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神様の夜ノ傀儡人形  作者: 大嶽丸
第三章
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第三章一話 死と灰

追放から命からがら逃げ延びるも、クーゲルは緩やかに魂が抜けて行くかのように意識を失わせた。

急ぎ、軍の息がかかっていない診療所を目指し、田舎であるポツダムに指針を向けた。

そして、重体のクーゲルが運び込まれたのは、鬼気迫る村人集うザクロウ村だった。

命の重さと心の価値を知る新章、三章一話です。

 ベルリンを抜け、ようやくポツダムに差しかかる頃には、空は鉛色に染まり、激しい雨が地面を叩きつけていた。

 風も強まり、もはやただの雨ではなく、嵐の様相を呈している。

 アイゼンライヒの領内を離れつつあるとはいえ、フォルケンハイムとの国境まではまだ遠い。


 舗装の甘い道はぬかるみ、足元を何度も取られた。

 片腕を失ったクーゲルは、依然として背負われたままだ。

 降りしきる冷たい雨が、縫合された傷口を容赦なく冷やしていた。

 感染の兆しこそ見られないが、傷が開くのは時間の問題だった。

 一行は応急処置と雨宿りを兼ね、町外れの診療所を探していた。


 レインコートの裾を泥に汚しながら、黙々と歩く。

 風と雨が視界を遮り、まるで世界そのものが行く手を阻もうとしているかのようだった。


「もうベルリンは抜けたはずです。ポツダムは田舎寄りですし……軍の息がかかっていない診療所があるはずです。」


 そう言うシュピュアは、今もクーゲルを背負っている。

 彼女の頭髪からは、わずかに熱が放たれていた。

 燃えるように見えるそれは、37度のぬるま湯のような温もりを常に周囲に拡げている。


 冷却が禁忌であるクーゲルの身体を、少しでも守るための判断だった。


「シュピュアさんの近く、温かいです……。」


 バリーレがぽつりと呟いた。

 無理もない。吹き荒ぶ寒風は、桃矢たちの体温を容赦なく奪っていく。


 桃矢もまた、手をこまねいていたわけではない。

 アプヴルフを5回起動させたが、どれも戦闘にも治療にも使えない、微妙な能力ばかりだった。


「……やっと、私の能力が初めて役に立ってる気がします。」


 シュピュアは微かに笑った。だが、状況が深刻なことに変わりはなかった。


 人気のない林道を進んでいく。

 道は舗装されておらず、ぬかるみが続く。

 直近で人が通った気配はない。地面の草すら踏み慣らされていなかった。


 歩みを止めれば、クーゲルの体温が一気に奪われそうな──ありもしない焦燥に囚われてしまう。

 一行はそれを振り払うように、無言で歩き続けていた。


 やがて、道を塞ぐように一本の倒木が現れた。

 桃矢はふと立ち止まる。人の通った形跡のなさに、不安が胸をよぎる。


「……これ、本当に人里があるんでしょうか?」


「あります。秘境というほどではありません。」


 即座にシュピュアが否定した。

 その口調には、確信が滲んでいる。


 桃矢は倒木に足をかけ、跨ごうとした。

 ……が、登ってすぐ、何かがおかしいと気づいた。


 ──その瞬間。


「コーガさん、罠です!」


 反応したのはシュピュアと、トリヒターだった。


「えっ、罠? 今、何か音が聞こえたような……!?」


 トリヒターの様子は混乱気味だ。

 シュピュアには、おそらく何かの仕掛け音が届いたのだろう。

 トリヒターが反応したのは、本人も説明できない直感──もしくは能力の一端かもしれなかった。


 桃矢は足元を見た。

 ──倒木の裏、足の下に、ぴんと張られた細い糸。


 やってしまった、と思う。


 ここには人がいる。

 しかし、その“人”が桃矢たちにとって安全な存在とは限らなかった。


「足音が聞こえます、複数です!バリーレさん、コーガさん、臨戦態勢をお願いします!」


「了解!」「はいっ!」


 2人の返事は示し合わせたかのように重なった。


「2人とも頑張ってぇ!敵が見えたら僕も手伝うから!」


 トリヒターは何かをするつもりらしい、人の事を言えた義理ではないが、彼に戦闘は難しいと思う。


「囲まれています、全方位!」


 シュピュアが耳を使い司令塔となってくれる。

 しかし、全方位を守り切る事は正直難しいと言わざるを得ない。


 シュピュアは片手で、炎で出来た鞭を出した。

 しかし、雨のせいで出力が相当低いようだ。


「アプヴルフ!!」


 桃矢が叫ぶと、左腕の服の上に薄っすら文字が浮かび上がる。


 謎掛けを出されたら、浮かんでいなくても5秒以内に口から勝手に答えを回答出来るようになる能力。


「ダメだ!使い物になりません!!」


 一応試してみる。


「雨と掛けまして囲まれると解きます。」


「えっ?」


 バリーレが桃矢を見る。


「その心は、どちらも冷たさが身に染みます。」


 なるほど、緊張により背中が冷たくなる事と、雨に濡れて冷たくなる事を掛けた訳か。

 桃矢は納得した。


「やってる場合じゃない!!」


 セルフで突っ込んだ。


 茂みがざわめくたび、誰かが近づいてくるのがわかる。

 光の届かない闇の中、鈍く濡れた金属音がわずかに耳に届いた。


 ……武器か?


