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神様の夜ノ傀儡人形  作者: 大嶽丸
第一章
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第一章四話 紙の階級

 軍から一時的に出してもらった桃矢の心は落ち込んでいた。

 訳もわからぬまま捕まり、訳もわからぬまま出されたのだ。不思議はない。

 そんな中、クーゲルは心情を知ってか知らずか、部屋へ招待するのだった。

 空がわずかに青み始める。

 いわゆる「かわたれ時」──“彼は誰”と見紛うほど、輪郭が曖昧になる時間帯だ。

 けれど今の桃矢には、彼女の軽やかな軍靴の足音だけで、誰が隣にいるかはすぐにわかる。


「この時間帯はやや冷えるな。青年、首尾はどうか?」


 白い息をわずかに吐きながら、クーゲルが尋ねる。


「首尾……まあ、クーゲルさんのおかげでなんとか脱出できたし、上々ってことでいいのかなぁ。」


 何に対しての“首尾”かは曖昧だったが、昨夜からの騒動のことだろうと当たりをつけて返す。


「貴君に渡すものがある。これを授与する。受け取れ。」


 そう言ってクーゲルが差し出したのは、一枚の書類だった。

 紙には軍の紋章と、桃矢の名前のアルファベットの表記、そして数字の羅列──登録番号が記されている。


「君が“兵士”として一時的に登録された証だ。これがなければ、貴君は兵器か、囚人として扱われる。」


 嬉しいやら、なんやら──複雑な感情がこみ上げ、桃矢は頭をぽりぽりとかいた。


「両手で受け取らんか、この無礼者!」


 雷のような一喝に、桃矢の背筋が凍る。


「貴君は相変わらず常識がないな。よろしい、私が徹底的に叩き込んでやる。」


 ……改めて、両手で紙を拝領する。


 「あ、ありがとうございます。」


 クーゲルは小さくうなずくと、当然のように言った。


「次からは、背筋も正せよ。」


 そう言うとまた歩み始める。

 桃矢は慌ててついて行く。


「貴君は仮登録されたに過ぎない為、兵舎で寝泊まりする事は出来ん。悪いが暫くは私の部屋で寝泊まりしてもらう。いいな?」


「サーッ!イエッサー!」


「なんだそれは?貴君がいた世界の敬礼か?」


「へ?あ、はい!……ここでは違いますか?」


「そもそもそんな大声を出して返事する習慣がない。どうしても何か言いたいならそうだな…。」

「ヤヴォール、ヘル、オフィツィアー辺りが妥当だろうな。」


「ヤヴォール!ヘル!」


「言わなくていい、変に使われると寧ろ気味が悪い。」


 ただしと付け加えてクーゲルは続ける。


「会議の開始時や集会の挨拶時などにハイルフューラントと言う事はあるな。言われたら復唱しろ。」


 桃矢は相槌を打つと質問をする。


「わかりました、具体的にどんな意味があるんですか?」


 クーゲルは少し考えるような素振りをするとこう返した。


「具体的な意味なんてない、総統閣下に対する忠誠の確認のようなものだ。この国においては重要な形式の一つだ。」


 ごく小さな声で馬鹿げてると思ってもな、とクーゲルは独りごちた。


 クーゲルの部屋に着くと、好きなようにしろと言い奥の部屋に引っ込んだ。


 桃矢はしばらく立ち尽くし、ゆっくりと室内を見回す。

 クーゲルの部屋は、一見して質実剛健という印象だった。


 壁際の棚には、ずらりと並ぶ書籍が背表紙を覗かせている。軍制に関する専門書から、戦術論、近代魔術学、さらには古びた哲学書や歴史書まで揃っている。革張りの分厚い本も多く、長年読み込まれているせいか、角が擦り切れているものも多かった。


 棚の上段には、艶を帯びた勲章がガラス張りの小さな陳列ケースに収められている。それは装飾というより、“過去の務めを記録するためのラベル”のように、無機質に並べられていた。


 床には深いえんじ色のマットが敷かれている。擦り切れた箇所もあるが、隅は丁寧に揃えられており、踏み込むたびに僅かに沈む柔らかさがあった。軍人の部屋にしては奇妙な温かみがある。


