四四埠頭
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
おお、こーらくん。障害物競争の自主練習かい? 君も熱心だねえ。
……って、おいおい大丈夫か? さすがにバットまわりを数十回してからまっすぐ走ろうとか、よっぽど相性が良い人でない限り、無理、無駄、無茶の三之助だぞ。
――誰かにできることならば、きっと僕にもできるはず?
はあ〜、熱いねえ、まぶしいねえ。
先生もあったよ、こーらくんみたいに考えた時期が。気持ちはよおく分かるんだけどね。。
バットまわり。実は競技やお遊び以外にも意味を持つことがあるんだ。
先生の昔話。少し、付き合ってくれないかい?
先生がこーらくんと同じくらいの、小学生の時。
海に近い学校に通いながら、かなづちだったことに引け目を感じていた当時の先生は、自分の価値を確立しようと躍起になっていた。
それゆえに、学校行事などのイベントがあるたび、なんとしても目立とうとしていたんだ。そうすれば、周りから認めてもらえるから。
足も頭もいまいちな先生だが、不思議とバットまわりだけは上手い。スイカ割りと今度の運動会で待つ、障害物競争のスタートで、実施される。鍛錬に余念はなかった。
運動会まで10日と迫った時。いつものように練習しようとしたところ、クラスの女子のひとりと、体育倉庫でかち合った。
実家が有名な神社だという彼女は、霊感が強いともっぱらの評判。あくまでうわさだけで、クラスでは怖い話をたくさん知っているくらいしか、心霊とのつながりを見せない。
この頃は、女子の成長期。彼女もまた、先生よりちょっぴり背が高くて、ふくよかだった。でも女子どころか、クラス全体でも屈指の足の速さ。
女子と男子では別レース扱いになる、この障害物競争。彼女と直接対決する機会はないが、抜かりなく準備をしようとする様は、勝負師の香りすらしたね。
ただバットまわりに関しては、彼女はとことんダメだった。
先生たちは運動場の隅で練習していたんだけど、どうにかまっすぐ進む先生に対し、彼女はおよそ90度旋回。フェンスや鉄棒にぶつかっていく始末。
――へえ、かわいげがあるじゃん。
口には出さなかったが、どこかしら空気が漏れていたらしい。何本か走った後、不意に彼女が背中をどついてきたんだ。
「あんた。いちいち私の前を走っていくの、うっとおしいんだけど。どっか行ってくんない?」
――また女子ならではの、意味不明な自己中理論だよ。
先生はあきれながら返す。
「はあ? 後から来ておいて、どっかに行けとか、常識知らずのノータリンですか〜、お嬢ちゃん?」
「むかつく……」と彼女は絞り出すように、つぶやいた。
「だったら決闘よ、決闘。勝った方が譲って、負けた方が従うの」
「おう、やんのかコラ? 手加減しねえよ」
シュッシュと彼女の顔向けて、寸止めパンチを2,3発。びびりながら身を引く彼女を見て、鼻で笑う先生。
彼女は顔を真っ赤にすると、バットの丸い先っちょを、ぐりぐり地面に押しつけながら答えた。
「今日の午後10時。『四四埠頭』の倉庫前で待っているわ。自前のバットを持ってきなさい」
「は? 今じゃねえの? しかも夜に四四埠頭って……」
「おじけづいた?」と、今度は挑発する側に回って、ご満悦そうな表情の彼女。感情豊かな女子に魅力を覚えるには、まだ若い先生。
「なめんなよ」とムキになって言い返すと、彼女はにやりと笑って、倉庫へバットを返しに向かったよ。
4号埠頭東側、第4号岸壁。それが「四四埠頭」の正式名称だ。
港そのものに詳しくないであろう小学生たちでも、かの場所については、心霊スポットとして知られている。
話によると、十数年前に、そばにある倉庫の中でコンテナの山が崩れ、作業員が何名か下敷きになった。のみならず、そのコンテナの中身が、法に反する爆発物で、落下の衝撃で爆発、炎上してしまったらしいんだ。
倉庫は屋根も含めて、半分ほど焼け落ちてしまい、今は船の停泊はおろか、人さえもあまり寄り付かない、半ば廃墟になっている場所。
それだけじゃない。最近、夜に四四埠頭の近くを通ったという人は、しばしばお化けを見たというんだ。
河童や半魚人のようなものを見たという人もいれば、石畳全体を覆うほどの大蛇がのたうっていたとか、真っ白い虎が海の上を飛び回っていたとかいう話まで。
映像や写真があったわけでもないのに、先生たちは話だけで震えあがっていた。親たちも何かタブーがあるらしく、聞いていた以上のことは話してくれなかったよ。
夜。先生は内心、おっかなびっくりで四四埠頭へ向かう。
小学生は確実に補導される時間帯だから、人の目につかないよう、道を選んでいたらぎりぎりの時間になってしまった。
「ふうん、来たんだ」
彼女は例の、焼けた倉庫の入り口前でバットを地面につきながら、大股を広げて仁王立ちしていた。
火事以降、放置されている影響か、倉庫の崩れた壁のふちから錆びの筋が数本、雨だれのように、倉庫の足元へ向かって伸びている。
「早く、やるならやろうぜ」と先生は、できる限りの落ち着きを持って、急かす。あまりこの場にとどまっていたくなかった。
彼女はうなずくと、すっと海へ人差し指を向ける。
「あなたの得意なバットまわりよ。この場で30回。頭をついてぐるぐる回る。そしたらそのまま、海へ向かってダッシュ。そして、どれだけギリギリで踏みとどまれるか――チキンレースって奴? あ、あと白線も引いておいたから。ここを外れたら失格ね。二人ともはみ出たら、ドローでやり直しってことで」
白線は陸上競技場のレーン程度の幅しかない。バットまわりをした足では、十分はみ出る恐れがある。
――これ、下手すると共倒れも考えられるレベルだぞ。絶対に一発で決めてやる!
