1 侵入者
「退屈だ……」
琳娜がごちる。
船旅1日目。初めて海の上で過ごす1日、初めての船。そんな心躍る状況で何故膨れっ面をしているかと言うと、その理由は、彼女は今机に向かって勉強をさせられているからである。
本来、船上でやるべき仕事は沢山ある。船の整備、掃除、商品の管理、取引帳簿の確認などなど。しかしそれらを琳娜が何故やらせてもらえないか。理由は明白であった。
(叔父さんは私をやっぱり商人のひとりとしては見てくれていないのよね)
数々の粗雑な言動も許してくれて、実の子どもと養子である琳娜に分け隔てなく接してくれる徳清だが、やはり根底にある考えは「女は家を守るもの」なのだろうか。
今回の航海に連れてきてくれた名目も、見聞を広げさせるためであったし。
そんなわけで部屋に閉じ込められているのだが、こうして考え事をしていることから分かるように、琳娜は勉強には飽きてしまっていた。
というか、徳清にやれと言われるからやっていただけで、別に勉強は好きではない。元々、あちこち走り回っていたりする方が好きな型なのである。
(よし、勉強なんかやーめた)
監視役の侍女が少し部屋を出て行った時機で、琳娜は持っていた筆記具を机の上に放り投げる。
そそそ、と部屋の扉を開けると、誰もいないことを確認してから部屋を出る。これでも一応、後ろめたい気持ちはあるのだ。
(まずは甲板に行って、それから調理場と…貨物室に行ったら、流石に怒られるかな。)
考えながら、鼻歌でも歌いそうな様子でいると、後ろから見覚えのある声が聞こえた。
「おい琳娜!勉強はどうしたんだ!大人しく部屋にいるようにって言われてただろ!」
(げっ、涛宇だ)
よりによって涛宇に見つかるとは運が悪い。こやつは父親に似ず琳娜に厳しいのだ。絶対に連れ戻されるし、徳清に告げ口されるかもしれない。
琳娜が慌てて逃げ出すと、その後をしっかり涛宇が追いかけてくる。
狭い通路の中を裙を履いている琳娜は何度か転びそうになりながら駆けていく。
船の揺れに耐えながら、なんとか通路を抜けると階段を駆け上がる。木製の階段がぎしぎしと2人分の音を立てる。
追いかけっこのようで、だんだんと楽しくなってしまい、しっかり前を見ないで走っていると、急に誰かにぶつかって尻もちをついてしまった。
「あっ、ごめんなさ…」
(子供?)
ぶつかった相手は琳娜よりも小さい子どもだった。なんだか少し汚いなりをしている。まぁ琳娜も相当服を着崩しているし、あまり人のことは言えないのだが、なんというか、それとは違う汚らしさなのである。
(まるで浮浪児みたいな…)
こんな子どもも船に乗っていたのか。誰かの血縁だろうか、と思わずじーっとその子を見ていると、後ろから声が聞こえた。
「おい、琳娜。お部屋に戻ってお勉強をしようか。」
(あ、しまった)
すぐさま逃げ出そうとしたが、しっかり首根っこを掴まれて捕獲されてしまっていた。
2つも年上の男に抵抗しても無駄だと諦めた琳娜は、大人しく降参だと手を挙げる。
そうして、なんだか怖い笑みを浮かべた涛宇に、引きずられるようにして部屋に戻って行った。
子どもは、いつの間にか姿を消していた。
◇
「だーかーら、本当にいたんだってば!子どもが!」
涛宇がありえないと首を振る。
部屋に連れ戻されてから、部屋に戻ってきた侍女の監視の元、一日中勉強をさせられていた琳娜だったが、食事の時間だということで食堂で皆で夕食を頂いていた。
せっかくなので本日の内容を紹介しておく。
記念すべき初の夕食は米粥に魚のスープ、塩漬け卵の青菜の炒め物、干し豆腐の和え物、漬物だ。
まだ1日目ということで、新鮮な食材が沢山あり、生魚や生の野菜がふんだんに使われている。普段の食事と大きな差異はないと言って良いだろう。
さて、話が逸れたが、先程から琳娜は何を話しているかと言うと、昼間見た子どもの事についてである。
あの子どもは誰だったのだろうと気になって涛宇に聞いてみたのだが、先程から知らぬ存ぜぬで話にならない上に、琳娜の虚言まで疑いやがる。
まったく、失礼なやつである。絵まで描いたって言うのに。
「だいたい、この絵はなんだよ?人間のつもりか?」
琳娜が描いた絵を下手くそだと言いたいらしい。自分だって描けないくせに、と心の中で悪態をつく。
こやつは駄目だ、他を当たろうと思っていると、不意に声を掛ける者がいた。
「おやおや、これは少女の絵かな?」
「叔父さん!」
流石、私のことをよく分かってくれている、と琳娜は嬉しそうに顔を上げる。
その横で涛宇が、どうしてこの絵が解るんだ…とか何とかぼやいていた気がするが琳娜は大人だ。無視能力を持っているのでここで言い返したりしない。
「この船にいたって言うのかい?」
「そう!いたのよ、私見たの!私より小さくて、なんというか、浮浪児のような見た目だったの」
琳娜が嬉しそうに伝えると、徳清はうーん、と考え込む。
さすが徳清だ。琳娜の絵と証言を何も疑うことなく信じてくれて、こうして真剣に考えてくれる。まったく、何処かの誰かとは大違いである。
まぁ琳娜は大人なのでそんなこと敢えて口に出したりはしない。くどいかもしれないが、大事な事なので2回言っておく。
「迷い込んだのか?それとも、浮浪児と言うのなら盗人かな。どちらにせよ、そんな者が侵入してきたのなら問題だね。船員に確認させておこうか…」
「失礼します!」
徳清が考えている時に割って入ってきたのは、よく一緒に船旅及び商売を共にする商人の1人である。
「備蓄室の中に、こんな子供がいたのですが。」
差し出されたのは、小さい背丈の薄汚れた子どもだった。抵抗こそしていないが、猫のような…いやそれよりもっと鋭い目つきで琳娜たちを睨みつけている。
「私が昼間に見た子よ!」
琳娜が興奮して大きな声で叫んだので、子どもはその声に驚いてびくっと身体を震わせた。
琳娜はそっくりだろうと言わんばかりに先程の絵を見せつける。
背は低くて、不潔感のある汚いなりだけれども黒曜石のような真っ黒な髪と瞳が輝く少女だった。