壱 入学×図書館×気になること
春それは始まりの季節。社会人然り、学生然り、多くの人々のスタートの季節となるだろう。
【私立神崔学園高等学校】
ここも例に漏れず本日、入学式を迎えていた。
県内でも名の通った学校であり、広大な敷地と設備を誇っており、多くの生徒たちが在籍している。
一学年は基本的に200人と少しであり生徒数だけならば全国平均より若干少ない程度か。
クラスはA~Eクラスまでに分かれており、一クラスは大体40人ほど。
二年に上がると文系理系そして就職系に分けられ、更に文系理系は特進か否かで分けられる事となる。因みに特進は国立大等を狙うものや教師陣が招く、という形で集められる。
さて、既に長々とした学長の話やその他祝電なども終わっており、というか式そのものは終わり、新入生たちはそれぞれ割り振られた教室に集まっていた。
新たな交遊を求めるもの、中学時代の友人との会話に花を咲かせるもの、等など、各々が担任が来るまでの短い間に謳歌している。
「…………~っ、はぁ」
1年C組、廊下側前から六番目の席。黒髪が目元近くまで無造作に伸びた銀縁の眼鏡を掛けた少年が座っていた。
彼の手にはカバーの外された文庫本が一冊。眼鏡の奥で眠たげな瞳が文字を追っている。
因みに席に関しては指定は特に無く、彼がこの席なのは出口に近く直ぐに教室を出ることが可能であるから。
「おっす、夏樹。おはよーさん」
そんな人との付き合いが苦手そうな彼の前の席。フレンドリーに声をかけながら座るのは、短髪に小麦色に焼けた健康的な肌をした大柄な少年。
人懐っこい顔をしており、人気がありそうな少年だった。
「…………もう昼近いけどな。こんにちは、じゃないか?」
「朝に会わなかったから良いだろ?」
夏樹と呼ばれた眼鏡の少年が皮肉げにそういえば、彼はカラカラと笑い応える。
人によっては不快になりそうなぶっきらぼうな言い方も気にはならないらしかった。
「…………」
「また、ソレ読んでるのか?この前10回目とか言ってなかったか?」
「美作…………オレが何読んでもお前には関係ないだろ」
「何で名字呼びなんだよ。普通に大悟って呼べよ」
「…………善処する」
「はぁ…………無愛想なやつだなぁ」
快活な少年、美作大悟は笑って目の前の無愛想な幼馴染にため息をつく。
幼稚園の頃から本の虫。乱読家であり、いつぞやは分厚い辞書を読んでいた事もあった。
何でそこまで本を読むのか、読書の苦手な彼には分からない。まあ、そんなことを聞けばバカを見る目で見られるために絶対言わないが。
実際、高校入試も彼に手伝ってもらって何とか合格できていた。
「……………………何で拝む。オレは地蔵じゃないぞ」
「いや、何か…………何となく」
実際、目の前の友人は天才だ、と大悟は常々思っている。
テスト勉強は、特にせず高得点。身体能力も鍛えていないのに中々に高い成績を残す。
この愛想の悪ささへ無ければもっとモテるだろうに。
まあ、恋人よりも一冊の本や知識に対する知識欲が勝っている事は昔から知っているため、これも言うことはないが。
「そういえば、夏樹。部活はどうするんだ?」
「別に、決めてない。まあ、煩わしくない所に幽霊部員にでもなるさ」
「じゃあ、サッカー…………」
「お断りだ」
「何だよー。やろうぜ、サッカー。お前のディフェンスと俺のオフェンスがあれば敵無しだって」
「嫌だ、ダルい、面倒くさい」
県選抜にも選ばれる実力者である大悟直々のスカウトだったが、彼はにべもなくアッサリと断った。
彼は自分を常に二流と称している。
それは一重に努力をしないため。目の前の愛想のいい人好きのする友人が血の滲むどころか吐血するような練習によって、高みに立つならば、眼鏡の彼は努力無くして進む腐った天才。
一度として、努力したことがない。しようと思ったことも無い。
まず、そんな状況に陥ったことがなかった。
テストは授業を聞き、教科書を読めば解ける。
