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神様の夜ノ傀儡人形  作者: 大嶽丸
第二章
10/12

二章三話 雷鳴

穏やかな団欒の中、一同はノックと共に緊張の渦に落ちる。

クーゲルの売国疑惑が濃くなる中、それを信じたくない者達。

不安と疑惑の中始まる、大波乱の二章三話です。

 夜の兵舎には、静寂が満ちていた。

 蝋燭の炎は揺れることなく、ただ凛とした光を投げかけている。

 誰も口を開かない。けれど、4人は確かにそこにいた。

 部屋の中には椅子がひとつ増えている。

 きっとシュピュアとトリヒターが備品室から持ってきたのだろう。

 その“痕跡”だけが、日常の延長にある小さな変化を物語っていた。


「僕、降りるよぉ……。」


 トリヒターが悔しそうに唸り声を漏らす。

 オープンの合図と共に、手札が一斉に晒された。


「どうだぁ! ストレートじゃい!」


 桃矢が自信満々に札を掲げる。

 手札には、4から8までがきれいに並んでいた。


「あたしはツーペア、負けね。」


「……あっ、私フラッシュです。勝ちました。」


「ま、負けたー!」


 桃矢は手札を盛大にばら撒き、掛け金代わりの石ころを差し出した。

 その瞬間──扉が二度、ノックされた。

 皆が扉に視線を向ける。


  視線の先、扉がゆっくりと開き──見知らぬ男が姿を現した。


 階級章を見ると、恐らく少佐だ。


 皆一斉に立ち上がり姿勢を正し、踵を鳴らす。


「あぁ、邪魔するよ。」


 掠れた声だ。体臭が煙い、恐らくタバコを吸う人なのだろうと桃矢には推測出来た。


「貴君らはクーゲル中尉の部下であってるかね?」


「はい!」


 皆同時に返事をする。


「君らには悪いんだが、クーゲル中尉にはある疑惑がかかっている。申し訳ないんだが協力して貰えんかね。」


 男に椅子を差し出すと、ゆっくりと座る。

 彼はアイゼンファウスト少佐という名前だと名乗った。


「ハッハッハッ、私は彼女とは短くない付き合いでねぇ。なんとか疑惑を晴らしてやりたいんだが。」


 少佐は笑うとタバコを吸い出した。


「あの、それで疑惑の内容と協力内容について教えて頂けますでしょうか?」


 シュピュアが訊ねる。


「あぁ、中尉はフォルケンハイムと繋がりがあるかもしれない。」


 一同に電流が走った。


 しかし、桃矢には有り得ないと即答は出来なかった。

 アイゼンライヒの国政に疑問を持ち、かつフォルケンハイムのやり方は少々荒っぽいが、そちらの方が正しいのではないか。

 クーゲルは過去にそのような事を言っていたからだ。


 否定は出来ず、肯定はしたくない。

 考えを整理すればするほど、第三者目線で見た答えは明白だった。


「何か知っている事はないかね?」


「軍務中に飲酒をしていた事くらいしか、僕にはわかりません。」


 トリヒターがいつになく真面目に答える。


「そうか、正直にありがとうな。中尉に限り飲酒は認められていた。そこは無視してくれて構わない。」


 残る3名とも、何も知らない、思い当たる節も特にないと嘘をついた。


 保険を兼ねて、もしかしたら話を流してしまって忘れているかもしれない。

 シュピュアはそう付け加えていた。


「ふむふむそう、か…うんわかった。時間を取らせて悪かったな。各員休んでいいぞ。邪魔したな。」


 アイゼンファウスト少佐が出て行った後もなお、4人には緊張が走り続けていた。




 窓から朝日が差し込む頃、4人は目を覚ました。


 全員身支度を整え、クーゲルの執務室に行くも、そこには誰もいなかった。

 疑惑を持たれている以上当然と言えば当然かもしれないが、一同は困惑した。


「僕たちの小隊…どうなっちゃうんだろう…。」


「確かに心配だけど、今はそれよりクーゲルさんの身の安否の方が心配だよ。」


 桃矢はそう返した。


「一般的に考えると、あたし達は恐らく、小隊は解散、小隊員は皆別々の部隊に転属。何か隠している可能性がある場合は尋問だと思うわ。」


 シュピュアはそう言うと、更に続ける。


「コーガ、君はちょっと中尉閣下を庇いすぎるきらいがある。上官を慕っている者には忠誠する先を間違えているとして、思想再教育部隊に配属か、訓練学校行きでしょうね…。」


「私、コーガさんと離れ離れになるのなんて嫌です!」.