 いや、違う。

 闇が割れた瞬間、雨に濡れた人影がいくつか現れる。


 鍬を持った男、草刈鎌を握る男、スコップを杖代わりに構えた男。

 それは……まるで農具だった。


「後ろのやつは全部僕に任せて、前をお願い!」


 トリヒターが叫ぶ。任せていいのだろうか。

 しかし、女のような見た目をしているが彼も男だ。

 漢気を見せようとしているのだろう、いざとなればバリーレが救援するかもしれない。


 桃矢は石を幾つか拾うと、いつでも投げられるよう待機した。


「お前ら、軍人だな?今度は何を奪いに来た?」

「もう渡すもんは何もない、今すぐ帰るか、ここで死ぬか好きに選べ。」


 軍に恨みがある人達だった。桃矢は狼狽した。

 アイゼンライヒは軍事国家だ。いるんだろうな、そんな事を考えたことはあった。

 しかし、いざ実際の被害者を目の当たりにすると、身動き一つ取れなくなってしまった。


 桃矢には、バリーレは強いと思わされた。

 このような状況下においても、彼女は武器を握る手を緩める事は一切しなかった。


 自分のクーゲルを守るという気持ちはこんなものだったのか、と改めて気合いを入れる。


「お願いします!怪我人がいるんです!治療を…せめて手当て、処置を受けさせてはもらえないでしょうか!」


 桃矢は懇願した。

 しかし、返ってくる答えは冷たいものだった。


「おい、軍人が弱ってるんだとよ。」

「あぁ?なんで軍人なんかの為に貴重な物資使わなきゃならないんだ?」

「こりゃいい。見せしめに殺しちまおう。」

「散々奪っていきやがって、殺してやる!」


 桃矢は愕然とした。

 ベルリンから出たら、民と軍人とはここまで心の距離があるのかと。


「バリーレさん、彼らを傷付けちゃ駄目だ!」


「なんでですかコーガさん!」


 バリーレの疑問は(もっと)もだ。今にも危害を加えられそうになっている以上、倒すしかない。


「貴重な物資を使わなければならないんだと言っている人がいた!これは裏を返せば、物資がない事もないって事だ!攻撃してしまえば治療はしてもらえなくなる!」


「ですが、それはたらればです!!」


 シュピュアが叫ぶ。


「どうすれば──。」


 不安そうな目でバリーレが桃矢を見つめてくるのが桃矢にはわかった。


 バリーレを見つめるとふと、シスターさんを思い出す。

 孤児を何名か売ってでも、金を集めようとしていた、優しい悪魔を。


「シュピュアさん!金です!交渉しましょう!!」

「今の俺達は彼らにとって、ただの外敵、しかも軍人という最も最悪な印象を持たれています!」

「変えるんです!印象を!外敵から、利用価値がある警戒対象に!」


 そう言うと、トリヒターは閃いたような顔をする。

 トリヒターは、慌てて背中のフックから、少佐から奪った小型金庫を取り外し、桃矢に投げた。


「コーガくん!受け取って!」


 慌ててキャッチすると、中を確認する。

 鍵はかかっていないようだった。


 中を改めると、1000マルク札が23枚、2万3000マルクが入っていた。

 ここでも脳裏に200万円という文字が浮かぶ。

 大まかな価値がわかった。


 奥に、ダイヤと手のひらサイズの金の塊があった。

 見なかった事にした。


 金庫の扉を閉めると、桃矢は大声で交渉を開始した。


「金があります!相場の1.5倍の金額で治療して頂きたい!」


 買い物において、交渉をする時は低い金額を提示してから高い金額を提示する。

 そうする事で交渉をコントロール出来る。

 人間心理学の一つだ。


「いかがですか!」


 しかし、桃矢は返事に面食らう事になる。


「1.5倍ってなんだ!」


 基礎学習の大切さを、まさかこんな場面で痛感させられるとは思わなかった。

 しかし、ならば更にこちらが金額をコントロール出来るというものだ。


「ではこうしましょう!あなた方が用意した医療道具にかかった金額をお支払いした上で、更に10マルク渡します!」


 民達が一斉にどよめき始める。

 収拾をつけようと怒号をあげる者、どうせ嘘だと叫ぶ者、何が狙いなんだと疑問を持つ者。

 色々居るが、桃矢達に肯定的な意見は聞こえなかった。


(ダメ押し…かな。)


「皆さん、今からあなた達の住処を通る通行代、そして私達を信用してもらう信用代を、ここに居る皆さんに1人ずつ全員にお支払いします。必ずお支払いしますので一例に並んで下さい。」

「これは、商売のようなものです!一例に並ばないなら、お支払いは出来ません!」


 身なりが汚い男が一人、ゆっくり前に出てきた。


「まずこれが通行代、1マルクです。そしてこれが信用代の1マルクです。」


 1枚ずつ札を渡す。


「俺たちが略奪する気なら、とっくに攻撃して住処を攻撃して奪っている、そう思いませんか?」


 金を渡した後、話を聞く段階にいる人間に諭す。

 これもまた立派な心理学の一つだ。


 金を受け取った男は慌てて皆の所に戻ると、一斉に桃矢に詰め寄った。


「一例に並ばなければお支払いしませんと言いました!並べば例外なく、皆さんにお支払いを約束します!」


 約束などと薄っぺらい言葉は、本来信用してもらえない。

 しかし、人間、自分にデメリットがない完全な利があると認識した瞬間、騙されているかもしれない、自分の番が来る前になくなるかもしれないというデメリットに意識が向きにくくなる。