 そして、窓際の小さな冷蔵棚には茶色いガラス瓶のビールがずらりと並び、その横には飲みかけの陶器製ジョッキが置かれていた。口縁には乾いた泡の跡が残り、生活の気配と戦場の記憶が隣り合っているようだった。


 部屋はタバコのにおいはしなかった為、吸わない人なのだろう。

 思い返してみると、酒場で一度も吸っていなかった。

 妙な答え合わせの感覚と、初めての女性の部屋という現実に遅れて胸が高鳴る。


 ロマンスなど期待出来ようもない相手だとしても、17歳にこの空気、この状況は荷が勝ち過ぎていた。


 寝室と勝手に決めつけていた部屋の扉が開く。


 中がちらりと見えた。

 木製の質素なクローゼット、その脇には無骨な木箱が山積みになっており、ラベルには銘柄名や年代が手書きで記されている。

 蓋を開けたままの樽もあり、そこから微かに麦の香りが漂っていた。


 …部屋内にベッドが見当たらない。彼女は一体何処で寝ているのだろう。


 桃矢は考えるのをやめた。

 眠る場所の前に、まずは精神的な余裕を取り戻すべきだと思った。


 扉からクーゲルが顔を出した。相変わらず表情に感情はない。


「そこにあるソファを使え。寝具はないが、兵舎よりはマシだろう。」


 淡々とそう言って、またすぐに引っ込んでしまう。


 桃矢は慌ててはいと返事をし、視線をソファへ向ける。

 年季の入った革張りのそれは、やや沈み込んではいるが、3人掛けで広さもあり、十分に柔らかそうだった。


(……ありがたい、けど。せめて毛布くらい……いや、贅沢か。)


 すると突然扉が開き、毛布が投げ込まれて、またすぐに扉は閉まった。

 まるで見透かされているみたいだと軽く笑うと、床に落ちた毛布を拾い、ソファに横になった。


 ソファは、木製のベンチとは比べ物にならないほど柔らかかった。


 ──どれほど眠っただろうか。


 突然、寒さに肩をすくめて目が覚めた。

 室内の空気は刺すように冷たく、しかし陽射しはやけに眩しい。


 見れば、部屋の窓という窓がすべて縦に全開されていた。

 そのせいで、暖かいはずの毛布すら意味をなしていない。


「起きたか。温かい飲み物はいるか?」


 クーゲルの声が、背後から淡々と響く。


 桃矢は鼻をすすりながら、戸惑った声で返す。


「え、えっと……なんでこんなに窓全開なんですか?めちゃくちゃ寒いんですけど……。」


「ん?ルフテン(※1)の時間だからだ。」


 当然のことを言うように、クーゲルは平然と答える。

 まるで「そんなことも知らないのか」と言いたげな表情だ。


 なるほどと相槌を打ってみるも、ルフテンってなんだよが桃矢の中での答えだった。


「あのー…。」


「換気の事だ。」


 寝る前同様、またしても見抜かれていた。


「毎朝と、室内の空気感次第だが昼か夜に10分から15分程我々は換気をする習慣がある。」

「気密性が高いから、日中に温かい空気を入れておくんだ。」


 温かい空気って…めちゃくちゃ寒いですよ!などとは流石に言えないので、そうですかと答える。


 キッチンから香ばしい匂いが漂ってきた。

 桃矢が寒さに肩をすくめつつ様子をうかがうと、クーゲルは分厚い鉄製フライパンで何かを焼いている。


「そこに座れ。食え。」


 テーブルには既に並んでいた。

 カリカリに焼かれたベーコンとスクランブルエッグ、香草の効いたジャーマンポテト、まだ湯気を立てているバターロールのような小さなパン。

 カップには、深煎りのコーヒーではなく、穀物系のミルク入りカフェ代用品が注がれていた。


 その横に、小さなガラスの器に盛られたリンゴと赤スグリのジャムまである。


(朝から……え、めっちゃうまそうじゃん……。)


 続けてクーゲルはプレッツェル(※2)が4つ入ったかごを持ってきた。


(朝から多いな…。)


 桃矢は戸惑いながらも席につく。

 更にゆで卵を2つ、謎の白いお猪口のようなものも2つ持ってきた。


 その上にゆで卵を乗せるとまたキッチンに向かう。

 まだあるのか…?