 シュピュアはわかっているとでも言いたげな表情を見せる。


「あたしの方でも何か出来る事はないか掛け合ってはみますが、平の中では高い階級、程度ですのでどこまでお力添えできるかわかりません。でも、頑張ってみるわね。」


 トリヒターは俯いて小さく震えている。

 こんな短期間で、とても強力な信頼関係が構築出来ていたのかと、シュピュアは驚いていた。


 シュピュアがトリヒターの頭に手を置き、撫でる。

 どうせ無駄だという事はわかっている。

 だからこそ、少しでも自分の体温を覚えていて欲しかったからだ。


「お姉ちゃん、行かないでぇ…。」


 声が震えている。

 階級が低い兵士は、最前線の国境付近に配属される。

 軍事的緊張が最も高い場所だ、不安は仕方なかった。




 桃矢とバリーレは目を丸くしていた。

 自分達に進展があったように、どうやら向こうにも何かしらの進展があったらしい。


 互いに顔を見合わせると、何故だか少しおかしくて、少し吹き出してしまった。


「ふぇ…?」


 トリヒターが情けない声を出すと、3人は笑った。

 緊張の糸が解れた気がした。


「大丈夫ですよ、トリヒター。最短でも今日の夜までには、最長ならあと二日後には辞令が出るでしょう、けどその間は待機命令扱いになる筈です。」

「それまで、皆さんで時間を分かち合いましょう。」


 何も根本的な解決ではなかった。

 しかし、お別れの挨拶と覚悟の準備が出来る。それだけが4人の心の救いだった。




 兵舎の中、4人の間に会話はなかった。


 突然別れの挨拶を済ませておきましょう、そう言われてはいわかりました、と心を易々と動かせるほど人間は単純ではない。


 しかし、トリヒターはシュピュアの手を、バリーレは桃矢の手を握りベッドに座る事で、言葉を交わさずとも心を通わせていた。


 その瞬間は、とても静謐なひとときだった。


 しかし、それを破るかのように扉を二度ノックする音が聞こえると、返事も待たずにぶっきらぼうに開かれる。


「シュピュア伍長、アイゼンファウスト少佐がお呼びだ。」


 階級章は士官候補生上級軍曹の印が光っていた。


「はっ!」


 シュピュアは即座に立ち上がり、姿勢を正し、踵を鳴らす。


 そのまま強く扉を閉めると、足音は遠ざかっていった。


「行ってくるね、トリヒター。」


 小さな、うんという返事に対してシュピュアはにっこりと笑うと兵舎を後にした。




 シュピュアは、身嗜みを正すと、二度扉をノックした。


「シュピュア伍長、入ります。」


 部屋から、おう、入れと掠れた声が聞こえてきた。

 入室すると、アイゼンファウスト少佐は机を前に座っていた。


 この部屋はアイゼンファウスト少佐の専用室である事が伺える。


「悪いな呼び出して、実は貴君には個別で聞きたいことがあってね。」


 そう言うと、アイゼンファウスト少佐は笑顔を作る。


「はい、なんでもお答えします。」


 シュピュアは改めて背筋を伸ばす。


「貴君、ホーエンベルクの家の出らしいじゃないか。」


 眉間に皺が入りそうになる。

 その名は既に不快にまでなっていた自分に驚いた。


「クーゲル中尉の元で不快じゃなかったかね?こんな昼間から酒を飲んでいるような人間の元で昇進が見込めるのかと。」


 答えは半々だった。

 家の呪縛から離れたくて軍に入った。

 しかし、大変な仕事をしたい訳でもなかった。

 とにかく自由になりたかったのだ。

 自由になるにはやはり、地位が要る。


「…はい。仰る通りです。」


 クーゲルの復帰が絶望的な今、自分が誰よりも偉くなり、あの3人を1日でも早く手元に置ける権力、最低でも少尉の階級が欲しかった。


「実はなぁ、効率よく昇進出来るように俺は口利きが出来る。」


 渡りに船とはこの事だった。

 今まさに欲していた事だ。


「俺もよぅく汚い事をして気に入ってもらったもんさ。」


 汚い事……汚職のにおいが、した。


「率直に言おう、シュピュア伍長。俺と寝ろ。それで色々と口利きしてやる。」


 覚悟をしていたつもりだった。

 足りていなかった。父親と年齢が近いこの男と?有り得なかった。


「何が欲しい?お前ら小隊員の転属先か?クーゲル中尉の処遇か?なんでも叶えられるぞ!」


「わかりました。」


 気が付けば、口から言葉が出ていた。




 昼下がり、ベッドの上にシュピュアは裸で寝転んでいた。

 シーツで身体を隠すと立ち上がる。


「あぁ、起きたか。まさか気娘だとは思ってもなかったぞ。」


 この男は、ガサツな笑い方であたしを見る。

 身体の痛みよりも、吐き気が止まらなかった。


「そうだ、面白いことを教えてやろうか。」


 聞く気はなかった。

 しかし、このままでは帰れない。

 シャワーだけでも借りる必要がある。


「クーゲルの奴より身体の具合はお前の方がずっと良かったぞ!」


 動きが、止まった。


「しかし伍長、残念な事に上には上がいる。お前の姉の方が仕事振りも身体の具合もよっぽど優秀だった!」


 あたしの中で、何かが壊れる音がした。

 ……どうせ壊れたなら、仲間を助ける事に利用すべきだと悟った。


 シーツを手放し、醜い男に近づく。


「少佐、もっと上の地位に就きたいです。もう少しお力添え頂けませんか?」


 男の太腿に指を触れる。


「伍長は姉上より聞き分けがいい、これは本当にどちらが優秀かわからなくなったぞ!」


 男は高笑いを上げる。


「私、クーゲル中尉に言いたい事沢山御座いましたの。居場所をご存知なんですか?」


「あぁ、知っているとも。第9牢獄の一番奥の部屋だ。」


 噂ではもう使用されていない、封鎖された筈の場所だった。


「会いに行ってもよろしいですか?」


 肩に触れる。

 男に触る度に嫌悪感、嘔吐感が競り上がる。


「構わんが、もう廃人状態かもしれんぞ?」


 愉快そうに口角をあげる。


「どれ、案内してやろう。シャワーでも浴びなさい。」


「わかりました。」


 足早にシャワーへ向かい、嘔吐する。

 吐くものがなくなった事を確かめると、シャワーから出る。

 手早く服を着て、身嗜みを整える。


「参りましょう。」


 中尉閣下を一目見る為に。




  アイゼンファウスト少佐が鍵を開けると、そこには無数の牢が広がっていた。

 元は捕虜を収容するための施設だが、今や同じ国の兵士に使われている。

 その事実に、シュピュアは思わず胸を締めつけられた。


 歩を進める途中、ふと目を引くものがあった。

 一つの牢の中、虚ろな目をした少年が佇んでいる。


「少佐、彼は?」


「ん? あぁ、あれか。孤児院から連れてこられた子供だよ。人体実験に使うとか、慰み者にするとか──まあ、部署ごとに色々だ。俺には関係ない世界さ。」


 孤児院。

 つい先日耳にしたばかりのその言葉に、シュピュアは眩暈を覚える。

 目の前の腐敗は、想像より遥かに深かった。


「ほら、ここだ。」


 少佐が立ち止まる。そこが、クーゲル中尉が収容されている牢だった。


 ──そこにいたのは、もはや“中尉”という階級を想起させない、ただの少女だった。

 全裸で、両腕は壁の手枷に吊られ、膝をついたまま動かない。

 長かった髪はぼろぼろに千切れ、全身に痣が浮かび、鼻を突く悪臭が漂っていた。


「中尉? 聞こえますか?」


「ハッハッハッ! 何しても反応しやしねぇさ。もう、壊れちまってる。」


 少佐の掠れた笑い声が、シュピュアの神経を逆撫でする。

 その時──かすかに、唇が動いた。


「……伍……長……?」


 かろうじて声を絞り出す。口内が切れているのか、言葉は掠れていた。


「すま……な……。」


(まだ意識が……あるんですか……。)