スポーツは努力なしにぶっつけで割りと大抵の事は見本を真似るだけで出来た。
言わせてもらえば、それ以上に進もうと思えなかったのだ。彼には熱意のねの字もなかった。
だからか、努力できる目の前の友人が時折、羨ましく思える。
誰しも努力せずに何かを成せるならばそれに越したことはないと思うだろう。
しかし、しかしだ。努力というのは人生を人らしく生き生きと突き進むには必須な事。
自分で、頑張り。その頑張りに呼応した結果をもぎ取る。確かに辛いかもしれない。だが、そこには結果と、そして達成感という才能だけでは得ることのできないモノがあるのだ。
努力は必ずしも報われるとは限らない、と言われる。が、努力があるからこそ、人は生き甲斐を感じられる。
努力できない彼には、その生き甲斐が欠けていた。
知識を広く浅く、得ようとするのはその空虚感を少しでも埋めるため。無意識に行っていた事であり、今では活字中毒のようになっている。
坂口夏樹は努力をしらない。
坂口夏樹はどこか全てを諦めたような目で見ている節がある。
坂口夏樹は、挫折を求めていた。
※※※※※
神崔学園高等学校には大きな図書館がある。
何でも何代か前の学長が大のビブリオフィリアであり、無くなる前に蔵書の全てを寄贈したのだ。
ここの校舎は片仮名のエの形状をしており、上の線が特別教室棟、縦棒が渡廊下と生徒用の玄関、下の棒が教室棟となっている。
そして図書館は特別教室棟の西端にあり、三階建ての階層全てをぶち抜き、三教室の壁を取り払って開設されている。
各界は中央に吹き抜けがあり、その回りを囲むように螺旋階段が取り付けられており、それを使って行き来する。
一度の貸し出しは五冊まで、貸出し期間は二週間だ。
その蔵書は多岐に渡り、絵本から絶版となった初版本。医学書や哲学書、建築学の本や、地図。文系部活が出している画集や冊子等々。
とにもかくにも、そこらの市立図書館など霞むようなラインナップだ。
中には巨額が掛けられるモノも何処かにあるらしく、最奥に至っては司書ですら把握できていない。
今は放課後。本日は入学式であり、今日から一週間ほどは多くの在校生は新入生の勧誘に精を出している。
そんな、学園中がドンチャン騒ぎの中、図書館は静謐を保っていた。
外の騒音も本によって吸収され、態々ここに騒音を持ち込む者も居ない。
「……………………」
そんな静謐の城。1000冊は軽く越えている文庫本コーナーにて、夏樹の姿はあった。
古く、日焼けしまくったモノからマダマダ新しく、誰の手垢のついていないモノまで、本好きには眺めているだけでも時間を潰せそうな場所だ。
前述のとおり、彼は乱読家。だが、敢えて挙げるならば文庫本や新書を好む。
それは偏に持ち運びの問題。
神崔学園の制服は男子は学ラン、女子はセーラー服。学年の見分け方は上履きの色、若しくは女子限定だがリボンの色で判別できる。
そして、文庫本や新書は学ランの上着のポケットにスッポリ収まるのだ。まあ、新書は頭がチラリと出てしまうが。
学園まで、徒歩と電車で通う彼からすれば、一々鞄に仕舞わねばならないハードカバーは敬遠せざるをえなかったのだ。
まあ、究極的には彼は本が読めればいい。実際文庫や新書を選ぶ理由は持ち運び以外には無いのだから。
そんなわけで、夏樹は場所を移した。本の密林をくぐり抜けてたどり着いたのは、洋書のコーナー。
ここも比較的、彼にとっては馴染みの薄い分野だ。
理由は単純、訳が面倒くさいから。
出来ないわけではない。やろうと思えば辞書を片手に、英語のみならず、ドイツ語だろうとフランス語だろうと、何だろうと和訳することが可能だ。
ただ、その過程で出てくる労を嫌うのみ。
「………………………………ん?」
その種類はやはり、多種多様。
天井から、床までギッチリ詰められた本棚を何度も上から下、下から上、と見ながら奥へと視線を動かしていると、不意に誰かが居ることに気が付いた。