 戻ってくると、ナイフを手渡された。


 クーゲルは座ると手慣れた手付きでパンをぎこぎこ切り始めた。


(ぎこぎこ…!?その擬音がしっくりくるのは木材だけじゃなかったのか…!?)


 切り終わったクーゲルはチーズをつけてパンに齧り付く。


「食べないのか?」


「えっと、質問があります。」


「まさかパンを知らんなんて言わんよな?」


「いえ、パンは知ってます。いや……明らかに知ってる硬さじゃないけど……。」

「このゆで卵の下にあるやつ、なんですか?」


「エッグスタンド(※3)だ。貴君の所にはなかったか?」


「ええ、なかったですね。初めて見ました。」


「では使い方を教えてやろう!」


 何やら妙に嬉しそうだ。

 好きなのかな、ゆで卵。


「まずナイフで殻の上部を切る。」


「ちょっと待って下さい!ナイフで殻の上部を!?どうやって!?」


「このようにして開けるのだ。」


 クーゲルはささっと切りとり開けてしまうと、テーブルに置いてあったスプーンを掴んだ。


「ティースプーンじゃないんですかそれ…。」


 そんなバカな話があるかと言わんばかりに睨まれる。


「スプーンで中のゆで卵を掬って食べるのだ。美味いぞ。」


 ゆで卵は半熟になっており、茹で具合はこれで完璧だと言う。

 クーゲルなりの拘りがあるのだろう、きっと…。


「食い物には妥協するな。それが人生を潰す。」


 そう呟くように言ってから、彼女はベーコンをナイフで切り取った。

 外はカリカリなのに、切ると脂が滲む。

 それを見ると、どうしても食欲が湧いてきた。


「貴君は特別なんだぞ?アイゼンライヒでは朝から温かいものは普通食べない。」


 なんでそんな特別良くしてくれるのか桃矢にはわからなかった。


「なんでそんなよくしてくれるんですか?いまいちわかりません。」


「ビールが美味くなるからに決まってるだろう!」


 彼女は思い切りビールを仰ぐと、ジョッキをテーブルに叩きつけ、ぷっはー!と勢いよく息を吐いた。


(前言撤回、朝食に限っては特別良くしてくれる理由がわかります。)

(あくまで自分がビールを飲める理由を作る為の存在なんですね、俺は…。)