 その驚きは、怒りと哀しみにすぐ書き換えられた。


「少佐。お伺いしても?」


「なんだ?」


 訊くべきことがあった。


「中尉とは、いつから身体の関係を?」


 感情を押し殺すように問う。怒気が滲まないよう、慎重に。


「なんでそんなことを訊く?」


「……女の醜い嫉妬、ということで納得していただけませんか?」


 アイゼンファウスト少佐は──まるでおかしな冗談でも聞いたかのように笑い声を上げた。


「もう15年近く前からだよ。最近もな、新入りのガキを助けてやりたいって懇願してきてな。あちこち回って身体で交渉したんだ、この女は。」


 面白そうに語りながら、少佐は続ける。


「まだ能力も性格も未知数で、ろくに訊き出しが出来てもねぇガキだったのによ。無茶だったが──だが、それを俺は通せる。

 そういう力がある。だから言うがね、伍長──

 お前のように早々に“媚び”を売るやつは出世する。間違いねぇ。」


 ──その言葉はあまりにも軽やかで、まるで人の尊厳すら冗談のように笑い飛ばす響きだった。

 シュピュアは、今この場にいるのが“人間”ではなく“怪物”だと確信した。


「……中尉は、どうなさるおつもりで?」


「あぁ。明日の夜、フォルケンハイムに情報を流した罪で処刑だな。おまけに、孤児院のガキどもを失踪させたってことにもしてやりゃ他部署にも恩を売れて丁度いい。」


 笑いながら、こともなげに言い放つ。

 その言葉のすべてが、地獄の業火より冷たく、よく通る声で響いた。


「──そうでした。大尉から、昼過ぎまでに報告に来るように言われていたのを思い出しましたわ。」


「ほぉ?」


「ですが、私はまだ中尉を“殴って”おりません。手枷の鍵を、お借りできますか?」


「スペアだ、持っていけ。」


 愉快そうに笑って、ポケットから鍵を放る。


「ありがとうございます。このお礼は……また、身体で……。」


「おぉ、いいぞいいぞ!」


 満足げに頷く少佐を尻目に、シュピュアは鍵を懐に収め、静かに踵を返した。




 兵舎の扉を開けた瞬間、暖かい空気が肌を撫でた。

 3人の姿が視界に入る。笑顔だった。

 その笑顔を見た途端、堪えていたものがこぼれ落ちる。


 シュピュアの目から、静かに涙が伝った。

 次の瞬間にはトリヒターに飛びつき、声を上げて泣いていた。

 理性も体面もなかった。ただ、泣いた。


 エリートとしての自負は砕かれ、身体は穢され、自分という存在そのものが瓦解していくような数時間だった。

 自分が、自分である意味さえ見失いかけていた。


「何があったか知らないけど、お姉ちゃん、辛かったんだよね……僕がいるから。大丈夫だから。」


 トリヒターがそっと背中を撫でる。その手は、小さな姉弟のようでもあり、親鳥のようでもあった。

 撫でられるたびに、胸の奥からなにか濁ったものが絞り出されるようで、シュピュアはさらに泣いた。


 桃矢が無言で近づき、もう片方の背中を優しく撫でる。

 バリーレも立ち上がり、静かにその輪に加わった。


 このぬくもりにずっと浸っていたいと思った。けれど、それは叶わない。


 ──伝えなければならないことがある。


 シュピュアは3人をゆっくり押しのけると、深く息を吸い、そして叫んだ。


「皆さん、聞いてください!!」


 涙声混じりのその声は、空気を裂くように響いた。


「クーゲル中尉閣下は……明日の夜、処刑される予定です!!」


 その言葉に、場の温度が一瞬で冷え込む。

 誰も言葉を返せなかった。代わりに、心音だけがやけにうるさく響いた。


「バリーレさん……あなたの孤児院で、子供が行方不明になったことはありませんか?」


 唐突な問いに、バリーレは一瞬、目を瞬かせた。


「……はい。何人か……姉や兄、妹や弟が……気づけばいなくなっていました。」


 シュピュアは、あの牢獄で見た虚ろな少年の顔を思い出す。


「その子たちは……軍に攫われたんです。私は実際に見ました、9番牢獄で。あの子たちは……生きて捕らわれていました。」


 バリーレの瞳が、見開かれたまま止まる。

 だがシュピュアには、立ち止まって寄り添う余裕がなかった。

 言わなければならないことが、まだあった。


「コーガさん、あなた……以前、捕まったことがありますよね?」


「え? ああ、うん……でも、能力が優秀だったからって、一日で釈放されました。」


 桃矢の返答は歯切れが悪かった。まさか自分が話の矢面に立たされるとは思っていなかった。

 何より、今はバリーレを支えるべきタイミングだったはずだ。


「本当は……言いたくありません。でも、知っておいてください。」


 シュピュアは、もう一度だけ深く息を吸い込んだ。


「中尉閣下は、その一日で、複数の上官と身体の関係を持ちました。……あなたを助けるために。」


 しん、と音が消えたような気がした。


 桃矢の肩が震える。理解が追いついた時、言葉が出た。


「じゃあ……クーゲルさんは……俺を、ただの兵士ですらなかった俺を救うために、自分を……?」


「はい。……そのようです。」


 シュピュアの言葉に、桃矢は拳を握った。


 軍人の私ではなく、一個人である私に感謝してくれた事が嬉しかったんだ。

 クーゲルの言葉が頭の中でロールバックし、反響する。

「俺……何一つ返せてやしないじゃないか……。」


 その叫びは、今にも崩れ落ちそうだった。


「……俺も行きます。行かせて下さい。」

「こんな事で少しでも返せるなんて、思ってないけど、もっと生きていて貰わなきゃ困るんです!」