 世の中に詐欺がなくならない理由の一つ、これもまた心理学だ。

 しかし彼らは運がいい。今回は本当にただのギフトなのだから。


 暫く経つと、皆に2マルクずつ支払い終わった。


「お願い、聞いていただけますか?」


「いいだろう、ついてきなさい。」


 殺気がなくなり、言葉遣いも優しくなった。

 桃矢は勝利を確信していた。




 一同は、再びトリヒターに金庫を預け、ポツダム近郊のザクロウ村へと足を踏み入れた。

 激しい嵐の中、風景は雨に霞んでいたが、湖を中心に広がる村の景観には、確かに魅力があった。

 もし晴れていれば、ここが観光地として人気を博していてもおかしくない──そんな印象を桃矢は受けた。


 教会の中に入ると、クーゲルをそっとベッドに寝かせた。

 そこは、ベッドが二つ置かれただけの質素な部屋だったが、雨風を凌げることが何よりもありがたかった。


「ようやく、落ち着けましたね……。」


 教会へは、100マルクを寄付したことで、快く宿を提供してくれた。

 だが、廊下の向こうからはしきりに人々のざわめきが聞こえてくる。

 道中、軍への不信を語ったことがきっかけで、村人たちは一同に奇妙な仲間意識を持ったようだ。

 金を渡したことも拍車をかけたのか──歓迎とも下心ともつかない反応が、扉越しに伝わってくる。


「落ち着けたとはいえ、警戒は怠らないようにしましょう。特に金庫を盗まれないように。」

「個別行動も控えましょう。特に俺やトリヒターさんは捕まったら、そのまま身代金交渉に繋がりかねません。」


 桃矢がそう静かに忠告すると、全員が頷いた事を確認すると、付け加える。


「雨風が防げるだけで、ここが安全地帯とは限りません。少なくとも数日は滞在する必要があると思うので、夜間は交代で見張りを立てましょう。初日は俺がやります。」


 全員が同意し、それぞれ横になる。

 桃矢は扉の前に立つと、外に向かって声をかけた。


「どなたか、パンか水を少し分けて頂けませんか?お礼は払います。」


 しばらくして、扉が軽くノックされた。

 扉を開けると、教会のシスターが水の入った瓶と、加熱されたじゃがいも、数切れのパンを手に立っていた。


「本当にありがとうございます。これは謝礼です。準備してくださった皆さんで分けてください。」


 桃矢はそう言って、20マルクを手渡した。


「この村に、医者か、医学の知識がある方はいませんか?」


「います。一人だけ。10年ほど前、戦地で従軍していた方です。」


「可能なら今日、少なくとも明日には会いたいのですが……」


「チップがあれば掛け合いましょう。」


 そう言われ、桃矢は迷わず2マルクを差し出す。

 シスターは頷くと、小走りで奥へと姿を消した。


 桃矢は振り返って皆に声をかけた。


「みんな、ご飯ですよ。」


 一人ずつパンを一切れずつ。

 水は、衛生面の不安もあったが、背に腹はかえられず、ひとつのグラスで回し飲みすることにした。

 じゃがいもは4等分にして分け合う。


「……さすがに、これだけじゃ足りませんね。」


 誰ともなく漏れた本音に、全員が無言で頷いた。

 贅沢は言えない。ここではそれが現実だった。




 食後の静けさの中、扉が控えめにノックされた。

 桃矢が開けると、そこには先ほどのシスターと、杖をついた白髪の老人が立っていた。


「医者を連れてきました。」


 それだけ告げると、シスターは踵を返して去っていく。


「あの、どうか……診ていただけますか?」


 桃矢は、できるだけ礼を尽くした口調で頭を下げる。


「診るから来たんだろう。さっさとどけ、入れ。」


 ぶっきらぼうな口調ではあったが、医者の声には妙な熱があった。

 桃矢が通すと、医者はすぐにクーゲルの元へと歩み寄り、服を手早くずらして傷を確認する。


「……ひどいな、素人仕事だなこりゃ。応急処置としては悪くないが、このままじゃ持たん。今すぐ、うちへ運べ。」


 言い終わるより早く、シュピュアが立ち上がり、再びクーゲルを背負う。




 全員がクーゲルを心配し、医者の家へ同行した。

 医者は彼女をベッドに寝かせ、再び服をまくる。


 黙ってメスを取り出すと、縫合された糸を切り始めた。滲む血に桃矢は思わず口を開く。


「こ…この処置、本当に大丈夫なんですか?」


「普通なら体力と相談するが、悠長なことは言ってられん」

「傷口の中に膿が溜まっている。数日かけて排膿させるために、しばらく開放しておく。放置すれば敗血症で即死だ。」


 淡々と答えるその口調に、逆に焦りを感じさせた。


「……助かる見込みは?」


「未来が見えるとでも思ったか。」


 医者は切り終えた糸を捨て、傷口に浅く切れ目を加えながら続ける。


「助かる見立てを出せと言うなら──そうだな、二割か、三割ってとこだ。」


 彼が傷口の縁をそっと押すと、桃矢はその手の力加減に驚いた。

 それでも、じわじわと濁った膿が溢れ始め、鼻を突く臭いが部屋に広がる。


 医者は何も言わず布切れで膿を拭き、出きったところで、傷口に細長く裂いた布を詰めていった。


「ここでできるのは、これが限界だ。モルヒネの備えもねぇ。嬢ちゃんは、地獄の中で何度も目を覚ますだろうよ。」

「しばらく様子を見る。数日はここに置いていくがいい。」


 立ち上がろうとした医者は、ふと振り返って言った。


「……傷口は絶対に押すな。血流に膿が乗れば、あっという間に死ぬぞ。」

「空気が通れば膿は勝手に出ていく。──生きていれば、だがな。」


 後頭部を掻きながら、医者は部屋の奥へと去っていった。


「あっ、あの、お代は……!」


 呼び止めた桃矢に、医者は振り返りもせず答える。


「戦場じゃ、皆請求する前に死んじまった。お前さんには、生き残ったら請求してやる。覚悟しとけ。」


「……ありがとうございます!」


 頭を深く下げた桃矢。

 その姿は、この地の者には珍しく、どこか奇妙で誠意に満ちていた。


 相談の末、4人は診療所に残ることに決めた。

 今は分かれるより、まとまっていたほうが安全だと誰もが思った。


「クーゲルさん……絶対、戻ってきてくださいね。まだ、お礼も言えてないんですから」


 その独白は、静かな診療所の中にぽつりと響いた。