 気付けば、皿の上には温かいソーセージまで乗っていた。


「私のヴルストは絶品だぞう!食べろ食べろ!」


 桃矢は頭を抱えた。

 それを横目に見るクーゲルは手を止める。


「しっかり食べておけ、アイゼンライヒでは昼に軽く温かいものを食べて、夜は質素なものしか習慣的に食べないからな。」


 そう言われて思い出す。

 連行された時はクロワッサン1つと水しか出なかった事を。

 また変なところで納得する。


「わかりました。多めにいただきます。」


「朝のエネルギー補給は一日の始まりとしては一番大切だからな。」


 そう言うとクーゲルはビールを煽った。

 軍人が朝から酒とは…絶対良くないよなとは思うものの、酔っていても問題なく部下と接している所を見ている為何も言えない。


 暫くして、互いに食べ終わるとクーゲルは空になった皿を軽く横に避けると、静かに言った。


「そういえば、貴君は本当に何も知らんのだったな。この国のことも。」


「はい。名前だけは聞きましたけど……“アイゼンライヒ”でしたっけ?」


「そうだ。鉄の帝国という意味だ。」


 ビールを煽るでもなく、彼女は少し表情を曇らせた。


「元は北ドイツだったがな。今は“フォルケンハイム”という西側の同胞と、冷戦状態が続いている。身内同士で割れた、恥ずべき歴史さ。」


「え、じゃあ……戦争中なんですか?」


「表向きは停戦中だ。だが、国境付近は常に緊張している。あいつらは“自由と繁栄”の名の下に、また一つの世界を作りたがっている。」


 桃矢はコーヒーを啜りながら、ぽつりと聞く。


「いつから……こんなふうに?」


 クーゲルは立ち上がり、空になったプレッツェルのかごを片手に答えた。


「元を辿れば、1914年。ヘアテンの発明で戦の形が変わり──日本、イタリアと組んで世界を手中に収めた。“大戦”は我々が勝った。そのはずだった。」


「……でも、勝ったのに……割れたんですね。」


「勝ちすぎたのだよ。恐怖と支配の裏で、“力なき者の正義”を唱える連中が増えた。それが、今の分裂に繋がった。」


 かごをシンクへ放ると、クーゲルは淡々と付け加える。


「その後もいろいろあったさ。インド、中国、大魔王──全部教えてやる。時間はたっぷりあるからな。」


 クーゲルは軍服の襟を整えながら、ふと口を開いた。


「……そういえば、貴君にはこの国のことをまだ話していなかったな。」


 桃矢は驚いて顔を上げる。


「え?あ、はい。アイゼンライヒですよね。」


「ああ。正確には“アイゼンライヒ国防統合軍管区”。名前の通り、軍がそのまま国家として機能している。議会も内閣もない。あるのは命令系統と、実行部隊だけだ。」


「軍が……国なんですね。」


 クーゲルは頷き、制帽を手に取りながら言葉を続ける。


「アイゼンライヒの始まりは、もとは“北ドイツ”だ。大戦後に分裂したドイツが、国防と領土保持の名目で軍を肥大化させ、ついには政府機能を飲み込んだ。今や元首は“総統閣下”──フューラーント。国家というよりも、“戦争機関”だな。」


「……分裂?じゃあ、他にドイツがあるんですか?」


「あった。フォルケンハイムという名に変わっている。北と西に分かれて戦争をしたが、現在は停戦状態だ。」


「じゃあ、今は平和なんですね?」


「否。あくまで“停戦”だ。どちらも次の戦いの準備をしているだけ。忘れるな、ここは軍の国だ。戦争が“通常”なのだ。」


 その言葉に、桃矢は寒気を覚えた。

 さっきまで朝食を共にしていたクーゲルが、まるで別人のように厳しい声で語る。


「アイゼンライヒの根底には“ヘアテン”がある。1911年に魔術として確立され、それが銃火器を無効化し、白兵戦に回帰させた。技術が退化したのではない。変質したのだ。」


 桃矢は、小さく息を飲んだ。


 クーゲルは窓を僅かに閉め、外気を吸い込みながら言う。


「元はイタリアがエチオピアに二度攻め込んだあたりから世界の流れは変わり始めた。敗北、条約、再戦、そして勝利。そこにドイツが支援を始めたことで、軍事大国の道が拓かれた。」


「えっと、国際連盟は……?」


「存在はした。が、我々とイタリアが脱退して終わりだ。1921年にはインドも降伏し、1932年、我が国は分裂──今に至る。」


 クーゲルはふっと笑う。


「そして今、この世界の三強は──アイゼンライヒ、フォルケンハイム、日本。かつてのアメリカもインドも、もはや形骸に過ぎん。」


「中華圏は……?」


 桃矢の問いに、クーゲルの笑みが消える。


「……唯一、未だに降伏していない国だ。無視できるようなものではない。“仙人”が実在する。」


「せ、仙人……?」


「十数年前、ひとりの仙人が観光と称してフランクフルトに現れた。たまたま市民と揉め事になり、その場で数十人を無力化。治安警察が出動し、全滅。続いて出動した軍部隊ですら──傷一つつけられなかった。」


 桃矢は言葉を失った。


「アイゼンライヒが最大限に警戒していたのは三国。神話生物が闊歩するインド、妖怪が蔓延る日本、そして仙人が揺蕩う中国。その中で、唯一“交渉が通じない”のが中国なんだ。」


「交渉……通じないんですか?」


「通じないんじゃない。必要としていない。奴らは既に“皇帝”とやらが支配を完了した国だ。自分たちが格上と思っている以上、交渉のテーブルにわざわざ座る理由もない。もし我々が攻め込めば、仙人がまた現れる可能性は極めて高いだろうな。それは誰にとっても最悪の結果を招く。」