 桃矢の声は震えていた。


 そんな中、トリヒターが静かに手を挙げた。


「僕も、行きます。……その前に、実家に立ち寄る時間をください。」


 場が静まる中、トリヒターはしっかりと目を開いていた。


「……僕は、大切な人を守るために軍に入りました。でも、こんな国のやり方じゃ……守れない。」


 その言葉に、誰も異論は挟めなかった。


「バリーレさんにも……時間が必要です。」


 顔を伏せていたバリーレが、無言で強く頷いた。


「外出許可の時間は、残り3時間ほど……急いでください。」


 シュピュアのその言葉を聞くなり、バリーレが桃矢の手を振り払って走り出した。

 桃矢とトリヒターも、すぐに後に続く。




  桃矢が孤児院に到着すると、すでに扉は開け放たれていた。

 嫌な予感がして、靴音を響かせながら中へ駆け込む。

 そこで見たのは、槍を握りしめたバリーレと、それに無言で対峙するシスターの姿だった。


 勝てるはずのない相手だとわかっていた。

 それでも桃矢は、バリーレの背後から羽交い締めに飛びかかった。

 しかし、あっさりと背負い投げられる。


 床に叩きつけられた直後、喉元に槍の穂先が突きつけられた。

 それでも、桃矢は動じなかった。


「ってて……。ちょっとは冷静になった?ソフィアさん。」


「コーガさん、どうして!?どうして止めるの!?」


「感情的になる気持ちはわかる。でも……少しだけ、聞いてほしい。」


 バリーレは槍を引き、桃矢に手を差し出した。

 彼が起き上がると、向き直ってシスターを見据える。


「まず、訊かせてください。あなたは──知っていて、児童売買に手を貸していたんですか?それとも……知らなかったんですか?」


 問いながら、桃矢は皮肉気に口元を歪めた。


「……いや、違うな。こんな広い家を隅々まで掃除できるほど、あなたは目が利く。見て見ぬふりをしていたと考える方が自然だ。」


「それとも、“抵抗しても無駄だから”と諦めた? だったら、せめてソフィアさんに、言葉を尽くすべきだったはずです。」


「たとえ襲われかけたとしても、止めてくれと叫ぶとか、誤解だと言い続けるとか……何かできたはずだ。」

「でも、俺が来た時、あなたはただ黙って槍を前に立っていた。ソフィアさんはまだ手を出してもいなかったのに。」


 シスターは沈黙を保ったままだった。


「……こんなに幸せそうな場所なのに。どうして……。」


「誰が……誰が、こんな孤児院に多額の寄付なんてしてくれると思うの……?」


 シスターの声は低く、あのオペラ歌手のようだった高さは面影もなかった。


「数名を渡せば、何年分もの資金が手に入る。ソフィア……あなたも、死んでいった兄姉や弟妹たちの犠牲の上で育ってきたのよ……!」


 バリーレの手から槍が滑り落ちた。


「うああぁぁぁぁぁぁ……!」


 彼女は叫び、頭を抱えてその場に崩れ落ちる。

 桃矢には、その姿をただ見守ることしかできなかった。


「ええ、私は悪魔よ。……でもね、悪魔の手から育った子どもたちは、今こうして天使のように健やかに生きているの。」


 シスターは、床に崩れたバリーレを見つめながら、淡々と続けた。


「誰かがやらなきゃいけなかったのよ。見て見ぬふりも、叫ばないことも、覚悟して選んだ。」

「この子たち全員を見殺しにするか、ごく少数を犠牲にして皆を救うか──あなたなら、どちらを選べるというの?」


 彼女の衣は、すでにぼろぼろだった。

 裾には穴が空き、中心には当て布を縫い付けてある。

 対照的に──思い返せば、子供たちはみな清潔でよく手入れされた服を着ていた。


 シスターが贅沢をしていたとは到底思えなかった。

 ──だからこそ、桃矢には、何も言えなかった。


「……さようなら、お母さん。今まで……ありがとうございました。」


 立ち上がったバリーレは、折り畳んだ槍を手に、背を向けて歩き出す。


「……これがソフィアさんの選択です。俺からあなたに対して何かを言う資格はありません。」


「肯定も、否定もできない。……この世の“正しさ”って、なんなんでしょうね。」


 背中を向けて歩き出す桃矢に、シスターが声をかける。


「あなたはまだ、大人になりきっていない。でも、その答えは──きっと、大人になっても見つからないわ。」


「国の形が変わっても、冷戦が終わっても……正解は、誰にも決められない。」


 そして──静かに、付け加えた。


「こんな悪魔でもね……ソフィアのことだけは、心から愛してきたのよ。お願いね、あの子のこと……。」


 振り返らずに、桃矢はほんの少しだけ口元を緩めた。


 それは、精一杯の優しい笑みだった。

 ──優しい悪魔に、優しい表情で応えるための、ただそれだけの微笑だった。 




 トリヒターは実家の扉を叩いていた。

 応じる音もそこそこに、扉が開く。懐かしい顔がそこにあった。


「あらまあ、どうしたの? よく帰ってきたわね! さあ、上がって上がって!」


 母親は息子の手を取ると、勢いよくリビングへと引っ張っていく。

 この時間にしては珍しく、父親の姿もあった。


「エリアス、帰ったのか。」

「……俺はもう仕事に出るところだが、顔を見られてよかった。」


「パパ、ちょっとだけ……待って。少しだけでいいから、話を聞いて!」


 普段は見せない、真剣な表情。

 鬼気迫るようなトリヒターの目に、父は足を止めた。


「どうした?」


「国が……腐ってたんだ!」

「子供を売ってる! 軍の中では、将校が力を持って女の人を……!」