カウントしながら回るように取り決め、準備をする先生と彼女。「い〜ち、に〜い」とあたりをはばかりながらも、お互いには聞こえる声で数え始めた。
15……20……。
先生はぐるぐると、バットをついた石畳を見つめながら、回っていく。彼女の足音もついてきている。
カウント25を過ぎる。さあ、いよいよと力を込める先生だが、何かおかしい。
回るのが止まらない。バットも、先生の足も、身体も。どうにか踏みとどまろうと力を入れても、かえって勢いが増していく始末。くっつけた額も、離すことができない。
その上、秋だというのに、あたりの空気もどこか生温かくなってきた。
顔の間近で無遠慮に開かれた口から洩れるような、むわりと湿気を帯びた、肌に跡を残すのでは、と思ってしまうくらいの気持ち悪さだ。
もう回数は30を超えた。なのに彼女の声は、カウントを続けている。
数が増していくたび、俺を包む空気はますます温かくなっていく。回り続けている後頭部や背中にも、汗とは違う粘りと生臭さを帯びた何かが、つうっと垂れ落ちてきて、広がり出した。
35……40……。
彼女の声は止まず、他の言葉も発しない。それは先生にも「数えろ」と、無言の圧をかけていた。恐る恐る数え始める先生は、やがて新しく異変を感知する。
50回を過ぎた辺りから。石畳が、わずかずつだが近づいてくるんだ。
先生は、自分がどんどん前かがみになり出したことで、その原因を察したよ。
バットの先端が、回るたびになくなっていく。削れているというより、潜り込んでいくんだ。埠頭の固い石畳の中に。
いや、穴がないから、溶け込んでいく、か? 。
相変わらずバットから距離を取れない先生は、回り続けながらも、何度かその視界の端を横切るものを目にした。
いずれも海側へ身体が向いた時。岩壁よりの石畳の上に、先生の腕ほどもありそうな太さの足が四本立っていたり、それが水かきのついた二本の赤い足に変わったり、はたまた石畳全体が、灰色がかってぶよぶよした、巨大な綱らしきものになったり……。
回っているから、どれもこれも一瞬だけ目に入って、すぐに変わってしまう。あれらがちらりとのぞいただけでも、勝手にのどへこみ上げるものが。
身体が本能で、あいつらを拒んでいる……。
「もうちょっとだけ!」
彼女が初めて、カウント以外の言葉を発する。
もう先生のバットは半分以上、石畳の中。先生自身もほとんど膝をつきかけながら、バタバタと回っていた。
空気も、身体を湿らす液体も、視界に陣取る奴らの影も、どんどん鮮明に、どんどん間近に感じるようになってくる。
どこを向いても足が見えて、もう触られる、とあきらめかけた時。
バットがふっと消えた。石畳の中へ、完全に入ってしまったんだ。同時に、先生も拘束から解放され、今まで回り続けていた勢いのまま、その場に倒れ込んじゃったよ。
あの気配も影たちも、もうどこにもない。冷え切った空気が、火照った頬をなでていく。
「ありがとね。だけど……私の勝ち」
すぐ隣でへたれ込んでいた、彼女が告げる。その場でのびた先生の身体は白線をまたいでしまっていたけど、もう、そんなのはどうでも良かった。
しばらく休んでからの、肩を並べた帰り道。彼女は迷惑料といって、自販機で買った缶ジュースを先生に渡しながら、話をしてくれたよ。
四四埠頭の倉庫。あそこは爆発事故があって、多くの犠牲者を出したのも確かだけど、同時に、この世とあの世の境を作っていた「板敷き」が壊れてしまったらしいんだ。
根本から直せる技術はすでに失われていて、もろくなっている場所に「ネジ」を打ち込んで補修するより他にないようだ。それが、あのバットたち。
「お化けのうわさ、聞いていたよね? あれね、こちらへ漏れ出していた一部だよ。結構、限界が近づいていたんだ。今日中にやらないと、もっとまずいことになるくらい。
でも、今回は二か所あるのに、動けるのは私だけ。だからあんな形で、あなたを呼んじゃったんだ。ごめんね。素直に話したら来てくれないと思ったから」
「もう、それはいいけどさ。最初に『来たんだ』って言ったろ? あれ、俺が来なかったら、どうなってた?」
彼女はその問いに、答えることはなかったよ。