 クーゲルを診療所に運び込んで、丸一日が経った。

 ようやく目を覚ましたようで、クーゲルは顔だけこちらに向ける。


「腹が減った。何かないかね、貴君。」


 その調子は、いつもと変わらぬ皮肉交じりの調子だった。

 皆の顔が一気にほころぶ。


「ぐしゅん!」


 突如、クーゲルがくしゃみをした。眉間に皺が寄る。


「……痛いな。しばらく、くしゃみは控えるとしよう。」


 そこへ医者が笑いながら歩いてきた。


「強い嬢ちゃんだな。普通ならのたうち回って、押さえつけてなきゃ処置なんてできやしねえ。」


 医者は膿を確認するため、傷口の布を外してそっと覗き込んだ。


「どこの配属だ?」


「西部戦線だ。」


 医者は頷きながら、布を替えてゆく。


「あそこは地獄だったらしいな。1891年の世界戦争の頃──もう滅んじまったイギリスとかいう国と、泥の中で塹壕掘って撃ち合ったって聞いた。」


「……そうだな。」


 じわじわと滲む膿を拭き、また布を詰めていく。


「4度目の人員補充で、新兵が短剣だけ持って銃弾の中を駆けて、敵塹壕に単身突っ込んだとか。8000人以上斬って戦線を下げさせたって話だ。」


「……まぁな。」


「そいつはツイてたな。配属早々に戦争が終わるとは。」


「……あぁ。」


 医者の調子とは対照的に、クーゲルの返事は淡々としていた。

 桃矢は「短剣」という言葉に目をとめ、じっとクーゲルを見つめる。


 処置を終えた医者は立ち上がり、再び歩き出す。


「起きてる間に何か食わせてやれ。栄養があるもんがいいが……ここには、まあ無いな。」


 医者はそう言って、コップ一杯の水を持ってくると、ゆっくりクーゲルに飲ませた。


「慌てるなよ。死んじまうからな、ゆっくりだ。」


 数口飲んだところで、薬草の粉末をクーゲルの口に含ませる。


「薬草だ。味は悪いが、何も食わんよりマシだろう。」


 水で粉末を流し込み、喉を潤させる。


「……しばらく寝てな。体力を戻すんだ。」


 そう言い残し、医者は再び奥の部屋へと姿を消した。




 夜中、桃矢は見張りとクーゲルの介護を兼ねて起きていた。


 すると、胸元に微かな振動を感じた。


 一瞬驚いたものの、その振動には覚えがあった。

 懐から携帯電話を取り出す。電源を切って久しいはずのそれが、なぜか震えている。


 画面には、「神」の一文字が表示されていた。


 待受画面には、神という一文字が書いてあった。


(……神?なんだ?神という苗字の日本人は確かにいるけど…なんかそれとは違う気がする。)


 電話に出て、耳に当てる。


「……はい、もしもし。古牙です。」


「接触。」


「はい?」


 聞き覚えのあるような、それでいて無機質で棒読みのような声だった。

 内容も唐突すぎて意味がわからない。


「どなたですか?神さんですか?」


 そもそも、神という知り合いがいないから、電話帳にそんな苗字を登録していない事に、いま気付いた。


「……どなた、ですか?」


 こうなると一気にホラー映画で観た事あるような展開だ。

 桃矢自身、異世界にいる。何が起きたって不思議じゃない。


「進捗。」


「さっきからなんなんですか?」


 一言ずつしか喋らない相手に、苛立ちが募っていく。


「さっきから一言だけで、一体何が言いたいんですか?」


 多少の沈黙の後、声の主はまた喋り始める。


「人間は最後まで言わなければ理解できない低次存在。理解。」


 癪に障る物言いだった。まるで見下すような物言い。


「目的、次元番号39創造神に接近せよ。」


「はぁ!?どこの誰だって!?」


「……お前がいる世界の創造神に接近せよ。」


 話の展開が突飛すぎてついていけない。

 そもそも“接近”って、何のために?


「……何の為に?」


「お前の中に我が依代を入れた。接近後、我が攻撃する。お前は次元番号39の創造神に接近するだけでいい。」


 説明になっていない。

 自分が言いたい事だけを言っており、これは対話ではなく宣告に近いとも思わされた。


「何の為に!」


 多少怒気が含む。


「次元番号39の創造神の神核を破壊、吸収する事により、力を増大させる。信仰量を1次元から2次元に増やし、力を増加させる。」


 話が突飛過ぎている、全く話がつかめない。


「次元ってのはつまり、俺たちが暮らしてる地球って認識でいいのか!?」


 やはり怒気が含まれてしまう。


「肯定。」


「つまり、今いる世界の神様殺して自分の領土増やしたいから、手伝えって事か?」


「肯定。」


 冗談じゃない。

 それではただの侵略者だ。


「侵略者?理解不能。食物連鎖。」


 まだ喋ってもいないのに返事をしやがった。


 なら何故俺を選んだ?


「お前は"侵略"を頻繁に思考していた。適任者であると判断。」


 馬鹿なのか?

 そんなのただの妄想だ。


 授業中にテロリストが乗り込んできて、それを返り討ちにしてヒーローになる──。

 それに似たよくある空想遊びにすぎない。実行するつもりなんてない。


「不適格品。──潜伏、接近せよ。次に能力説明に移る。」


 話についていけない。不適格品?俺にそう言ったのか?


「アプヴルフ。」


 その言葉を聞いた瞬間、脳裏に閃きが走る。

 ──最初にクーゲルと出会ったとき、頭に響いたあの声だ。


「お前か!?俺をここに落とした奴は!」


「肯定。アプヴルフとは、観客の声である。」


 関心がない、とでも言うように話を続ける。


「場面によって、観客に投票を行う。抽選結果がお前の能力となる。」

「ランダム性を高めることで能力性能を過剰に上げず、次元番号39創造神による発見を遅延。」


 どうやら、見つかる事が一番この神とやらの中でマズいらしい。


「見つかったらどうなる。」


「次元番号39によりお前に神罰が下る。この世界の能力に抽選結果構造を近くなるよう模倣した、暫くは発見されない。」


「神罰って具体的になんだ。」


「創造神39による個体召喚、抹殺。次元番号39の現在地、北緯50°56′28.68、東経6°57′28.80。標高182.38フィート個体場所標高172.38フィート。」


