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さくら荘の住人たち  作者: 栞
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203号室 鈴木さん

 つややかに光るエナメルの靴に容赦なく踏みつけられた鉄の階段は、軽やかな音に混ざって小さな悲鳴をあげる。春の陽光を浴びようがさび付いたそれは光ることもせず、コンクリが寝そべる地面にはらはらと赤茶けた粉を落とした。それらは軽やかに舞い降りた桜の花びらと並んで、居心地悪そうに身じろぎをした。

 時代に取り残されたような住宅街には空き家がちらほらと目立ち始め、そうでなくても住民の平均年齢があがったせいか暖かい春の日だというのに静けさが包み込んでいる。その中でやはり同じように沈黙するアパート内で、その足音はどうしようもなく目立った。階段を登りきったわたしは背後を振り返って、周囲の路地に人影がないか確認して、安堵の息をついた。――大丈夫、誰もいない。

 廊下の右側に年季の入った木目調の扉が並んでいる。部屋番号を流し見ながら肩から掛けた鞄の内ポケットから鈴のついた鍵を取り出した。二〇三号室の前で一瞬立ち止まりかけて、慌てて通り過ぎた。今日は『ある』らしい。わたしの部屋は隣の二〇四号室だ。

 ノブに鍵を差し込んでひねると同時に、隣からも鍵が回る音がした。キイ、と小さな音がするので右へ視線を向けると、二〇三号室の扉が薄く開いてこちらを伺う大きな瞳と目が合った。

「おかえり、アキちゃん」

 まばたきをすると長い睫毛がぱさぱさと揺れる。部屋の中は影になっていてよく見えないけれど、テレビの音が漏れ出ている。

「鈴木さん、ただいま帰りました」

 軽く頭をさげると、嬉しそうに目を細める。そうして隙間から廊下の様子をうかがうように目線を向けたので、わたしは再度周囲を確認して頷いた。

「大丈夫、誰もいませんよ」

「ありがとう」

 助かるわ、と言いながら鈴木さんはするすると音もなく這い出てきて、顔を覗き込んできた。鈴木さんの目は顔らしき場所の半分以上を占めていて、宇宙の果てのような闇がその瞳に棲みついている。彼女の背後で扉が閉まる小さな音がした。

 鈴木さんはわたしの半分くらいしか背の丈がない。小さな子供がおばけのふりをしてシーツを被ったような姿をして、頭と体の区切りがわからない。艶のある乳白色の肌は、布というよりはわたしが子供の頃から愛用している陶器のマグカップに似ていた。足はないけれど滑るように動く。這っている、という言い方で正しいのかはわからない。でもたぶん歩くとは少し違う。手の代わりに、身体から細い腕のようなものがしゅるりと伸びている。一般的に触手と呼ばれるものを、鈴木さんと会ってわたしは19年生きてきて初めて目にしたのだった。

「進級おめでとうね。大学はどう?」

「去年より授業も減らせそうなので、楽になりそうです」

 あらまあ、よかったわねぇ。アキちゃん、朝弱いものねぇ。笑いを含んだその声には異国の音楽が混ざっている。果たして彼女が発しているのは言葉なのか、それとも歌なのかわたしには分からない。ただ彼女と会話が成り立っている、というだけでその方法はどうでもいいような気さえする。どちらにせよ鈴木さんの発する音は心地よく耳に届くのだ。

「それでね、アキちゃん。ちょっとお願いがあって……」

 心地よいリズムに申し訳なさそうな色が混ざる。目を伏せた鈴木さんは、細い腕をこすり合わせた。陽光が廊下の窓から差し込んで彼女の肌で踊る。

「大丈夫ですよ、夕方の時間指定だけお願いします」

「本当? いつもありがとう」

 彼女はいつも謝りながら依頼をしてくる。わたしがこのアパートに住むことの条件になっているのだから、必要ないことだというのに。律儀な人だな、と思うし、もっと距離を詰めてくれてもいいのに、とも思う。彼女なりの距離の取り方なのかもしれない、これから変わるのかもしれないし、変わらないのかもしれない。どちらにしろせよわたしが彼女を好きなのは変わらない

「去年のライブ、評判良かったからDVDになるのが楽しみだったのよ。やっと発売になるの」

 そういえば鈴木さんの好きなアイドルグループの名前を今朝のニュースで見かけたな、と思い出した。このことだったのか。楽しみですね、と言うとふふふ、と笑いながら鈴木さんは少し体をくねらせた。

「届く日には『いる』ようにしておくから。チャイム鳴らしてね」

「わかりました」

「……せめて宅配の受け取りができるくらい、変装出来たらいいのにねぇ」

 不便なものね。とため息を吐きながら鈴木さんは自室のドアへと這い戻っていく。

「まあどちらにしろ、一つ目専用のサングラスなんて、ないものねぇ」

 ドアノブに器用に腕を巻き付けて、捻って開く。昼間に似つかわしくない闇が隙間から零れ落ちて、同時にテレビの音が再び廊下にあふれ出てくる。じゃあアキちゃん、よろしくね。またね。手を振るようにゆらりと腕を揺らして、鈴木さんは部屋へと吸い込まれる。そして扉も閉まると同時に壁と溶け合って消えてしまった。

 薄汚れて白色なのか灰色なのか分からない壁が、二〇二号室と二〇四号室の扉をつなげている。もう一部屋作れそうな空間がそこにはある。しかしそこに二〇三号室は既に存在しなかった。窓から差し込む光が空中の埃を照らして雪の子が舞う。遠くでうぐいすの鳴き声がした。

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