夏樹の身長は凡そ、170と少し。今も伸びているが、中学で最後に計ったときはそれぐらいだった。
そんな彼が気付いたのは、一人の少女。仮に横に並べば見下ろす形になりそうな小柄な少女であった。
身長は目算で150あるか無いか、といったところ。ショートボブ程の髪の長さであり、前髪が目元を隠している。
別に図書館は誰のモノでも無いため、誰が居たところで問題はない。が、何故その少女に目が行ったのか。
答えは簡単。高い棚にある洋書に背伸びをしながら手をプルプルと震わせて伸ばしているのだ。
なんというか、ほほえましい。だが、それ以上に危なっかしい。
本棚、というのは存外倒れやすいモノだ。中の重心が安定せず、固定されていなければ周りを巻き込み将棋倒し。
一瞬その光景を予感した夏樹は足早に彼女に近寄ると、目線、そして手の位置からとりたい本を逆算し横からかっさらった。
突然の事態。背伸びをして止まってしまった少女は油のキレたブリキの人形のようにギギギッと首を動かし、今まさに隣に来た存在へと目を向ける。
「ほら、これだろ」
反射的に叫ばれる、と予感した夏樹。なるべく声色を平坦にしながら、淡々と本を差し出した。
そんな彼の内心は、似合わねぇ、一色である。
因みに夏樹の知らぬ所ではあるが、彼は教師や中学時代の同級生達からの評判は悪くない。
教師陣からは、面倒を起こさず、尚且つ成績優秀な生徒として。
同級生達からは、困ったときに本人の意図した事ではないが然り気無く助けてくれる所からだ。
つまり、本人は似合わないと思っているが知り合いから見れば、いつも通り、ということ。
「…………あぅ…………えっと、その…………あ、ああああありが、とう…………」
「あ、ああ。どういたしまして」
どうやら見た目通り、この少女は他者とのコミュニケーションが苦手であるらしい。
そんなことを考えながら、夏樹は彼女の観察を気付かれないように然り気無く済ませていく。
特に特筆することはない。だが、一点だけ気になるところがあった。
(包帯…………?)
モジモジと体の前で組まれた腕。セーラー服の袖より先、手首付近チラリと気になる白が覗いていた。
手首の包帯。考えられる事としては、単なる怪我。悪く見れば、リストカットや根性焼きなど様々な要因が考えられる。
とはいえ、気づいたからと言って夏樹が動くとは限らない。仮にその怪我が家庭事情に依るものならば一介の高校生、それも他人である彼に出来ることなど無いに等しいからだ。
「あ、あの…………坂口君、だよね?」
「……………………オレ、名乗ったっけか?」
「い、一応、同じクラス、です」
「…………何か悪い」
「あ、ああ!違うんです!坂口君は悪くありません!私が勝手に呼んじゃっただけですから…………」
大声を出してしまったことが恥ずかしいのか、彼女は頬を染めて尻すぼみに小さくなってしまった。
補足すると入学式が終わったあとに教室に集まった際に自己紹介は行われている。
問題は、夏樹がその大半を聞き流していた点だ。
自分に社交性が無いことを自覚していながら彼はそれを治そうとしない。
その一端を担う他人への興味の薄さである。
「あの、私、は…………世良茜、といいます」
「世良さんか…………よろしく。知ってるみたいだが、オレは坂口、坂口夏樹だ」
そう自己紹介を返しながら夏樹は他人にフルで名前を伝えるのは何時ぶりだろうか、等と考えていたりする。
クラスで自己紹介をした筈なのだが、それは“誰か”に向けたモノではなく、教師からの命令に従ったのみ。それ以上の意図も理由も無い。
そして、沈黙。人見知りする茜もそうだが、対人能力に難有りの夏樹も相手への話題などある筈もない。
「……………………んじゃ、オレは行くから」
結局、夏樹から切りだし、この場はお開きとなった。
故に気づかなかった。直ぐに背を向けて歩き出してしまった為に、夏樹は気づくことが出来なかった。
茜の傷のあると思われる手が伸ばされていたことに。
彼は気づくことが出来なかった。