 クーゲルは振り返り、帽子を被ると厳しい目をして言った。


「世界は一度壊れた。そして今、再構築された“異常な均衡”の中で辛うじて保たれている。貴君はそこに、素性不明の“能力者”として加わった。それがどういう意味を持つか……ゆっくり理解していけばいい。」


 なるほどと小さく頷くと、桃矢は続けた。


「神話生物、妖怪、仙人──その三つが“危険”とされてるってことですか?」


それとなく確認のつもりで尋ねてみる。


「戦争が嫌いで参加してない隠れた種族もいるだろうさ。アイゼンライヒにも妖怪はいるが…知能と戦力が日本とは桁違い過ぎる。」

「貴君が巨岩を落とした犬のようなもの、アレも妖怪だ。」


 異世界には違いない、だから魔物と思っていたが、魔物らしい魔物は話にも出てこなかった。

 なんなら、異世界とはあまり思えない、1900年くらいに自分がいた世界と分岐した世界、と言われても信じてしまいそうになる。


「今は何年なんですか?」


「1950年だ。軍部は君の出現を大魔王の唐突な出現と被って見えているらしい。君が有用でかつ素直だからとりあえず経過観察にはなっているが、神経質なくらい君は注目されている事は忘れないように。」


 桃矢がはいと返事すると、クーゲルは続けた。


「さぁ、警邏の時間だ。」


「けいらってなんですか?」


 クーゲルは軽くため息をつく。


「見回りだ。悪い奴、反乱因子探しってやつだ。」


クーゲルは制帽を被り、コートの襟を立てて扉を開けた。

 冷たい風が、廊下の奥から吹き抜ける。朝の冷気はまだ街を完全には目覚めさせていない。


「さぁ、行くぞ。」


 そう言って、クーゲルは踵を鳴らして歩き出す。

 桃矢も慌てて立ち上がり、数歩遅れてその後を追った。


 建物を出ると、途端に視界が開けた。

 重厚な石造りの街並みに、鉄製の街灯、鋳鉄製のベンチが並ぶ。

 整然とした石畳の道は、排水口すら磨かれているかのように整備されていて、思わず桃矢は立ち止まった。


(思ってたより……全然、綺麗だ。)


 壁のひび割れや落書きも見当たらない。

 路地裏ですら掃き清められていて、戦時下だったとは思えないほどの清潔さがあった。


「意外だったか?」


 歩調を緩めず、クーゲルが問う。


「え、いや……勝手に、もっと殺伐としてると思ってたので。」


「軍政国家はな、秩序と清潔が命だ。落書きをすれば罰金、煙草のポイ捨ては暴行とみなされる。市民も必死で綺麗にしてるんだよ。」


 その言い草が本気なのか冗談なのか、桃矢にはまだ判断がつかない。

 ただ、街全体が“正面から写真を撮られても困らない顔”をしていることだけは確かだった。


 交差点を二つ曲がり、広場の噴水を越えたあたりで、クーゲルはふいに足を止めた。


「……見回りだ。」


 そう言ったかと思うと、真横の建物の扉を無造作に押し開けた。

 看板には、ホップの房とビアジョッキの意匠。

まだ午前中だというのに、中からはすでに笑い声とグラスのぶつかる音が聞こえてくる。


「え、ここって……。」


「酒場だ。」


「……見回り、とは?」


「異分子が集まりやすい場所の監視だよ。」


 そう言って、クーゲルは堂々とカウンターに歩み寄り、店主に軽く敬礼を返されると、迷いなく席に着いた。

 そして、当然のようにジョッキが置かれ、当然のようにビールが注がれる。


「……監視っていうより、飲みに来たんじゃないですか……?」


「両方だ。監視中に喉が渇いたら、飲む。合理的だろう。」


 返す言葉に詰まる桃矢の横で、クーゲルは静かにジョッキを煽った。

 その顔には、さっきまでの軍人然とした表情はなく、ただビールを楽しむ大人の余裕があった。


 クーゲルはそう言えば、と言うと何かを思い出したようにポケットから手紙を取り出すと桃矢に手渡した。

 手紙は開封済みのようだ。

 桃矢はそれを受け取ると、中をあらためる。

 中には一番上にシャーデンクラスという言葉が書いてあった。

 