「ちょ、ちょっと待て!なんでヤーポン(ヤードポンド法)なんだよ!流石にわかる訳ないだろ!?」


「以上。定期的に接触を試みる。長時間通話は発見リスク増。──通信、終了。」


 ぷつりと通話が切れた。

 携帯は再び沈黙し、画面も真っ暗なままだった。


「見に来てみれば……誰と話してるんだ?」

「患者の譫妄(せんもう)かと思ったが……何故お前が譫妄になっている?」


 医者が困惑した様子で、眉をひそめながら問いかけてくる。


「……すみません。」

 桃矢はそう答え、小さく頭を下げた。




 朝日が窓から差し込む。

 皆がゆっくり起き始める。


 トリヒターはシュピュアの腕に腕を絡ませて寝ていた。


「もう少しだけ、こうしていてもいいですか?」


 シュピュアは少し困ったように、それでもどこか嬉しそうに微笑んだ。


「おはようございます、コーガさん。」


 バリーレが桃矢に声をかけてくる。

 その穏やかな笑顔を見て、夜中の出来事がほんの少し、遠ざかった気がした。


「おはよう、バリーレさん。」


「……貴君ら、一体いつまで軍から支給された名を名乗っているのかね?」


 クーゲルの低く、酒焼けした声が部屋に響いた。どうやら目覚めたようだ。


「そう言われましても……今更変えるのもなんか変な気がしまして。まぁ、俺の名前は本名ですけど。」


「え!?」「えぇ!?」


 バリーレとシュピュアが同時に声を上げた。

 それほどに軍人には“名前を与えられる”ことが当たり前になっているのだ。


「こほん……あたしは自分の名前好きじゃないんです。だから、今の方が嬉しいです。」


 気を取り直して、小さな咳払いをした後にシュピュアが答える。


「わ、私も……孤児院を思い出してしまうので……今の方が良い、かな。」


 バリーレもシュピュアも、支給名の方が良いと答える。


「貴君ら、私が見ていない間に心に傷を負い過ぎだ。」


 クーゲルが呆れたように言う。


(孤児院の何もかもを悪い記憶にする事もない、と思うけどなぁ。)


 桃矢はそう思うものの、今バリーレには時間が必要だと思い、口には出さなかった。


「それはそうと、酒はないかね?」


「諦めてください。ないですが、仮にあっても怪我人には渡せません。」


 医者が歩いてくる。

 検診だろう。


「酒は暫く控えなさい。」


 そう言うと手早く傷口の布を剥がし、また新しい布を詰める。


「膿出てないですね。もう良くなってきたって事ですか?」


 桃矢が質問する。


「これからさ。経験則上、膿は4、5日目に一気に排出され始める。まだ2日目だ、気長に待ちなさい。」

「鼻を近付けたらわかるがね、死臭がする。それがまだ膿がある証拠だ。」


 元軍医の知見は的確だった。


「膿の色が黄色ならまだいい、緑なら多少覚悟しなさい。死ぬほど痛いぞ。」

「痛くないのなら…そうだなぁ、神経が壊死してる可能性がある。死は近いだろうな。」


 医者は顎を触って考えるように言った。


「……ご忠告どうも、しっかり今も痛いから問題なかろうよ。」


「だと、いいな。」


 医者もクーゲルもぶっきらぼうな物言いだった。


 桃矢は、どこか2人は似ている気がした。


「今日は食料と水の調達をしてきます。バリーレさん、ついてきてくれますか?」


Ach, ja!(あっ、はい、)


「それではクーゲルさん、大人しくしていてくださいね。」


「言わずもがな、だ……。」


 クーゲルの態度は相変わらずだった。




 桃矢とバリーレは、2人で外に出ていた。

 食料や飲み水を得るために、人々と交渉するのが目的だった。


 しかし、金を見せても分けてくれない者は少なくなかった。


「悪い人じゃないのは、この2日でわかったさ。でもね……この辺りじゃマッチひとつだって貴重で、そう簡単に水を沸かせないのさ。食料も自分たちが食べる分しか残ってないんだよ。」


 年配の女性が、申し訳なさそうにそう言った。

 桃矢は深く礼をして、おばさんの家を後にした。

 教会の屋根が見える通りを抜け、ゆっくりと東側の空き地へと歩を進めていく。


 道の脇では、木の枝を束ねて薪にしている老人がいた。

 干からびたような雑草が庭に積まれており、何かを燃やした痕の黒ずんだ跡が、土に滲んでいる。


(水も、火も、足りていない……それなのに、湖が目と鼻の先にある。)


 空き地の手前、小さな段差を越えると、視界が開けた。

 そこには使われていない畑跡のような広い空地が広がり、今は誰の気配もなかった。


 桃矢はその中心にある、崩れかけた井戸の縁に腰を下ろす。

 遠く、林の向こうに風が抜ける音が聞こえる。


「……水はある、でも届いていない。」


 難しい顔をしている桃矢を見て、バリーレは心配そうに顔を覗く。

 しかし、桃矢は気付けない。

 知識の糸を手繰り寄せる事に、リソースを割き過ぎていた。


「何をすれば、クーゲルさんを助けられて、皆から金を使わずに信頼を得られるか……。」


 大人たちは守るものが多すぎて動けない。

 子どもたちは知識がなく、仕組みを知らない。

 では、その間を埋める“方法”さえあれば──。


(……ここに希望はある。ただ、その希望が見えにくい形をしているだけだ。)


