともいずれフォルケンハイムとの国境警備辺りに配属されるだろう。」
桃矢は正直戦いたくはなかった。
人の生き死にに関わる度胸がまだなかったからだ。
「俺は……できることなら、戦いたくないです。」
「それでも、何かを守るために──そんな日が来るんでしょうか。」
「自分の命に危機が迫れば、そうも言っていられなくなるさ。」
「あるいは、もっと大切なもののためにな。」
クーゲルは、カップのコーヒーを飲み干すと静かに続けた。
「貴君はまだ、“紙の階級”に過ぎない。その立場を活かして、今のうちに色々考え、色々感じておけ。」
「前に進む準備くらいは、しておくといい。」
そう言って、クーゲルは空になった皿を手に立ち上がった。
──12時35分。
日差しは、優しく二人を照らしていた。
ご拝読ありがとうございました。
今回はやや短めです、次回はちょっと動きがある話を書けたら…などと思ってます。
書けたらいいなぁ…勝手にキャラが動くので、作者である私にはほぼ制御不能なのです。
次に何が起きるかも…。
さて、注訳解説コーナーです。
※1→インビス(Imbiss)
作中に登場した「インビス」は、ドイツ語で“軽食スタンド”や“ファストフード的な飲食店”を指す言葉です。
駅の構内や街角、工場地帯など、さまざまな場所にあり、手軽に温かい食事が取れる場所として親しまれています。
感覚的には立ち食い蕎麦屋や屋台、あるいはコンビニのホットスナックに近い存在かもしれません。
提供されるメニューは地域によって異なりますが、有名なのはカリーヴルスト(カレー風味のソーセージ)やシュニッツェル(カツレツ)、フライドポテト、サンドイッチなど。
朝から営業している店舗も多く、ドイツの庶民的な日常を象徴する風景の一つです。
※2→シュニッツェル(Schnitzel)
今回登場した「シュニッツェル」は、いわゆるドイツやオーストリアで親しまれている“カツレツ”です。
薄く叩いた肉(多くは豚肉や子牛肉)にパン粉をまぶして揚げ焼きにした料理で、日本の「とんかつ」にも似ていますが、こちらは油で“揚げる”というより“焼く”調理法が多く、衣は薄くサクサクと軽やかな仕上がりになります。
ドイツではレモンを添えて食べるのが定番ですが、地域や店によってはマッシュルーム入りのクリームソースや、作中にも出てきたようなトマトソース+チーズの“パルミジャーナ風”アレンジも人気です。
ちなみにこの“シュニッツェル・パルミジャーナ”は、イタリアの「パルミジャーナ(Parmigiana)」をベースにドイツで発展した派生系といわれています。
ボリュームがあり、安くて早くて美味い。そんなシュニッツェルは、ドイツ庶民の胃袋を支えてきたソウルフードのひとつであり、ドイツ人の血液と言われても差し支えがないとされています。
今回は以上です。
愚筆失礼致しました。