「貴君が寝ている間に、貴君が落とした岩の調書が上がったぞ。S5級相当だったそうだ。良かったな。」


 クーゲルが、朝のビールの泡を拭いながら言った。


「S5級……?」


 桃矢は、ピンと来ないままに問い返した。


「火力等級のことだ。“シャーデンクラス”──災害火力等級の略称。頭文字のSに等級の数字をつけて、火力の目安を図っている。Schaden(シャーデン)、つまり“損害”という意味だ。」


「それって……武器の性能評価、みたいな?」


「まあ、そうだな。元は軍事兵器の威力測定から始まった。だが今は、能力者、妖怪、神話生物、仙人なども一律でこの指標に照らし合わせている。」


 桃矢は、握っていたパンを思わず皿に戻した。

 ──それってつまり、自分も兵器と並べて測られたってことじゃないか?


「で、その……S5って、強いんですか?」


「順を追って教えてやるよ。」


 クーゲルは指を一本立てる。


「まず、S0級──“素手級”だ。握力でレンガを砕ける人間。ないしそれ以下の個体。一般的な人間兵士の中でも上位に位置するが、超常とは言いがたい。」


「それ……俺の世界にも割といる気がします。」


「だろうな。次がS1級──“地雷級”。軍用の携行爆薬、地雷一発程度の破壊力を一撃で出せる存在だ。」


「え、それって……ヘアテン使ってる相手には通じないんじゃ……?」


「通じん。だから次のS2級である"機雷級"、“対ヘアテン下位”がようやく軍事ラインに乗る。人間なら、ヘアテン障壁を工夫せずに正面から割れる水準だ。」


 桃矢は冷や汗を感じ始める。


「S3級は“爆撃級”。レンガ造りの建物を一撃で破壊できるレベルだ。小規模施設なら半壊は免れない。」


「……あの、すみません。俺のって……?」


「まだだ、黙って聞け。」


 クーゲルは淡々と指を進める。


「S4級、“空襲級”。一撃で建物を複数棟巻き込み倒壊させる。単独での小規模空爆に近い被害を出せる。」


 そこまで来て、ようやく桃矢は口を開く。


「で、S5が……?」


「“戦術核級"。地形が変わる。空爆というより、爆撃。被害半径は100メートルを超え、戦術級兵器として扱われる水準だ。」


「俺……それに該当するってことですか?」


「岩は10分で消えたが、その間に敵を殲滅し、地形を変え、クレーターを残した。調査班の報告でも、一撃の出力と効果範囲は“戦術核級”相当だった。」


 ──戦術級兵器。


 “力を持つ者”として評価された、はずなのに──

 今、背中を伝ったのは、誇らしさでも優越感でもなかった。


「上は既に“模倣と量産”の検討に入っていたが……残念ながら、“不可”だそうだ。」


 クーゲルがジョッキの底を軽く叩きながら、嬉しそうに言った。


「“再現性なし”、というのが公式見解だ。何度試しても、貴君と同じ構造の能力は他に発現しない。人工開発での再現も不可能。そもそも、発現条件すら不明だ。」


「それなのに……使えると?」


「ああ、使えるとは判断された。“貴君個人が”な。」


 クーゲルは紙ナプキンで口を拭うと、皮肉気に笑った。


「一発で地形を変えたS5級の能力。それを自力で発動し、しかも再使用可能な個体がいる。これは既に兵器以上の“存在”だ。だからこうも記されていた──“対象にはS7級相当への成長可能性あり”。」


「……俺が、S7?」


「もちろん現時点ではまだ“S5級”だ。だが──あの発動の仕方、内包していたエネルギーの残滓、何より使用者本人の制御可能性。いずれ“神話災害”に至る可能性があると判断された。」