「水も食料も不足している、でも周囲には大きな湖がある。つまり──精製技術がないということですよね?」


 彼なりに、口語化する事で、自身が培った雑学の知識を整理し始めていた。


「精製……ですか。でも、私も軍にいた頃に名前を聞いた程度で……技術的には難しいと思います。」


 桃矢はうなずきながら考えを巡らせた。


「ありがとうございます。この地域の知識レベルが、なんとなく見えてきました。」


「俺がいた世界では、次亜塩素酸ナトリウム──通称“カルキ”を使って水を消毒していました。日本では一般的ですが、他国には別の方法もあります。」


 バリーレはただ黙って首をかしげている。


「紫外線照射、あるいはポリ塩化アルミニウムを使った凝集沈殿法……でも、この時代の技術じゃ再現は不可能でしょう。となれば、答えはひとつしかない。」


  桃矢は空き地の乾いた土を見下ろしながら、ぽつりと呟いた。

 風が吹き抜け、傍の枯れ枝がわずかに揺れる。


 ──使えるものは、もっと身近にあるはずだ。

 ──この世界でも、誰かがすでにやっているかもしれない。

 ──それは“火”だ。


 桃矢はぽんと手を打つと、弾かれるように立ち上がった。


「……あ、ちょっと!?コーガさん、どこへ……!」


 置いていかれまいと、バリーレが慌てて後を追う。


「この村にきっと、炭を使って火を起こしてる家庭がある。もし、炭があるなら……できる。」


 振り返らずにそう言うと、桃矢はすでに歩調を早めていた。

 林を越え、西側の、先程の女性の家へと向かう。

 さっきまでの空気とは違う。

 歩くたび、地面が可能性の上を鳴っているように思えた。


 先程の女性の家に戻ると、桃矢は扉を3度ノックした。


「今度はなんだい? 悪いけど渡せるもんは──」


「炭を分けていただけませんか?一欠片で構いません。こちら、代金です。」


 そう言って1マルク紙幣を差し出すと、女性は受け取り、足早に奥へと引っ込んだ。

 やがて戻ってきたとき、手には両手いっぱいの炭を抱えていた。


「この辺りじゃ、みんな自分で炭を作るのさ。料理も、暖も、全部炭頼みだからね。」


 思っていた通り、炭は想定通り手に入った。

 しかし、村の事態は思ったより深刻かもしれない。

 このやりとりは、桃矢にそう思わせるには充分だった。


「なるほど……ありがとうございました!」


 桃矢は軽く頭を下げ、小走りで湖へ向かった。


 森を抜けると、テンプリン湖の穏やかな水面が現れる。

 太陽はまだ高く、湖の上に銀のうねりが広がっていた。

 対岸の針葉樹が揺らめき、風が草むらをすべるたび、かすかな水音が耳を撫でる。


 この風景だけを切り取れば、冷戦とは言え、とても戦時中とは思えなかった。


 テンプリン湖を一望していると、バリーレが脇腹を軽く突ついた。


「ご、ごめん。」


 観光に来たのではない。

 忘れないように気を引き締めると、バリーレにお願いをする。


「表面がザラついた石を探してくれませんか。」


 バリーレは、わかりましたと小さく答えると、石を探し始めた。

 両手に炭を持っている以上、どこかに置くという選択肢はなかった。

 僅かでも、炭を無駄にしたくなかった。


 気持ちを汲んでくれたのか、バリーレは文句一つ言わずに、一人探している。

 彼女の優しさには感謝してもしきれなかった。

 少しすると、バリーレは桃矢のもとへ戻ってきた。


「幾つか見つけましたが……これでいいんでしょうか?」


「ありがとうございます。では片っ端から石を足下に投げて割って、中に“水の波紋”みたいな模様がある石を探して下さい。」


 バリーレは黙ってうなずくと、小石を指先に挟み、無造作に砕き始めた。


「……すごい。なんてパワーだ。」


 彼女の力は知っていたが、改めて凄まじいと感じる。


「私には、これくらいしかないですから。」


 バリーレが苦笑した。

 表情が少し暗い、きっとまだ孤児院の事を気にかけているのだろう。


「3つ、です。条件に合った石は。」


「ありがとう。次は、空の酒瓶を探しましょう。」


「湖の周りに、いくつか落ちてましたよ。」


 こんな綺麗な場所でも、ゴミのポイ捨てはあるものか。

 ──時代は違えど、あまり人間の本質は変わらないのかもしれない。


 拾った酒瓶をバリーレが差し出すと、桃矢は瓶の底を見て言った。


「これ、底をくり抜きたいんです。」


 一番の難関かもしれない。釘などを使って地道に削るしかないか──そう思った矢先。


「えいっ!」


 バリーレの手刀が、見事に瓶の底だけを切り落とした。


「これでいいでしょうか?」


「あ……はい、ありがとうございます。」


 その鋭利な断面を見ると、喧嘩は絶対にしないと、桃矢は心に誓った。


 飲み口を下にして瓶を構えると、手際よく材料を詰めていく。


「一番下に布を敷いて、次に粉状に砕いた炭、砂、砂利、石──粒が大きい順に入れていきます。」


 バリーレは無言でその作業を見守った。


「これで、見た目にはきれいな水ができあがります。あとは、貯める容器が欲しいですね。」


 桃矢は濾過器を握ったまま、ふうと息をついた。

 ひとまず完成したことに、肩の力が抜ける。思っていた以上に材料が揃ったことに、少し安堵していた。


 バリーレは隣でじっと瓶を見つめている。


「……すごいですね。何をしているか、完全にはわかりませんけど、見ていて安心感があります。」


「ありがとう。でも、これだけじゃまだダメなんです。」


 瓶の中は、ただの層の重なりでしかない。

 このままでは何の役にも立たない。水を通して初めて、意味を持つのだ。


 そう言いながら、桃矢は瓶を両手で包み込むように持ち直した。


「次は容器だな……水を受け止めるものがなければ、始まらない。」


 再び女性の家を訪れ、また3度ノックする。