「僕の上官が、明日の夜、嘘の疑惑で処刑されるかもしれないんだ!」


「わかった、いいからまず落ち着け。」


 父は、静かな口調でたしなめる。

 対して、母の声は震えていた。


「エリアス……その話、本当なの?」


「本当だよ!」

「あんな軍にいたら、パパもママも、新しくできた大事な人たちも、みんな守れない!」


 激情のまま言葉が溢れる。

 だが、父は表情を崩さず、低く、問いかけた。


「エリアス、お前はどうしたい?」


 ──その問いに、トリヒターの息が詰まる。


「……わからない。」


 勢いで飛び出してきたはいいが、自分がどうしたいのか、それだけがまだはっきりしなかった。


 父はひとつ息を吐き、そして言った。


「お前はアイゼンライヒの兵士だ。だが、それ以前に──旧ドイツ人として、清く尊い血を引く人間でもある。」

「正しいと思う道を行け。父さんは、お前を信じてる。」


 しっかりと、混乱を与えぬよう目を見て。

 その言葉は、まるで儀礼ではなく、命を吹き込むような確かな温度があった。


「改めて訊くぞ、エリアス。……お前は、どうしたい?」


「……上官を助けたい。そして……パパとママには、この国を出てほしい。こんな国、危険すぎるよ。」


 父は少しだけ考え込み──ふと、母の方を向いた。


「なぁ、母さん。うちに、仲のいい親戚って……どれくらい、いたかな。」


「……お祖父ちゃんくらいじゃないかしら。」


「そうか。わかった。」


 父は頷くと、言った。


「明日にでも、お祖父ちゃんを連れてイタリアに渡る準備を始める。何かあれば、必ず連絡しろ。……俺たちは、エリアスの味方だからな。」


 無骨な手が、そっとトリヒターの頭に乗せられる。


「たった1ヶ月で……すっかり大人の顔になったな。」


 そのまま、父の手が優しく髪を撫でる。

 母も黙ってトリヒターの肩を抱いた。


 トリヒターは、両親をひとりずつ、しっかりと抱きしめた。

 そしてくるりと背を向け、玄関へと歩き出す。数歩、進んで──


「……行ってくるね、パパ、ママ!」


 振り返って、最大限の笑顔を向ける。

 その目尻に、光が滲んでいた。




 街を夕陽が照らす頃、3人は兵舎に帰ってきた。

 今度はシュピュアが笑顔で出迎えた。


 バリーレは無言のまま、ベッドに倒れ込む。


「あの…伝えたあたしに原因はありますけど、バリーレさん、大丈夫ですか?」


 シュピュアは心配そうにバリーレを見つめる。


「大丈夫…だと信じたい。バリーレは強い人だから。」


 そう言うと、桃矢はバリーレの元へ歩いていった。


「僕は準備出来た。心も体も。後は、中尉さんを助けてお姉ちゃんのアシストをする、それだけ。」


 決意の熱を伝えるように、シュピュアにそっと抱きついた。


「覚悟は、出来てるよ。」


 そう小さく呟いた。


 桃矢は、バリーレの側にいた。


「シスターさん、バリーレのことお願いって言ってたよ。」


 バリーレは顔を伏せている。


「バリーレの事、心から愛してきたって。きっと今後も変わらないと思う。」

「俺も辛いけど、本当に辛いのはバリーレだし、軽々しくこんな事言うのは違うって事もわかってる、でも聞いて欲しいんだ。」


「俺は、バリーレもシスターさんも間違ってないような気がする。途中までは酷い人だって、バリーレの事騙して生きてきた酷い人だって思ってた。」

「けどなんか…あの人は多分違った。優し過ぎて、どこかで狂って暴走してしまったんだと思う。」

「優し過ぎて暴走するだなんて、バリーレとシスターさんは本当にそっくりだね。」


 バリーレは顔を上げる。

 その顔は泣き腫らしていた。


「やっぱり、お母さんの事嫌いになれないよ…。」


 バリーレは桃矢の胸に飛び込むと、声をあげてまた泣き始めた。


 バリーレしか知らない思い出が、きっと溢れ返っていて感情が制御しきれないんだろう。

 桃矢はそう思った。

 自分の両親が、シスターみたいな人だったら、許すのか許せないのか…。


 桃矢の心には到底測りきれない事だった。




 18時、兵士達は本来なら食堂へ行き、食事をする時間だ。


 しかし、バリーレは桃矢の腕の中で泣き疲れて寝ていた。

 トリヒターもまた、シュピュアの胸の中で寝息を立てていた。


 2人は顔を見合わせる。


「あの、何時決行ですか?」


 肝心なことだ。


「そうね…行動開始するなら兵員が一箇所に集中する今か、深夜のいずれかです。」

「でも中尉閣下は怪我が酷かったの、あまり悠長な事は言ってられません。」


「そうですか…。」


 そう言うと、会話が止まってしまった。


 桃矢は考える。

 ルートはシュピュアしか知らない、どう行動し、どう奪還し、どう脱出するか、その後どうするか。

 思い返せば何もかもが不明だった。


「あの、どうやって奪還するんですか?」


 桃矢の問いに、シュピュアは一瞬だけ目を伏せ、すぐに顔を上げて答えた。


「……あたしに考えがあります。奪還は任せてください。絶対にうまくいく保証はありませんけど。」


 その言葉に桃矢は黙って頷いた。どのみち、他に選択肢はない。


「勿論、あたし一人じゃ無理です。だからコーガさん達の力を借りたいのです。」

「地下で待機していただきたいんです。目立たないよう、ひっそりと。」


 言葉を選ぶように、慎重に続ける。


「地下は本来、物資の倉庫として使われていた場所です。今は使われておらず、通路も塞がれているため、出入りは限られている。だから、見張りの目も届かない。潜伏には最適な場所なんです。」