 桃矢は知らぬ間に息を吐き出していた。

 重さの実感が、じわじわと胸の奥へ沈んでいく。

 それは誇らしさではなく、確かな重石だった。

 初めて“岩”を落としたときのあの昂揚感──アドレナリンに飲まれていた自分を、今になってようやく理解できた。

 けれど、誇りの余韻はもうない。

 残っているのは、ただ、じっとりとした苦しさだけだった。


「だから、“拘束”ではなく、“監視付きの経過観察”になった。逃亡しない限り、自由は制限されない。」

「端的に言えば、貴君の能力の発動を阻害する方法が確立出来ないから、拷問でもして暴走されたくない。この辺が心情ではないかと踏んでいる。」


 そして──クーゲルは一拍置いて、グラスをテーブルに戻した。


「……そして、監視役には私が任命された。文句はあるまい?」


「いえ……ないです。」


 ふん、と小さく鼻を鳴らすと、鼻頭を軽く掻きだした。


「正直なところ、感謝している。」


「え……?」


 意外すぎる言葉に、桃矢は目を丸くする。

 クーゲルはやや気恥ずかしそうに、しかし真面目な声音で言った。


「私は、長らく“元勇者”の看板を下ろせずにいた。戦後は食っていけず、夜は娼婦まがいの副業で糊口をしのいでいた。それが、貴君のおかげで終わった。監視任務に就いたことで給料が跳ね上がり、夜の稼ぎを捨てることができた。」


 彼女は、いつもより少しだけ柔らかい笑みを見せた。


「……つまりだな、えー、正直なところ、私は貴君に借りがあるのだ。だから、あまり気を遣わず、普通にしていてくれ。」


「普通……ですか。」


「難しいことは考えるな。飯を食い、風呂に入り、寝ろ。能力の発動条件など、そのうちまた試せる機会が来る。……とりあえず今は、私の傍にいろ。それでいい。」


 クーゲルは恥じらいを隠すかのようにぶっきらぼうに締めた。

 素直に感謝する事に慣れていないのか、はたまた別の感情があるのか。

 桃矢にははかりかねた。


「気にしているのか? “神話災害”という兵器になろうとしていることが。」


 当然だ。

 気にしないはずがない。

 桃矢には、そんな人でなしにはなれそうもなかった。


「……はい。」


「貴君の心労、わかるつもりだ。勇者となる前から、私は頭角を現していたからな。」

「……規模は違うかもしれんが。」


 クーゲルはそう言って、小さく笑った。

 その笑みが、張り詰めていた桃矢の胸の糸を、ふと緩める。


「貴君は兵器にあらず。人の子だ。」

「この先、望まずともその力を人に、人外に向けることになるだろう。だが──もし、人の心を失いかけたときには、隣に私がいる。」

「……それが何になるかと思うかもしれんがな。同族が、隣にいるというだけで、人はずいぶんと救われるものだ。」


 午前九時二十七分。

 クーゲルは、ただ静かに、空のジョッキを見つめていた。

ご拝読ありがとうございました。

日常パートの4話となってます。

次からはアクションパート…ちょっとでも書きたいな…。

さて、今回は注訳がいくつかあります。


※1→ルフテン(Lüften)

ドイツを中心に広く行われてる文化です。

ドイツの建物は特に気密性高いので、朝と夕方に窓を全開にして空気の入れ替えをする習慣があります。

主に湿気防止やカビ対策、健康維持などの目的があるそうです。

寒くても健康の為にやる、規律とルールを重んじるドイツならではの文化ですね。

作中ではクーゲルの軍人用住居でもこの文化が守られており、桃矢がカルチャーショックを受けてましたね。


※2→プレッツェル

クーゲルが朝食に出していたプレッツェル、これはドイツ発祥の独特の形をしたパンで、くるりと結ばれた腕組みのような見た目が特徴です。

表面はカリッとしつつも中はもっちり、岩塩がトッピングされている事が多く、少ししょっぱいのもまたクセになる味です。

プレッツェルは主に朝食やビールのお供に食べられており、バイエルン地方ではソーセージやビールと並ぶ3種の神器的な存在です。

形にも意味があり、元は修道士が祈る姿だったのだとか。

ブレーツェルとも呼ばれてまして、一度温めてからバターを塗ると絶品です。


※3→エッグスタンド

ゆで卵の下にあるお猪口みたいな白い小皿、あれがエッグスタンドなんですが、名前の通りただゆで卵を立てる為だけの用途です。

ヨーロッパ圏では定番アイテムですね。

陶磁器、金属、木製と色々あり、コレクターもいるそうです。

世界は広いですね。


今回はここまでです。

愚筆失礼致しました。


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