「またかい、今度は何を──。」


「鍋とバケツをお借りしたいのです。すぐにお返しします。」


 女性は渋い顔をしながらも、ため息をついて扉を開けた。


「……壊さないでおくれよ。」


「ありがとうございます!」


 2人はお礼を言って家に入り、桃矢はきちんと「お邪魔します」と添えた。




 桃矢は、バリーレに湖の水をバケツで汲んできてもらうよう頼んだ。

 その間に彼は、女性から借りた釘を石に打ちつけ、火打ち石として使えそうなものを試し始めた。


「それは……火打ちで着火かい? 石の目利きなんて、あんた、できるのかい?」


「ええ、慣れれば案外簡単なものですよ。」


 女性が感心したように見つめる中、桃矢の手元で火花が飛び、松脂に着火した。

 たちまち煙が上がり、桃矢は素早く松脂を優しく手で包み、そっと息を吹きかける。

 ぼうっ、と音を立てて、小さな火が燃え上がった。


「よしっ!」


 火が立った瞬間、桃矢が小さくガッツポーズを取る。だが、それ以上に喜んだのは女性だった。


「ちょうどマッチが切れててねぇ!料理もできなかったのさ!」


 桃矢は少し照れくさそうに笑う。


「本来なら、火をつけるまでに十時間以上かかることもあります。でも今日は運が良かった。十数分で済みました。」


「助かったよ、本当に……!」


 やがて、バリーレが水を満たしたバケツを抱えて戻ってきた。

 桃矢は使いっ走りにしてしまった事への謝罪、そして礼を言い、さっそく先ほど作った簡易濾過器──瓶の底を抜いた装置──に水を注ぎ込む。


 鍋の上に瓶を固定し、じっくりと水を通していくと、透明な水が一滴ずつ滴り落ちていく。


「……なんだい、これは……!」


「すごい……!」


 驚きの声を上げる2人。

 桃矢の予測通り、この程度の濾過技術ですら、村ではまだ知られていなかったのだ。


「ただし──このまま飲んでは駄目です。腸チフスや赤痢になる可能性がありますから。」


 喜びに輝いていた2人の顔が、一瞬で青ざめる。


「新聞で読んだことがあるよ……おっかないねえ……。」


「でも、加熱すれば大丈夫です。ここは低地なので……沸騰してから一分間、きちんと煮沸すれば飲める水になります。」


 それから一時間後──。

 鍋の中には、村人にとっては夢のような量の、綺麗な飲み水が溜まっていた。


 桃矢は何の迷いもなく、火から下ろした鍋の水をまず一口飲む。

 自分で濾過し、煮沸した水だ。危険性は限りなくゼロに近い。


「この水は、あなたに差し上げます。俺たちを信じてくれたお礼です。」


 するとバリーレが脇から小声で突っつく。

 ……そうだ、水や食料を分けてもらうのが、そもそもの目的だった。


「す、すみません! 怪我人がいるんです。少しだけ、その、水を……いただけませんか?」


「何言ってんだい、これはあんたたちが作った水じゃないか。持って行きな!」


 女性はそう言って、目を細め、大きく笑った。


「あんたたちはこの村の救世主だよ!軍の連中にも、いい人間がいるもんなんだねぇ!」


 その言葉に、桃矢は微笑んだ。

 やり方さえ伝えれば、この村の目の前に広がる湖──それが、無限の水源になるという意味を、村人たちはすぐに理解していた。


「作り方を、ぜひ皆さんで共有していただけると嬉しいです。」


 そう言って頭を下げると、桃矢は水の入った瓶を手に、急ぎ足で診療所へと向かった。




「ただいま戻りました。」


 桃矢とバリーレが診療所に戻ると、シュピュアとトリヒターが顔を上げた。


「水を作ってきました。クーゲルさん、水をどうぞ。」


 苦労の結晶──などと仰々しく語るつもりはない。

 だが、どこか心の奥で「大切に飲んでほしい」という気持ちが芽生えていた。


 それはきっと、この村の人々が水を分けてくれたときに抱いた想いと、そう遠くない。


 ふと横を見ると、バリーレが胸元に手を添えていた。

 彼女もまた、同じ感情を抱いているのかもしれない。


「……バリーレさん。」


 桃矢は、そっと声をかけた。感謝を伝えたかった。


「はい? なんでしょう。」


「手伝ってくれて、ありがとうございます。バリーレさんと一緒だったから、ここまでやり切れました。……俺一人じゃ、絶対に無理でした。」


 バリーレは一瞬目を泳がせると、顔を向け、やわらかく微笑んだ。

 その笑顔につられて、桃矢も自然と表情がほころぶ。


 桃矢は、そっと手を差し出した。

 バリーレは一瞬戸惑ったようだったが、すぐに意味を悟り、ゆっくりと手を重ねた。


 指が触れ、絡む。

 桃矢は静かに、だがしっかりとバリーレの手を握った。


「……やれやれ。」


 クーゲルがベッドの上から、冷めた目で二人を見やった。


「惚気るにはまだ時間が早いんじゃないかね、貴君ら。」


 その呆れた声も、どこか心地よい空気を壊すことはなかった。




 ──それから、五日が経った。


 湖沿いの小さな村にも、少しずつ変化が訪れていた。

 水の浄化方法は村人たちの間に広まり、川辺では同じ手順で瓶を組み立てる姿が見られるようになった。


 桃矢とバリーレは、村人の手助けをしながら、診療所に通った。

 クーゲルの容体は安定し、今ではゆっくりと歩けるほどに回復している。


 外を歩けば、顔を合わせるたびに挨拶が返ってくる。

 最初は閉ざされていた村人たちの目も、今はほんの少し柔らかい。


 桃矢は、バリーレと並んで歩きながら、少しだけ名残惜しい気持ちを抱いていた。


「……少しだけ、名残惜しいですね。」


 バリーレも同じ想いを抱いてくれていると知り、桃矢は密かに嬉しかった。


「そうですね。でも俺たちは、フォルケンハイムに向かわなきゃなりません。聞いた話では、国境を越えるには、カッセルという合法的に国境を渡れる町へ行かねばなりません。フランクフルトはとりあえずその先ですね。」