「じゃあ、あとはシュピュアが……?」


「はい。夜中、ちょうど見回りの死角になる時間があります。1分ほどですけど。そこを突く予定です。」


「どうしてそこが手薄になるんですか?」


「その先には川があります。流れが急で、深い。逃げようにも命を落とすだけなので、誰もそこを目指さない。だから見張りも薄い。そういう理屈です。」


 シュピュアの語尾がわずかに震える。


「でも、その川に……?」


「……ええ。そこに飛び込むつもりです。」


 桃矢の顔がこわばった。


「クーゲルさんを連れて……?今のあの人が、耐えられるんですか?」


 静かに、そして残酷に、シュピュアは頷く。


「深夜、川の水温は5度。健康な兵士なら10分が限界です。けれどクーゲル中尉は満足に歩けない。おそらく3分以内に意識を失うでしょう。」


「背負って、3分以内に岸へ上がれなければ……終わりです。」


 部屋に、沈黙が落ちた。


 どちらからともなく、息を呑む音が響く。


「これは──賭けです。」


 シュピュアの声が、僅かにかすれていた。


 桃矢の表情にも、重い影が差していた。




 午後11時10分。消灯時間が過ぎた兵舎は、沈黙の規律に支配されていた。

 この時間、兵士が起きているだけで処罰の対象となる。ましてやうろつくなど、厳罰は免れない。

 だが──


 シュピュアはスカートタイプの軍服に身を包み、連絡通路の二階奥へと続く一本道の廊下を歩いていた。

 ガーターベルトとストッキングが、軍規違反ギリギリの短さのスカートからちらりと覗く。

 普段はパンツスタイルの彼女だけに、通りすがる巡回兵たちは視線を向けたが──誰ひとり、止める者はいなかった。


「アイゼンファウスト少佐から命令を受けて参りました。シュピュア士官候補生伍長です。入室、よろしいでしょうか?」


 第9牢獄の前。彼女は見張りの兵士に声をかける。


「話は通っています。あなたが……シュピュア伍長ですね。どうぞ。」


 ──彼女は少佐から“殴打のための入室許可”とスペアキーを得ていた。それが今、嘘の真実にすり替わっているだけだった。


 足を進めるたび、視界に入る“地獄”に喉奥が軋んだ。

 鼻の下を伸ばした上官たちの中には、明らかに異常な行為に耽る者もいた。

 児童への加虐、動物実験を人間相手に繰り返す者、そして……それを黙認する沈黙。


 最奥。

 そこにクーゲルがいた。


 膝立ちに固定され、肩から先を喪ったその姿は、まるで使い捨ての玩具のようだった。

 切断された右肩は雑に縫合され、止血はされているものの、感染の兆しすらありそうだ。


(……駄目、こんな状態で水に入ったら……。)

(最悪、1分と持たずに意識を失う……。経口感染のリスクも40%以上……。)

(でも、やらなければ、もう……間に合わない。)


 彼女は静かに牢を開け、冷たい鉄格子の先へ足を踏み入れる。

 そして無言のクーゲルに服を着せ、そっと背負いあげた。


「……背負いますよ、中尉。しばらく演技に付き合ってください」


 頷きともつかぬ気配を背中で感じ取ると、彼女は廊下を引き返した。


 通路の誰もが無関心だった。

 いや、“関心を持ってはいけない”時間帯だった。

 この時間帯の出来事は、記録に残されてはならない。

 だから、この時間に起きたことは、たとえそれがでたらめでも“らしく”あれば、それが事実として処理される。


「ん?どうして“それ”を出した?」


 第9牢獄前の見張りが、クーゲルを見て眉をひそめた。


 シュピュアは振り返り、媚びを含んだ笑顔を見せる。


「アイゼンファウスト少佐のご命令ですの。元上官と元部下で、同性愛ごっこをしろと……困ったものですわ。」


「──あたし、本当は少佐がいいんですけど。でも、気に入られるには仕方ありませんわね。」


 どこか哀しげに笑ってみせると、兵士は苦笑交じりに言った。


「……まったく、あのお方は性的倒錯が過ぎるからな。体力を使い果たすなよ?明日の勤務に響くぞ。」


「お気遣い、感謝いたします♡」


 兵士が背を向けると、彼女の目から微笑みが消える。


(……あと少し。死なせませんよ、中尉。)


 その呟きは、誰にも聞こえなかった。




 1階に着き、脱出地点へ向かう。


「兵舎の掲示板を割ってくれ。私は軍から離脱する。これ以上、貴君らを巻き込みたくない。」


「あら、昼間に見た時より腕は減っても、ずいぶん喋れるようになったんですね。生きていて、何よりですわ。」


「……お喋りはいい。兵舎に戻ってくれ。」


 そのとき──物陰から、桃矢が顔を出した。


「クーゲルさん!? 無事だったんですね……でも、一大事です!」


「異常事態か?」シュピュアが身構える。


「はい。シュピュアさんが言っていた、警備が疎らになる“隙”のポイント──あそこに警備兵が倍以上配備されてます。巡回も重なってます。」


「そんな……!」


 シュピュアの顔から血の気が引いた。脱出計画の“唯一の抜け穴”が、潰された。


「だから言っただろう。兵舎に戻れと。」


「でも、そこに出口なんて──!」


「ある。掲示板を壊せ。その中に2枚の写真が入っている。それを持ってきてくれ。」


「……!わかりました、すぐに戻ります!」


 クーゲルを背負ったまま、シュピュアは地下へと姿を消す。

 闇の中で息を潜める数分間が、永遠のように思えた。


 ──やがて桃矢が戻ってきた。手には2枚の写真が握られていた。


「これ、すごいモノですよ……!」


 シュピュアは写真を受け取り、目を通す。


 一枚目。

 映っていたのは、麻薬を吸引するアイゼンファウスト少佐の姿だった。

 それはあまりにも決定的で、見ただけで吐き気がするようなスナップだった。


 もう一枚。

 軍の麻薬購入履歴を撮影したもの──そこには、


「……総統閣下のお名前がある……!?」


 シュピュアは思わず声を震わせた。


 国家そのものを揺るがす禁忌の記録が、今、彼女の手の中にあった。


「い、いつの間にこんなものを……。」


「貴君らに“娯楽はモノポリー程度のものまで”と書きに行ったときだ。あれは、掲示板が掲示板として機能していると見せかける偽装のための文章にすぎない。」

「何も書かれていなければ割られていたかもしれんが、何か書いてあるのなら、精々探すのは掲示板の裏までだ。」



「……ってことは、兵舎をもらった初日……!?」


 桃矢の目が見開かれる。


「不思議に思わなかったかね?解散直後に真っ先に兵舎に向かった貴君らよりも先に、私の書き置きが残っていたことを。──不思議に思わなかった貴君らが、私は不思議でならないよ。」


