7.ボクっ娘の甘えはタメ口先輩の逆鱗に触れるらしい
「あっ、椿くん。顔を洗いに行こうよ? 土が付いたままだと目立っちゃう」
「お揃いで授業を受けても俺は構いませんよ?」
「ううん、それだと椿くんに迷惑がかかっちゃう。顔はキレイにしておかないと駄目!」
「ははー仰せのままに」
「……椿くんはすごく優しいよね」
「いえいえいえ」
「椿くんとは逆方向になっちゃうけど、教室でまた会おうね」
天然菩薩さまは途中まで一緒に廊下を歩いていたのに、顔に付いた土を洗いに行くと言って、女子トイレがあるであろう逆方向に向かって、スタスタと歩いて行ってしまった。
長い時間顔を踏まれ続けた俺と違って、横に寝そべっただけの彼女の顔は汚れなど無かったのだが、綺麗好きな彼女は流石と言わざるを得ない。そんな彼女よりも明らかに泥が付きまくりの俺は、念入りに洗わなければ一部始終を見ていない連中にもばれてしまう。
「そこのトイレに入ろうとしてる変態野郎、止まれ!」
俺ではないな。変態野郎などではないし、言われて止まったら顔すら洗えない。
「さて、念入りに顔でも洗うか……」
「待てっつってんだろうが! シカトしてんじゃねえぞこの野郎!」
ガシッと思いきり肩を掴んできたタメ口先輩の握力は半端なく、トイレに入ることすら許してくれなかった。顔を洗いたいだけなのに、何故こうも絡まれるのか。
「おや? 先輩は確か、二度と絡んで来るんじゃねえとか言ってませんでしたっけ?」
「お前、教室に戻るんだよな? だったら、あたしを連れて行け!」
「戻るには戻りますけど、顔を洗いたいんですよ。先輩に踏まれまくられてごらんのあり様でして……」
「ちっ……」
「そういうわけなんで、トイレに入らせて頂きま――」
「誰が勝手に動けって言ったよ? 動くんじゃねえ!」
がっちりと掴まれている肩に先輩の手形が付くんじゃないかと、内心ハラハラドキドキだ。痛さと恐ろしさが襲って来ているが、俺と教室に戻るのは嫌じゃないのだろうか。
「しかし顔は綺麗にしておきたいわけでして……」
「お前がトイレに入ったらどこかに脱走するかもしれねえだろうが! 動くんじゃねえぞ?」
「じゃあ先輩が顔を綺麗にしてくださいよ。万が一の話ですけど、俺が暴れて先輩に抱きついてしまえば、顔の泥は先輩にも付きますよ? それでも良ければ……」
抱きつく前に異次元にぶん投げられそうだが、この可能性をどう受け止めるか。
「くそが……お前ハンカチは持ってんのか? あるならよこせ!」
「一応身だしなみとして持ってますけど、どうするんです?」
「じっとしてろ! 瞬きもすんじゃねえぞ。息も止めろ! 口を閉じやがれ!」
「……へ? あだだだだ!? も、もう少し優しく拭いていただだだ!」
「黙ってろこの野郎!」
もの凄く汚いものを見る目でいる割に、人のハンカチを奪うとすぐに、俺の顔をまんべんなく拭き始めた。よくよく間近で先輩のお顔を眺めると、まつ毛も眉毛も整えているし、唇にはほんのり桃色っぽいグロスのようなものを塗っていて、何だか色気を感じてしまった。
「……何だ? 何見てやがる!」
「いえいえ、先輩のお顔がこんな間近にあることが奇跡的なものですから、感動を覚えていた所でして」
「年下野郎が生意気言ってんじゃねえよ! 目を瞑ってろって言ったはずだ。拭き終わるまで見るんじゃねえ!」
出来ればおみ足も見ていいですか? なんて言えば二度と目を開けることは叶わないだろうから、それは自重しとこう。それにしても念入りに顔を拭いてくれている。先輩の化粧か何かの香りは誘いか?
「よし、これでいい。目を開けろこの野郎!」
「あ、ありがとうございますが、せめて俺の名前を一部分でも呼んで頂けると、嬉しさのあまりスライディングをしたくなりそうです」
「――あ? 名前? 変態野郎に名前なんかあったのか?」
「廊下で名乗ったはずですよ?」
「ゲス野郎……いや、へりくつ野郎か」
「いや、もういいです……このまま教室に戻ればいいんですか?」
「さっさと戻れ! 後ろを気にしながらゆっくりと戻れよ? あたしを見失うんじゃねえぞ」
実は寂しがり屋さんなのか? そうだとすればおみ足に加算して、寂しがり先輩としてポイントを増量してあげようじゃないか。
「あっ、しゅう! 何してたんだよー! 先生が来てたけど、何人かいないから今日は自習にするって言って帰ったんだぞ?」
「それは悪かったな。そして良かったな?」
「ボクが先生に言っておいたからなんだぞ。しゅうはボクに感謝しなよ」
「はいはい、偉いエライ」
チラッと後ろを見ると、先輩がイライラを募らせながら教室に入る手前で動きを止めている。さっきまではそこまでキレかけてもいなかったし、むしろ寂しがり屋な先輩として好感度が上がりそうだった。
「だーかーらー! しゅうはボクにエライエライの誉め行為をしなきゃダメなんだよ!」
人前とか学校の中とかお構いなしに、ボクっ娘の妹は甘えを見せて来る。これはいつものようにスルーをしておけば、そのまま何事もなかったかのように終わるのだが……どうやら甘えを見せびらかす妹に対して、キレかかっている先輩が約一名ほどいるようだ。
「おい……そこのガキ……ウザダサいことしてんじゃねえぞこの野郎! 早くそこをどけよ、こら!」
「野郎って、ボクは野郎なんかじゃ――」
「どけっつってんだろうが!」
「うわっっ!?」
どうやら先輩は妹のことを女子として見ていないご様子。いや、それよりも、もしかしたら甘えを見せる奴がお好きではないのかもしれない。それか妹との相性が最悪かのどっちかだ。
「もうーー! また倒されたー! 何だよ、ボクが何したんだよ!」
「それだな」
「どれさ?」
「ボクっ娘のゆう」
「そんなの知らないよ! 手を貸してよ、しゅう」
「はいはい、ほら」
正確にはゆうを倒したというよりも、教室に入っていくために押しのけただけなのだが、余分に何かの力でも込めたに違いない。妹の甘えは慣れているが、先輩は甘えを見せる奴は女だろうが男だろうがお嫌いなのだろう。
「そこのお前ら、席に着いて自習しやがれ!」
「ははー」
「何だよ、偉そうに。原因はダブり先輩なのにさ」
「まぁ落ち着け。愚痴は家で聞いてやるから、口を閉じろ」
「プリンもつけてよね!」
「分かったから、大人しくしとけ」
結局俺の名前を呼んでもくれなかった先輩だったが、踏んづけた俺の顔を念入りに拭いてくれたのは意外過ぎた。そして教室に戻った途端に、真面目さを出している辺りでますます意味不明な先輩としか感じることが出来なかった。
「椿くん、戻ってたんだ? すごーい! 顔がすごい綺麗になってる!」
「おかえりなさいませ」
「うん、ただいま。嵐花ちゃんも教室に戻ってたね。良かったー!」
何気に一番遅かった天然菩薩さまは、天然サボリだったようだが、笑顔が眩しいので良しとしよう。