「それに──アイゼンライヒを追放された今、この地に長居すること自体が、村人たちへの負担になってしまいます。」


 一呼吸置いて、桃矢は静かに言葉を継いだ。


「でも……状況が違えば、バリーレさんとここで暮らしてみたかった。そう思わせてくれる場所でした。」


 バリーレは、思いが通じたことに安堵したように微笑んだ。


「クーゲルさん、リハビリ今日でまだ二日目なのに、もうほとんど歩けてましたね。やっぱり超人です。」


 彼女がくすりと笑うと、桃矢もつられて笑った。


「そうですね、本当に超人ですよ。」


 柔らかな空気が、湖畔の空気に溶け込んでいく。

 しかし、時間は留まらない。次へ進まねばならなかった。


「戻りましょう。シュピュアさんもトリヒターさんも、きっと待ってます。」


 ふたりは小走りに駆け出した。

 この土地を踏み鳴らすのは、もしかすると最後かもしれない──そう思うと、今この一歩さえ惜しく感じた。


 診療所に入ると、クーゲルが屈伸をしていた。


「来たか。行くぞ。」


 クーゲルらしい、簡潔なやりとりだった。

 その一言に、完全な復活を感じさせられた。


「はい。」


 桃矢とバリーレが声をそろえて応える。


「世話になったな、医者。支払いは──いくらになる?」


「もう受け取ったさ。むしろ、こっちが借りを作った。」


 クーゲルは小さく首をかしげた。


「金を貸した覚えはないが?」


 医者は愉快そうに笑った。


「この村はあんたらのおかげで、水という資源を手に入れた。それだけじゃない。外に売る事が出来るようになって未来もできた。湖さえ枯れなければ、ここはもう飢えない。」

「皆の顔つきが変わった。喧嘩も減った。静かに、確かに、村は前に進んでいる。」


 医者は言葉を切り、しみじみと口にした。


「感謝してる。あんたらは、一時しのぎの水や食料じゃなく、“水を作る術”をくれたんだ。」


 クーゲルは眉をひそめた。


「貴君ら、私が羽を休めている間に──一体何をしていた?」


 桃矢は、はにかみながら答えた。


「それは、道中でゆっくりお話します。」




 一行は、村長にこれまでの滞在の礼を述べていた。


「ありがとうございました。あなた方のおかげで、私たちは本当に助かりました。」


 桃矢が代表して、頭を下げる。


 窓からはやわらかな日差しが差し込み、換気された室内には穏やかな風が流れていた。

 それはまるで、見送る者たちの気持ちを映しているかのようだった。


「我々は何も、お主らにしてやれなんだ……それどころか、初めには武器まで向けてしまった。仕方のない判断だったとはいえ、恩人に刃を向けたこと、わしは一生の恥として背負っていくつもりだ。」


 しわがれた声が、少しだけ震えていた。

 それでも村長は、初老とは思えぬはきはきとした口調で、はっきりと頭を下げた。


「私たちはただ、命を救ってもらったことへのお礼がしたくて……。」


 すかさず、バリーレが言葉を添える。


「僕たちっていうより、コーガさんとバリーレさんだよねぇ〜。お姉ちゃんと僕、ほとんど何もしてなかったし。」


「その通りです。」


 桃矢とバリーレは、苦笑し合った。

 助けたいから助けたのではない。ただ、必要なことをしただけだ。

 それを、最初から意図していたように語るのは──何か違う気がした。


「……俺たちは軍から追放された身です。もしも定期検査でアイゼンライヒの兵がここに来ていたら、皆さんにご迷惑をかけていたかもしれません。」

「それをお伝えしたのは滞在の三日目で……後出しになってしまって、本当に申し訳なかったです。でも、そんな俺たちを受け入れてくれた。人の温かさを感じました。」


 村長は、弱々しくも穏やかな笑みを浮かべた。


「わしらは、もともと軍人が大嫌いでな。定期検査も、抵抗していたくらいだ。……だが、それはそれとして、何か礼をさせてくれ。」


 桃矢は後ろを振り返り、仲間たちの顔を見た。


「……ふん。」


 クーゲルが鼻で笑った。その音が、静かな了承の合図のように響いた。


 桃矢は村長へと向き直り、静かに願いを口にする。


「──小舟を、一隻いただけますか?」


 村長は、驚いたように目を見開いた。


「それだけでいいのか?いや、わしらの村はまだこれからで、贈れる物も多くはない。だが、それでよいのなら──喜んで、願いに従おう。」


「ありがとうございます。それでは……これで、失礼します。」


 桃矢が深く頭を下げると、隣のバリーレも、それにならって丁寧に頭を下げた。




数人の村人たちが、小舟を湖に浮かべてくれた。

 五人で乗るには少し狭かったが、そんなことは些細な問題だった。


 岸をオールで押し出すと、舟は静かに──まるで見送る者たちの気持ちを乗せるように──水面を進み始めた。


「本当に、ありがとうございました!」


 桃矢が笑顔で深くお辞儀をする。


「来れるなら、また来い!」


 医者が豪快に笑う。


「あんたたちなら、いつだって歓迎なんだからねぇ!」


 元気な女性の声が続く。


「あなた方の旅路に、祝福がありますように。」


 シスターの穏やかな祈りが、風に乗って届いた。


 ほんの短い間だった。それでも、村の本質は十分に伝わった。

 ──温かく、人の心を信じられる、そんな場所だった。


「延命してしまった以上、生きねばな。」


 クーゲルがぽつりと呟く。


「はい!」


 桃矢は、空を見上げるように元気よく返事をした。


 村に辿り着いたあの日は、雷鳴が轟く嵐だった。

 けれど今は、陽光がやさしく水面を照らし、湖を渡る風が頬を撫でていく。


 一同は──これから先に待つ世界に、ささやかな希望を抱きながら──

 静かに、オールを漕ぎ続けた。

ご拝読ありがとうございました。

プロットが仕上がっていないので、本当に頭を捻らされました。

さて、今回苦し紛れに書きましたお話は、人の心はどこまで善人が悪人に、悪人が善人になれるかの一点にフォーカスを置いて執筆致しました。

舞台はザクロウ村…ですが、作中の中では珍しく存在しない架空の村となっております。

ですが、テンプリン湖は存在します。

綺麗な所ですが、ドイツなので冬には行かない方がいいです。

水辺はクソ寒いです。


話が逸れました。

今回、ようやく神──創造神の存在が明かされました。

行き当たりばったりの話じゃないの?ってお思いの方、タイトルを思い出して下さい!

神様ノ夜ノ傀儡人形(マリオネット)ですよ!やっと本編開始って感じです。

そうです、桃矢くんは神様の都合のいいマリオネットだった訳です。

たまたま異世界征服系の妄想をよくしていたってだけで異世界に送り込まれ、家族や友人、慣れ親しんだ世界とお別れさせられて…

桃矢くんにはほとほと同情します。


さて、10万字以上書いてやっとプロローグが終わった気持ちです。(長かった…。)

携帯電話の伏線もやっと拾えて感無量──とは言えまだ回収出来ていない伏線が山程ありますが。

これからもゆっくりお付き合い頂きますと幸いです。

レビューや感想、リアクションなど頂けましたら大変励みになります!

残していって頂けたら嬉しいです。

それでは、愚筆失礼致しました。

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