 桃矢は悟る。

 常人離れした身体能力──一秒間に1km走り、一跳びで30mを超える跳躍──

 だから、彼女は先にいたのだ。


 しかし、疑問が残った。


「……じゃあ、どうして逃げなかったんですか?」


 問い終えるより先に、クーゲルが答えた。


「逃げれば、やましいことを隠す証拠になるだろう。身に覚えがなければ、堂々としていればいい──そのつもりだった。」


「けれど……処刑されそうになるまでされるとは、予想外だった。ですか?」


「そういうことだ。あのときすでに体力は尽きていた。手枷を引き千切ることもできなかった。」

「恐らく、カメラのフラッシュを見られていたのだろう。私は……酒場で貴君らを激励した、その夜に拘束された。」


 シュピュアが小さく首をかしげた。


「でも……どうして、わざわざ少佐が、2日後に自ら兵舎へ? 普通は部下をよこすはず……。」


「そうなんです。『疑惑を晴らしてやりたい』と言ってました。」


 2人が目を見合わせた、その瞬間。


「──これを、探していたんだ……!」


 シュピュアが握る写真が、かすかに揺れた灯りに照らされ、鈍く光を返した。


「私はこれを交渉材料に使う。……この国から、脱出する為に。」


 その瞬間、2人はようやく理解する。

 何が、クーゲルをあの地獄に沈め、

 そして今、再び引き上げようとしているのかを。




「ッ……!トリヒターさんから連絡です!」


 突然の桃矢の声に、クーゲルは訝しげに眉をひそめた。

 だがその手元には、連絡機器の姿など見えない。

 一般的な携帯無線は公衆電話に近い大きさで、持ち運びが不便なため携行も目立つ。

 どこをどう見ても、桃矢は丸腰だった。


「貴君……何を言っているんだ?」


 視線が鋭くなる。

 この非常時にふざけている余裕などあるまい、という圧が込められていた。


「トリヒターさんの能力です! 僕にアンテナを手渡す事で、このアンテナにトリヒターさんが情報を送ってくれているんです!」


 言いながら桃矢は、軍服の袖口から小さな金属製の棒──アンテナらしきものを取り出してみせた。

 光を反射するそれは、玩具のように見えて、どこか異様な存在感を放っていた。


「それで、なんと言っている?」


 クーゲルは表情を変えぬまま、淡々と訊く。

 彼女の声は落ち着いていたが、背中に負ったクーゲルの体が一瞬、わずかに強張ったのをシュピュアは感じ取った。


「更に見張り増加。これ以上は発見される可能性あり──とのことです。」


 それを聞いたクーゲルは、短く吐息を漏らすと顔を伏せた。


「帰還命令を出せ。」


「わかりました!」


 桃矢は即答し、そして──躊躇いなくアンテナを両手で折った。

 ぱきん、と硬質な音が響く。

 次の瞬間、アンテナは淡く光りながら、ふっと空気に溶けるように消え去っていった。


「これでアンテナ情報が消えるので、連絡の必要なし、合流せよ──という合図にしたんです。」


 どこか誇らしげな口ぶりだったが、その奥には焦燥と不安が滲んでいた。

 短時間でここまで準備していたことは称賛に値する。だが、状況は一秒ごとに悪化していた。


「……どうやらトリヒターの能力は、彼から“声”を送り出すだけのものらしいな。」


 クーゲルがふっと唇を歪める。

 それは皮肉でも侮蔑でもない。

 どこか微笑ましさすら含んだ、大人の笑いだった。


「記載してあった能力には“音を操る”と書かれていたはずだが……さては、あいつ、能力開発研究者をたばかったな?」


 その目に、かすかに笑みが灯る。

 緊迫した状況の中で、わずかでも心を解す一瞬だった。


 そのわずか数分後──。


 急ぎ足で階段を下りてくる足音が響いた。

 その主は、トリヒターを小脇に抱えたバリーレだった。


 息も乱さず、それどころか、表情は穏やかですらある。


「ただいま戻りました、コーガさん。クーゲル中尉、戻られたんですね……よかった。」


 バリーレの目尻に、かすかな涙が滲む。

 だがそれは悲しみではなく、安心と再会の喜びがこもったものだった。


「クーゲルさん! ご無事で何よりです!」


 トリヒターが、抱えられたまま満面の笑顔で手を振った。


「お姉ちゃん、ただいまぁ♡」


 その甘えた声に、クーゲルの肩が小さく震え──ぷっ、と噴き出した。


「ちょ、ちょっと待て。色々と前後確認が必要だ。」


 呆れたような、それでもどこか安心しきった声音だった。


「それは後からでも出来ます! どこへ行くんですか?」


 桃矢が前のめりに問う。

 今、このタイミングでクーゲルが何を選ぶのか──誰もが、その答えを待っていた。


「あぁ……アイゼンファウスト少佐の執務室だ。」


 静かな口調だった。

 けれど、その声には、どこか雷鳴のような力がこもっていた。




 一同は、アイゼンファウスト少佐の執務室前にたどり着いた。

 足音ひとつ立てず、息を詰めるように立ち止まる。


「いいか、コーガ。軍務中のノックは二度、軍務外のプライベートのノックは三度だ。」


「つまり、今は作戦行動中なので二度ですね?」


 桃矢が小声で尋ねる。

 その手は既にノックの構えに入っていた。


「違う。確かに我々は今、半ゲリラのような状態だが……プライベートで奴に一発入れなきゃ、腹の虫がおさまらんから三度だ。」


 その声は静かだったが、含まれた怒気は鋭く、鋼のように冷たかった。


「了解です!」


 桃矢は敬礼のような動作をすると──コツ、コツ、コツ、と三度、重たく扉を叩いた。

 硬い木の扉が、微かに振動する。


「誰かね。」


 中から掠れた声が返る。

 酒と煙草で潰れた声だった。


 シュピュアの表情が、獣のような憎悪で染まる。


「私だよ、アイゼンファウスト。会いたくなかったか?」


 肩に担いだクーゲルが、虚ろなまま小さく笑った。

 力ない声で、ケラケラと乾いた笑いが零れる。


「お前たち、何の用だッ!!」


 扉を開けた途端、アイゼンファウストは唾を飛ばしながら怒鳴り散らした。

 薄暗い部屋の奥、彼は椅子に座ったまま、額に汗を滲ませていた。


「やれ。」


 クーゲルの短い一言が落ちる。

 次の瞬間、バリーレが一歩踏み出し、躊躇なく槍を振り下ろした。


 鈍い音が響く。

 太腿を砕かれ、アイゼンファウストの体がずるりと椅子から滑り落ちた。


 彼は呻きすらせず、ただ歯を食いしばったまま動かない。


「……ッッッ!!」


 苦悶に顔を歪めながらも、叫び声を上げないその姿に、クーゲルは感嘆の笑みを浮かべる。


「ほう、腐っても少佐まで登り詰めた男か。声ひとつ上げんとはな。」


「右腕の件は、これでチャラにしてやる。」


 その一言に、桃矢たちは顔を見合わせた。

 右腕? 何のことだ?


 しかし、シュピュアだけが静かに頷いた。

 暗がりに隠されたクーゲルの体から、何かが──足りなかった。


「シュピュア、例のものを。」


「はっ。」


 シュピュアは一歩前へ出ると、懐から2枚の写真を取り出し、デスクの上に投げつけた。


 写真はひらひらと宙を舞い、しんとした室内に着地した。

 その白黒の一枚には、アイゼンファウストが麻薬を吸引している姿。

 もう一枚には、軍の購入履歴──そしてそこに記載された、あまりにも大きな“名”。


 総統閣下──。


「それをやる。私達を見逃せ。その後の処遇はそちらで決めていい。もし飲むなら、私はその写真について一切口外しない事を約束しよう。」


 クーゲルは、負傷した体のまま堂々と笑った。

 表情に勝ち誇るような色はない。ただ、静かな確信がそこにあった。


「いや、貴様にとってはもう、私は会いたくない存在か?」


 アイゼンファウストの肩が震える。

 顔が紅潮し、青ざめ、また赤らみ、変化するたびに理性が失われていくのがわかる。


「ころころ顔色の変わる奴だ。映画も白黒じゃなく、これくらい色鮮やかだと楽しめるんだがな。」


 クーゲルの皮肉に、誰も言葉を返せなかった。


「あぁ、そうだ。私は亡命する。金が要る。隠し金庫にある金も寄越せ。」


「まさか、私を“犯罪者”とは言うまいね?」


 クーゲルがわざとらしく眉を上げて見せると──


「持ってけッ!!」


 アイゼンファウストはデスクの下から小型の金庫を取り出し、力任せに床に放り投げた。


「貴様ら全員、追放だ!!二度とその顔を見せるな!!」


 怒りと恐怖と羞恥を混ぜた、動物じみた声で叫ぶ。

 机の上の赤いボタンを叩くと、すぐに扉が二度ノックされ、兵士が一人、入室してきた。


 しかし、室内を見渡した瞬間──兵士は顔面蒼白になる。


「俺の事は後でいい!外の警備連中全員に、今から10分の休憩を与えろ!今すぐだ、行け!!」


 兵士は声を上げることも出来ず、ただ敬礼し、踵を鳴らして駆け出していった。


「……何から何まで、ふん。悪いな。」


 クーゲルは、小さく鼻で笑った。


「ざぁ〜〜こぉ♡」


 一番最後にトリヒターが一言残した。


 一同は、金庫と共に部屋を後にし──

 そして、窓から外へ飛び降りた。


 不思議なほど、誰の視線も感じなかった。

 巡回兵も、見張りも、すべてが消えたかのようだった。


「どうして……あんなに簡単に引き下がったんですか?」


 桃矢の問いは、疑問というより呆然としたつぶやきだった。


「ん?私が口を開けば、大物が芋づる式に釣れるからだ。」


 クーゲルは前を見つめたまま、さらりと言う。


「奴にとっては“処分”される恐れよりも、“拡散”される恐れの方がよほど恐ろしい。情報は、消せるうちは力だが──消せなくなったら地獄だ。」


「えっと、つまり…?」


 抽象的過ぎて、シュピュア以外は理解していなかった。


「自分だけなら失脚で済むが、大物が釣れたら原因を作った奴は消される。ここまで言えばわかるか?」


 クーゲルが前を見据えたまま、静かに言った。


「あっ、そういう事なんですね。」


 バリーレが納得した。


「だからこそ、あんなに簡単に折れたんですね……。」


 桃矢がぽつりと漏らす。

 それは自分たちが今、どれだけの“爆弾”を抱えているかをようやく実感した瞬間だった。


 するとシュピュアが小さく呟く。


「……あっさり鍵を渡すような人ですもの。

 最初から“詰み”だったのよ、あの人には。」


 その声に、わずかに冷たさが混じっていた。

 誰も、今夜のこの場面を忘れることはないだろう──そう、確信するように。




 すっかり昼になり、皆が昼食のことを考え始めた頃、クーゲルは目を覚ました。


「……ん。諸君、おはよう」

「私は何時間寝たかね。」


 桃矢はクーゲルを見ると、ゆっくり答える。


「およそ11時間程です。おはようございます。」


「もう私は、君達の上官ではないよ。その口調は変ではないかね?」


「それを言ったらクーゲルさんもそうじゃないですか!」


 一同は小さな笑いに包まれた。


 暖かな陽射しだった。

 人の背中など、とんとクーゲルは久々であった。


 しかし、次第に頭が回り始めると、聞かねばならない事がある事に気がついた。


「シュピュア、バリーレ、トリヒター──私に付き合って追放されたようだが、実家のことは……よかったのか?」


 身体を起こしながらクーゲルが問いかけると、バリーレはあっさりと言った。


「帰る家がなくなりました。」


 その声には迷いも未練もなかった。


「あたしは、元々実家大嫌いでしたので。」


 シュピュアが肩をすくめるようにして、苦笑した。


「僕のパパとママは、イタリアに行くって言ってました!」


 トリヒターの声には明るさが戻っていた。


「俺は……帰り道も分かりませんし、皆に情が湧いちゃったし、大切な人もいるので。現状、不満はありません。」


 桃矢も、どこか吹っ切れたような笑みで答える。


「……そうか。」


 クーゲルは静かに目を細め、空を見上げる。

 雲の切れ間から差し込む陽光が、顔を優しく照らしていた。


「クーゲルさん、これから──どこへ向かいますか?」


 桃矢が尋ねる。


「そうだな……ミュンヘンか、ハンブルクか……」


 少し考え込み、目を閉じてから、ふと笑みを浮かべる。


「……いや、フランクフルトにしよう。あそこの飯は美味いらしい。」


 小さな冗談に、一同はくすりと笑った。


 そのとき、穏やかな風が一同を頬を撫で、包み込んでは過ぎ去って行った。

 まるでそれは、アイゼンライヒという国が、惜しむようにクーゲル達の後ろ袖を引いて名残惜しむかのようであった。

 しかし、歩を止める事はしなかった。

 何故なら、その時間はとても穏やかに流れていたから──。

ここまで、ご拝読ありがとうございました。

ここから読んだ人はよくわからなかったと思うので、よろしければプロローグから読み直して頂けますと幸いです。


ここまでお付き合い頂けた方、ありがとうございました。

伏線回収+カタルシスを感じる+一同追放という回でございます。

本来はこれがやりたかったから、寧ろここからが話のスタートであり、やっとプロローグが終わった感が筆者にはあります。

所々注訳を挟みたい場所があったんですけど、プロローグ最終話なので、没入感を阻害すると思って特に書きませんでした。


次回からはフォルケンハイム編へ突入したいと思います。

ここまで読んで下さった方は、引き続き読み続けて頂けましたら幸いです。

それでは今回はここまで、愚筆失礼致しました。

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